第104話 天真爛漫な彼女
「うちの娘と仲が良さそうなところを見ると……あなたがクルス・キョウヤ君?」
床に降り立ったシルメリア王妃は、鋭い目つきでこちらを睨みつけながら、ゆっくりと歩み寄ってきます。彼女の視線を受け、わたしとエレンシア嬢は慌ててマスターから身体を離しました。しかし、アンジェリカだけは彼の腕にしがみついたまま、近づいてくる母親の顔を見つめています。
「お母様! お帰りなさい!」
「ただいま。アンジェリカ。ふふふ、元気そうで何よりだわ」
無邪気な笑顔で元気よく声をかけてきたアンジェリカに、王妃は母親らしい優しげな表情で笑い返しています。
しかし、続いてマスターに顔を向けた彼女の瞳には、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが宿っていました。
「えーっと、はじめまして。シルメリアさん。お尋ねのとおり、僕が来栖鏡也です。キョウヤと呼んでいただいて結構ですよ」
対するマスターは、まるで動じた様子もなく、呑気な調子で挨拶を口にしています。彼について今さら言葉遣いをどうこう言うべきではないのでしょうが、初対面の、それも仮にも一国の王妃様を相手にするには、あまりにも砕けた口調でした。
「ええ、はじめまして。色々と聞きたいことはあるのだけれど、まず先に今の暴風の中でどうして平然と立っていられたのか……とか、聞いてもよいかしら?」
しかし、それを受けたシルメリア王妃は、特に気分を害した様子もなく問いかけの言葉を口にしました。他意も含みも感じさせない、本当にただの興味本位で聞いていることが明らかな口調です。
「いいですけど、理解はできないと思いますよ」
「そんなの、聞いてみなくちゃわからないじゃない」
「えっと……一言でいえば、僕は今、『空気抵抗の言うことを聞かない』ことにしたんです。だから、どんなに風が吹いても吹き飛ばされることはないってわけです」
平然と言ってのけたマスターですが、下手な説明にもほどがあります。まともに理解させるつもりすらないのでしょうか。
詳しく言えば、このスキルは、自分の肉体に作用する法則性を局所的に捻じ曲げたりしているわけではなく、根本的に『自身の存在を法則性から宙に浮かせて』いるのです。
物理法則など関係なく、それが『空気抵抗』の影響による力だと認識できるものであれば、あらゆる作用を受け付けない。だからこそ、わたしたちにしがみつかれたマスターは、わたしたちが吹き飛ばされようとする力の作用さえ、無視してしまえたのです。
「ぷふ! あはははは! 面白いわね。さすがはアンジェリカが伴侶に選んだ相手だけはあるわ」
しかし、彼の適当な説明にも関わらず、王妃は鋭かった視線をたちまち和らげ、愉快そうに声を上げて笑いはじめたのでした。
「それはそうよ。キョウヤはすごいんだから!」
そんな彼女にムキになって言い返したのは、いまだにマスターの腕にしがみついたままのアンジェリカです。母親の前だと言うのに、彼から離れようとしないのも『己の欲望に忠実』なニルヴァーナならではなのでしょうか。
「ふふふ! そうねえ……それに、随分と女の子にモテモテみたいだしね。まったく……大したものだわ」
「あ、いえ……決してそういうわけでは……」
感心したようにこちらを見る彼女に対し、わたしは慌てて弁解の言葉を口にします。自分の娘の婚約者に付いた『悪い虫』などと思われ、敵対視されて敵いません。
しかし、王妃はその場で首を振りました。それどころか……
「いいのよ。他の娘と一緒にうちの娘も大事にしてくれるならね。むしろ、側室の二人や三人、持ってくれた方が包容力があって安心できるわ」
あまつさえ、そんな耳を疑う発言までしてのけたのです。ここで気になったわたしは、彼女に次のような質問をぶつけてみました。
「しかし、聞いた話では王妃殿下は国王陛下に側室の存在をお許しになっていないという話でしたが……」
「殿下はやめて。そんなの、わたしの柄じゃないわ。その質問に答えるなら、そうねえ……どっちかって言うと、彼のためよ」
なぜかシルメリア王妃は、声を潜めるように手の甲を口の横に当て、こちらに顔を近づけてきました。
「え?」
「彼ってほら、人一倍『支配欲』が強いから国を作って国王になった……とか言われてるでしょう?」
しかし、声を潜める仕草の割に、彼女の声は大して抑えられてはいないようです。
「でも、それはそれで物足りないみたいでね。まあ、無いモノねだりって言うの? 要するに、『誰かに支配されたい』って欲求もあるのよ。だからわたしが……」
「うおおおおおい! シルメリア! おまっ! 何を勝手なことを!?」
焦ったように叫ぶジークフリード王の様子を見る限り、どうやら彼女の言葉は図星のようです。
「勝手も何も……こうして同じ彼氏に仲良く抱きついていたところを見る限り、この紅い髪の子もアンジェリカの友達でしょ? だったら、家族も同然じゃない。真実を知る権利はあると思うんだけど……」
「何が真実だ! 口から出任せもいいところだろうが!」
「あら……そう?」
意味深に目を細めて笑うシルメリア王妃。対するジークフリード王は、そんな彼女の視線に明らかな動揺を見せています。
「……う、な、何が言いたい?」
「いいえ、なんでもなくてよ?」
「ぬぐ……」
いずれにしても、彼が妻の尻に敷かれてしまっていることだけは、間違いないようでした。
「……あ、ごめんなさいね。娘の友達のことなのに、『紅い髪の子』なんて呼んでしまって。よろしければ、自己紹介してもらえるかしら?」
「あ、は、はい」
屈託のない笑みを向けられて、わたしはようやく緊張を解き、エレンシア嬢ともども彼女に自己紹介を済ませました。
「彼の従者とユグドラシルの女の子……ね。なるほど、良かったわ。アンジェリカにも同じ年頃のお友達ができて。これからも、娘のことをよろしくね?」
「あ、はい」
「こ、こちらこそ。よろしくお願いいたしますわ」
揃って頭を下げるわたしとエレンシア嬢。シルメリア王妃は、そんなわたしたちの姿を満足げに見つめた後、改めて真剣な表情でマスターに向き直りました。その前に軽く目配せをされたのか、ここでようやく、アンジェリカが彼の身体から腕を離したようです。
「……キョウヤ君。あなたには、あらためてお礼をさせてもらわなくちゃいけないわね。こっちの馬鹿父と娘の仲を取り持ってくれたこともそうだけど……なにより、メルティのことを……」
そう言って、深々と頭を下げるシルメリア王妃。対するマスターは、気にするなとばかりに首を振ります。
「いえ、僕はただ、自分がやりたいことをやっただけです。お礼なんていいですよ」
「そんなことを言っていたら、『ニルヴァーナ』同士に恩義は生まれないでしょ。結果として自分が助けられたなら、礼はする。当然のことよ。だから、してほしいことがあれば、何でも言ってちょうだい」
「うーん。そう言われても、してほしいことなんて特にないですけど」
真摯なまなざしで告げてくるシルメリア王妃に対し、マスターは特に興味もなさげに言葉を返すばかりです。しかし、その直後のこと。
「そう? ちょっとエッチなお願いでもいいのよ?」
「マジですか!?」
「ちょっと、キョウヤ! そこでどうして目の色を輝かせてるわけ!? さっきまでと全然態度が違うじゃない!」
そこに金切り声で割り込んできたのは、もちろん、アンジェリカです。
「お、おい! シルメリア! お前、何を馬鹿なことを……」
さらに娘同様、ジークフリード王も血相を変えて彼女に食って掛かろうとしますが、シルメリア王妃はそんな彼らにうるさげな目を向けて両手を振りました。
「何よ。冗談に決まってるでしょう? まったく、その場のノリってものを理解していないんだから。即興で乗ってきてくれた、キョウヤ君を見習いなさいよね」
そう言って彼を指さしながら、振り返る王妃様。
しかし、どうやら彼女、とんでもない誤解をしているようですね。
「え?」
彼女が指差した先には、酷くがっかりした顔で肩を落とし、この世の終わりだとでも言いたげに力なく息を吐くマスターの姿がありました。
「じょ、冗談? そ、そんな馬鹿な! うう……純情な少年の心を、こんな風にもてあそぶなんて……」
「えっと……まさか、本気にした?」
「……し、信じてたのに。僕、僕……もう二度と、年上のおねーさんの甘い言葉には騙されないぞ!」
決意も新たに握り拳を作って断言するマスターですが、恐らく明日には忘れてしまっているに違いありません。
「あ、あはは……えっと、アンジェリカ? その、今さら言うのもなんだけど……彼、大丈夫なのかしら?」
「な、何言ってるのよ。キョ、キョウヤは……すごいんだから」
先ほどと同じセリフを繰り返そうとするアンジェリカですが、その声からは、明らかに力が失われてしまっているようでした。
──それからわたしたちは、再び『吹き荒ぶ神風の化身』を使おうとするシルメリア王妃を押しとどめ、すぐにメルティを謁見の間に連れてくることにしました。
メルティは今、ベアトリーチェの監視役として、リズさんと二人で彼女を軟禁している客室にいるはずです。
王城内の廊下を駆け抜け、部屋の前にたどり着くと、中から声が聞こえてきました。
「緑は芽吹き、花は咲いて、小鳥はさえずり、大地は唄う。この美しい世界に、生まれいずる奇跡、女神の御名に捧げよう……」
美しく響く声は、話し言葉ではなく、どうやら歌のようです。
「なんだろう? 讃美歌みたいに聞こえるけど……」
マスターが合図のノックをすると、わずかに間を置いてからゆっくりと扉が開かれ、リズさんがわたしたちを招き入れてくれました。
「ああ、皆さん。陛下の御用事は終わったんですか?」
そう尋ねてきたリズさんは、どことなく上機嫌に微笑みを浮かべています。
「いや、そのことで話があってきたんだけど……この歌は……」
耳に心地よい歌声が室内に響く中、部屋の中心では、ベアトリーチェとメルティの二人が向かい合わせに椅子に座っているようです。聞こえてくる歌詞の内容も相まってか、白銀の髪の聖女と黒髪の少女の二人は、神々しくも美しい女神のような雰囲気を漂わせていました。
「ええ、メルティさんに遊びをせがまれたベアトリーチェさんが、彼女に歌を教えてくれたんです」
「……す、すごいですわ。普段の彼女からは想像できないくらい、綺麗な歌声……」
エレンシア嬢が思わず胸元で手を合わせ、うっとりした顔で見つめる先には、普段の無邪気な様子とは打って変わって、大人びた美声を張り上げるメルティの姿があります。一方、彼女に歌を教えたというベアトリーチェは、その歌に聞き入るように目を閉じて体を揺らし、ご満悦の様子でした。
シルメリア王妃からは急ぐように言われていますが、この歌声を中断させるなんてとんでもないことです。幸いにしてこの讃美歌はそれほど長いものでもなかったらしく、メルティは最後の余韻を美しく響かせた後、満足げに息を吐いて微笑みました。
「……おお。なんということじゃ。メルティ。お前は本当に可愛い子じゃのう! よもやこんなにも美しい歌声を聞かせてもらえるとは……。いやはや、これほどの声の持ち主は、『教会』の聖歌隊にもいなかったぞ」
ほんのりと上気した頬を緩ませ、ぱちぱちと拍手を繰り返す聖女様は、涎を垂らさんばかりの顔でメルティを褒め称えていました。あまりに夢中になっていたせいか、わたしたちの存在にも気づいていないようです。
「メルティ、すごいじゃないか。歌、上手だね」
「あ、キョウヤ……」
こちらに気付き、満面の笑みを浮かべたメルティは、椅子から反射的に立ち上がろうとしたところで、何かに気付いたように動きを止めました。
「あれ?」
いつものとおり、自分に向かって飛びついてくるだろうと身構えていたマスターは、不思議そうな顔で首をかしげています。どうやら彼は気づいていないようですが、メルティが少しはにかんだ表情を見せているところを見ると、先日のわたしとの会話が影響していることは間違いなさそうです。
一方、それまで目を閉じて歌に聞き入っていたベアトリーチェはと言えば、
「き、貴様……いつの間に! 盗み聞きとはどこまでも呆れた男じゃな。メルティの天使のような歌声は、貴様のような男にはもったいないわい」
心底嫌そうな顔をマスターに向けてきています。しかし、彼に対する呼称が『うぬ』から『貴様』に変わっているのは、何か心境に変化があってのことなのでしょうか。
「そうだね。僕一人で聞くにはもったいない歌声だったよ。一度、コンサートでも開いてあげたいくらいだけど……今はその前に、済ませなきゃいけない用事があるんだ」
マスターはシルメリア王妃のことを簡単に説明したのですが、メルティも彼女の名前だけでは何も思い出せないのか、特別な反応は示しませんでした。
「ふうん。会いに行けばいいの? うん。いいよ。いろんな人とお話しするの、メルティ、好きだから」
「よし、それじゃあ早速戻ろうか。アンジェリカちゃんがなだめてくれているとはいえ、シルメリアさんも首を長くして待っているだろうからね」
しかしここで、わたしはある問題に気付きました。
「マスター。メルティを連れていくとなると、ここには誰を残しますか? ベアトリーチェさんの元にリズさんだけを残していくわけにはいきませんし……エレンシア嬢に残ってもらいましょうか」
そう、こうして和気あいあいと過ごすベアトリーチェを見ていると誤解してしまいそうですが、彼女はいまだ敵の立場であり、軟禁中の身なのです。戦う力のあるメンバーの監視は常に外せないところでした。
しかし、ここでマスターは思いついたように言いました。
「うーん。考えてみたら、国の幹部の人たちは別にしても、王様たちぐらいには、ベアトリーチェさんのことを話しておいてもいいかもしれないね。ほら、ちょうどいい具合に謁見の間も人払いされているしさ」
「なるほど。それはそうかもしれませんね」
わたしは納得して頷きましたが、まさかこの時は、メルティとベアトリーチェの二人を『謁見の間』に連れていくことで、あんなことになろうとは思ってもみなかったのでした。
次回、「第105話 自由奔放な彼」




