第112話 女神の正体
客室の応接ソファに腰を掛け、リズさんの淹れてくれた紅茶を口にしつつ、わたしたちはベアトリーチェの話に耳を傾けることにしました。
「わらわは、あの『賢者の石』に触れた時、アレが内包する『真実』を知った。八番目の御使い──この能力を手に入れた時以来、追い求めてきた『世界の真実』を……な。わらわは真実を探求することに生きがいを見出してきたが、あれはあまりにも唐突過ぎた。自殺する気はなかったはずじゃが、自暴自棄になってしまったことは否定できん」
「うーん。夢があっさり叶ったりすると、燃え尽き症候群になりやすいってよく言うもんね」
「燃え尽き症候群? なんじゃそれは」
「ああ、ごめん。気にしないで。続けてくれていいよ」
「うむ。一言でいえば、わらわが知ったのは『女神』の正体じゃ。信仰の要とも言うべきそれを、敵の本拠地とも言える場所で知らされたというわけじゃな」
確かに、信仰心の篤い人々にとっては、がっかりするような『神の正体』など、知りたくはないところでしょう。しかし、わたしがそう言うと、彼女は小さく首を振りました。
「がっかり……というのとは違うな。どちらかと言えば、『恐ろしくなった』と言うべきじゃ」
「恐ろしく? どういう意味ですか?」
「二つの世界がせめぎ合う世界。しかし、もしもの話じゃが、それが単なる偶然ではなく、誰かがそう仕向けたからだ……と言ったらどう思う?」
「誰かが仕向けた? 亜空間に漂う世界を操作し、二つをぶつけた何者かがいると? そんな馬鹿な……!」
わたしは思わず、声を大きくしてしまいました。確かに、無限の空間とも言うべき亜空間において、世界と世界がぶつかり合う可能性など、天文学的確率などよりさらに低い、いわば『次元科学的』な超低確率です。
ですが、だからと言って『世界そのもの』を動かしてしまえるような存在など、絶対にありえないはずでした。
「……ヒイロよ。お前は『精神世界』という言葉を知っておるか?」
「精神世界……ですか?」
「……『教会』の教義では、せめぎ合う二つの世界のうち、『精神性が優位にある世界』を言う。『王魔』の故郷でもある世界だとされておる。『賢者の石』から無限とも言える魔力が生まれるのは、あの石こそ、二つの世界をつなぐ『完全物質』であり、いわば『女神の座』への入り口だからだとされておる」
「……実際には違う。そうおっしゃりたい口ぶりですね?」
わたしはベアトリーチェの表情を窺いながら、そう尋ねました。
「ああ。それこそがわらわの知った真実じゃ。賢者の石──それはつまり、『女神の愚盲』の感染源であり、この世界に『打ち込まれた楔』でもある」
「『女神の愚盲』……確か、謁見の間でも言っていましたね?」
「うむ。言うなれば、『不完全な己を完全なものにしようとする意志』じゃ。そして、賢者の石はそうした『願い』の結晶体でもある。そういう意味では、アレを『完全物質』と呼ぶことは間違いではない」
「なるほど……」
相槌を打ちながら、わたしは違和感を覚えていました。『意志』……というのならば、それは一体、誰のモノだと言うのでしょうか?
「『女神』は意志、『王魔』は想念、『法学』は知識。それぞれが異なるアプローチで、この物質世界を侵食し、自己に取り込もうとしている。そして、その源流は……精神世界そのものじゃ」
「世界の、意志?」
「そうじゃ。もっとも、わらわが触れた『賢者の石』はこの国の『想念の欠片』だけじゃからな。他の二つに触れてみなければ、本当の意味で『女神の正体』を理解することは叶うまいが……」
「え? 他の二つ? この国以外にも『賢者の石』ってあるの?」
ここでそれまで眠そうに話を聞いていたマスターが、急に首を傾げて尋ねました。
「うむ。……わらわが知る限り、アレと同じものは、神聖王国アカシャの『大聖堂』とアルカディア共和国の『大法学院』にしかないはずじゃがな」
「へえ、残念。世界に唯一の物ってわけじゃないんだね」
「意味の分からないことを言う男じゃな」
ベアトリーチェはわからなくても、わたしにはわかります。マスターはおそらく、『賢者の石』について、『ありふれた硝子の靴』が使えるかどうか、考えていたのでしょう。
「じゃが、先にも言ったが、あれはあれで世界で唯一のものじゃ。『想念の欠片』はあれ一つなのじゃからな。それがどうかしたか?」
「なるほどね。それはいいこと聞いちゃったな。まあ、それはともかく、三つの役割って考えると、『王魔』と『女神』と『法学』の本拠地にあるだなんて、なんだか象徴的だね」
「うむ。偶然とは思えんな。先ほど言った三つのアプローチと関係があるのは間違いあるまい」
「でもそれなら、バランス的には『愚者』の本拠地にも何かありそうだよね?」
「『愚者の聖地』か? さあな。あの奥地に足を踏み入れるのは自殺行為じゃ。確認のしようはないが……」
「よし、いつか観光旅行で行ってみよう!」
「いやいや! 無理だと言っておろうが。人の話を聞いていない奴じゃな……まったく」
呆れたように言うベアトリーチェの顔は、少し楽しげにも見えました。
「でもさ……それは別にしても、君の言うとおり三つの石が別々の役割を持っているのなら、他の『賢者の石』に触れれば、さらに何か分かることがあるわけだよね?」
「む? まあ、それはそうじゃが……」
「知りたくないかい? 君の生き甲斐は、真実を探求することなんだろう?」
「ま、まあな。じゃが、『大聖堂』はもちろんのこと、アルカディア共和国の『大法学院』も侵入が容易な場所ではない」
「でも、不可能じゃないよ。今、ここにいるメンバーが力を合わせれば、大抵のことはできると思うけどな」
「む……じゃ、じゃが、なぜ、突然そんなことを言い出す?」
マスターの誘い文句に、彼女の心は徐々に傾き始めているようです。
「決まってるじゃん、君が知りたそうにしてるからだよ」
「意味が分からん。……お前たちには関係があるまい。いくらなんでも、危険を冒してまで世界の真実を追い求める理由などなかろうに。この国で平穏無事に暮らしておればよいではないか」
「嫌だなあ。僕はこれでもSランク冒険者を目指してた男だぜ? 冒険こそ男のロマン。平穏無事な生活なんて、そんなんで満足するわけないじゃないか」
なぜかドヤ顔でそんな言葉を口にしたマスターですが、それを理解できるメンバーがわたし以外に誰もいないことが残念でした。
「……キョウヤさん。またわけのわからないことを言い出しましたね」
「ねえ、リズお姉ちゃん。Sランク冒険者ってなに?」
「いえ、メルティさんは気にする必要はありませんよ。いつものキョウヤさんの冗談でしょうから」
そんなリズさんとメルティの会話に、若干傷ついたような顔をしつつ、マスターは気を取り直して言葉を続けました。
「まあ、真面目な話をするなら、僕ら……特に僕とヒイロのことだけど……僕ら二人にとっては、この世界の真実を知ることは重要なんだよ。なにせ外の世界から迷い込んできたきり、迷子になっちゃってる状態なんだからね」
言いながら、わたしに視線を向けてくるマスター。
なるほど、ようやくわたしにもマスターの意図するところがわかりました。
この世界に来た当初、わたしにはこの世界の座標をはじめとする、【次元移動】に必要な各種情報を知ることができないでいました。その原因はこの世界が他の世界と大きく異なる性質を持っているからだと考えられるのですが、その解決方法まではわからないままだったのです。
しかし、もし仮にこの世界の真実が明らかになれば、その方法も、つまりは【次元移動】の方法も、わかるかもしれないということになります。
「まあ、僕は意外とこの世界が気に入ってはいるけれど、異世界案内人のヒイロにとっては、移動すること自体ができない状態っていうのは、きっとストレスだと思うんだよね」
「あ……マスター。ありがとうございます」
思いもがけない彼の気づかいに、わたしは他に返す言葉が思いつきませんでした。
「ちょ、ちょっと待て。お前は何を言っている? 外の世界から来たとは、どういう意味じゃ?」
そう言えば、メルティを除くこのメンバーの中では唯一、ベアトリーチェだけがマスターが『異世界人』であるという事実を知らなかったのでした。
「マスター。どうしましょう?」
「うん。もちろん、ヒイロが説明して納得してもらうよう、頑張ってほしいな。僕が言っても絶対信じてくれないだろうから」
「そうですね……。でも、自分で言っていて悲しくなりませんか?」
「え? なんで?」
「いえ……なんでもありません」
けろりとした顔で言われ、わたしは盛大にため息を吐いてしまいました。それからやむなく、ベアトリーチェにわたしたちのことを説明したのですが、やはりここでも【因子演算式】などのこの世界に存在しない技術を使って見せなければなりませんでした。
「ほう……『神器の召喚』でもないのに、何もない虚空から器物を生み出すとは驚きじゃわい」
わたしが作製したマグカップをしげしげと眺めつつ、彼女は感心したように息を吐いています。
「まあ、二つの世界が存在する以上、もっと無数の世界があってもおかしくはないか」
結局、そんな理屈で納得してくれたようですが、彼女の場合、それからが大変だったのです。
「で? 世界の外側とは、どんなものなのじゃ? 他にはどんな世界がある? 生き物はこの世界のものと同じなのか? ああ、知りたい! 知りたいぞ!」
探求心の強い彼女から、こんな形で質問攻めになってしまい、しばらく解放してもらえそうもなかったのでした。
──その日の夜。
わたしとマスターは、誰もいない『謁見の間』に二人きりで立っていました。
「うん。さすがはヒイロだね。ここまですんなり侵入できちゃったよ」
そんな風にマスターは褒めてくれましたが、実際には彼の『鏡の国の遍歴の騎士』や『わがままな女神の夢』といった各種スキルの恩恵の方が大きかったように思います。
「それに、ここ最近、メルティが僕の部屋に来なくなったからね。彼女に付いてこられたら、ちょっと大変だったかもしれないし」
「ふふふ。少し残念そうですね?」
「う……。まさか、ヒイロにからかわれる日が来るなんてね」
「あ……すみません」
「謝らなくていいよ。むしろ、ヒイロがそうやって可愛いところを見せてくれるのは、嬉しいからね」
「……あう。そ、それはともかく、本当にやるんですか?」
わたしは恥ずかしさをごまかすように玉座の方に顔を背け、ぶっきらぼうに問いかけました。
「もちろん。世界で唯一の価値があるものなんて、そんなに簡単に見つからないでしょ? だったら、できるときにやっておかなくちゃね」
「それはそうですが、さすがに『賢者の石』はスケールが大きすぎます。性質が反転した複製物がどんな効能を持つのかさえ、予測もつかないんですよ?」
「大丈夫。『いびつに歪んだ線条痕』も併用して、ちっちゃいものの複製にするからさ」
マスターはゆっくりと、玉座の奥にある巨大な水晶柱に近づいていきます。ベアトリーチェが言っていたとおり、四本の水晶柱の根元には、それらが一体となった巨大な水晶の塊ができているようです。
「さて、それじゃあ始めようか。……いびつに歪んだ『ありふれた硝子の靴』」
四色の光が混じり合う根元部分に右手を触れたマスターは、反転複製のスキルを発動させます。
するとたちまち、『謁見の間』に光があふれ、わたしはその光が外部に漏れないよう、【因子演算式】を構築する作業に忙殺される羽目になりました。
どうにか周囲にばれないまま光が収まったところで、マスターに意識を向けてみれば──彼の左手には、『何か』が握られています。
黒々と輝き、鏡のようになめらかで、心臓のように脈打つ『ナニカ』。
わたしは、その名を知っています。次元世界を旅する者にとっては、見慣れたものであるには違いありません。亜空間にのみ存在し、世界そのものと理を異にする物質。禍々しく、すべてを飲み込み、すべてを狂わせる波動を内包した存在。
その名は──【ダークマター】
次回、「第113話 旅立ちの日に」