第95話 せめぎあう世界
部屋へと戻ったわたしたちは、さっそくベアトリーチェを囲み、彼女の話を聞くことにしました。客室中央に置かれたテーブル席のうち、中央に彼女が腰掛け、他の皆がそれぞれ他の席に着く形です。
ちなみに、さすがに血で汚れたメイド服は着られませんので、ベアトリーチェは現在、こちらで用意した簡素なドレスに身を包んでいます。
「……な、なあ、ヒイロ。どうしてキョウヤだけ、床に座っているんだ?」
なぜかアンジェリカがビクビクしたような顔で、わたしに問いかけてきます。わたしは彼女に向かってにっこりと微笑み、できるだけ穏やかな言葉で返事をしました。
「さあ? ご本人に聞いてみていただけますか?」
「怖っ! 目が全然笑ってない……」
なぜか身震いするアンジェリカ。彼女は諦めたように首を振り、床に正座したままのマスターに視線を向けました。
「いったい、何をやらかした? ヒイロがここまで怒るなんて……尋常じゃないぞ?」
「……はい。人間として、恥ずべきことをやりました。生まれてきてごめんなさい。どうか僕をなじってください」
「怖っ! こんなキョウヤ、初めて見た!」
マスターの自虐的な発言に、アンジェリカは上擦った声を上げています。
その横では、彼女の袖をエレンシア嬢が引っ張っていました。
「……い、今のヒイロに、その件について聞いては駄目です」
「う、うん。わかった……」
二人そろってわたしの顔色を窺っていますが、一体、どうしたというのでしょう?
「ふん。よくわからんが、わらわとしては、良いことだと思うぞ? 男など万死に値する連中ばかりだが、仮に生かしておいてやるにしても、同じテーブルに着くなど吐き気がする。地べたに座るがお似合いだろう」
彼女はマスターを侮蔑混じりの視線で見下ろし、辛辣な言葉を口にしながら笑いますが、事の真相を知れば、この程度では済まなかったでしょう。
〈マスター、わかっていると思いますが、もし先ほどのことが彼女に知れれば、全力で攻撃を受けても文句は言えませんよ?〉
〈うん。わかってる……〉
暗く沈んだ声でつぶやくマスター。あの後わたしは、マスターに対して『早口は三億の得』を使い、体感時間にして二時間相当のお説教を行いました。その結果が今のマスターの有様につながっているわけですが、わたしとしては、今もなお、溜飲が下がったとは言い難いところです。
よりにもよって、知らないうちにわたしの感覚を一方的に共有するだなんて……。わたしの視界で見ていた以上、見えたものの大半はベアトリーチェの裸体でしょうが、わたし自身の身体も見えなかったはずはありません。そう思うと、顔から火が出そうなくらいに恥ずかしくなってしまいました。
とはいえ、それでもマスターには、情状酌量の余地があるとは思うのです。なぜなら、この件についてわたしが彼を問い詰めた時、彼が口にした『犯行の動機』──それは、次のようなものだったというのですから。
〈聖女様に関しては、信用できる相手でもないだろう? だから、いくらヒイロが彼女に湯浴みのやり方を案内するのに適任だからって、二人きりにするのは不安だったんだ。強力な魔法使いでもある彼女が相手なら、いくらヒイロだって万が一ということはあるんだし……〉
そう言われてしまえば、確かに一理あると頷かざるを得ません。とはいえ、それならそれで、他にもやりようはあったはずですし、根本的な部分には、ほぼ確実に下心があっただろうことも明らかです。
そうした諸々の事情を考慮した結果、わたしはマスターに、反省の意味を込めて床に座っていただくことを『提案した』のでした。
「ふーむ。物足りんな。わらわが《拷問具》として、膝の上に乗せる重りと脛の下に敷く尖った石材を用意してやろうか?」
「いえ……結構です。それより、そろそろ本題に入っていただけませんか? 貴女の言う『完全に完成された完璧なる世界』という言葉の意味を教えてください」
正直、わたしにはそれほど気になる話でもありませんが、『女神』の教会にまつわる情報であれば、ひとつでも多く仕入れたいところでした。
「ふむ。まあ、よかろう。だが、約束通り話し終えたら、メルティちゃんと一緒に、お風呂に入らせてもらうからな?」
「な、何を言っているんです? 約束がエスカレートしてるじゃありませんか!」
メルティをかばうように割って入ったのは、彼女の保護者役を自任するリズさんです。
「おお、よかった。だいぶ元気を取り戻したようじゃな? 先ほどは残酷な光景を見せてしまって悪かった。申し訳ない」
しかし、ベアトリーチェはそんな彼女の言葉には取り合わず、代わりに謝罪するように頭を下げてみせました。
「う……」
するとリズさんは、グラキエルが『鋸挽き』されている光景を思い出してしまったのでしょう。再び顔を蒼くしてしまいました。今は無邪気な顔をして椅子に腰かけているベアトリーチェですが、彼女がああした狂気の持ち主であることは、今も変わりがないのです。
「雑談はさておき、本題に入ってやろう。一言でいえば、現在の世界は『不完全な状態』にある……というのが教皇や枢機卿の考えなのじゃ」
「不完全だと? どういう意味だ?」
「ふむ、竜種の娘か。威勢が良いのう。ならば、お前も聞いたことがあろう? 太古の昔、この世界には『七つの種族』があったという話を。竜種ニルヴァーナ、蛇種サンサーラ、界種ユグドラシル、獣種フェンリル、小人種フェアリィ、巨人種アトラス、神霊種アカシアの七種族。このうち、前者六種は現在で言う『王魔』の源流じゃ。そして、最後の一種族は二つに分かれた。女神に従う『信仰の意志』が『アカシャの使徒』に、世界を望む『知識欲』が『法術士』にな」
「ふん。今さら昔話か。わたしが知っているのは『六種族』だが……それがどうかしたか?」
「ふむ。アカシアは『王魔』には知られておらんのかな? まあよい。それより……これらの種族の共通項は何じゃと思う?」
「知るか」
「少しは考えてみてもよかろうに。まあ、よい。答えは……『魔法』が使えることじゃ。かつて世界を思うがままに闊歩した七種族。その最大の力こそ『魔法』だと言えよう。……しかし、何かが足りないとは思わんか?」
「足りない? えっと、一、二、三、四……アカシアとやらを含めれば全部で七つ、ちゃんといると思うが……」
アンジェリカは、指を折り曲げながら種族の数を確認して言いました。
「くくく! アンジェリカと言ったか。お前は少々、おつむが弱いようじゃな。まあ、そんなところも愛らしいとはいえるが……」
「ん? まさかとは思うが……わたしは今、馬鹿にされたのか?」
笑い声を上げる聖女を見て、アンジェリカはたちまち不機嫌そうな顔になります。しかし、ベアトリーチェはそれに取り合うことなく、言葉を続けようとしました。
「では、教えてしんぜよう。足りないというのはな……」
「……愚者、ですね?」
「ヒイロ。せっかくわらわが、溜めに溜めて言おうとした言葉を先取りするでない」
「すみません」
つい口を挟んでしまいましたが、彼女の言うとおり、先ほどの説明には、現在この世界で『魔法』を使う種族がひとつだけ、抜け落ちていました。
「……で、では、やはり『愚者』の使う力は、『魔法』ではないということになりますの?」
そう問いかけたのは、エレンシア嬢です。彼女は言いながら、メルティの様子を気にかけているようでした。
「いいや、あれも『魔法』と呼んで差し支えあるまい。もっとも、彼らは本来、あのような力を使えぬはずの者たちなのだがな」
『女神』の教会において、『愚者』は『世界の敵』であるとされているはずです。にもかかわらず、彼女の声には敵意も憎悪も感じられません。
「この世界はな。……かつて七つの種族が生きていた世界と、人間と『愚者』が過ごしていた世界とが、重なり合い、せめぎあう形で存在しているのだ。互いに反発し、互いに引き寄せ合う。そういう不安定な状態で、この世界が存在している」
「まさか……」
わたしはここで、ようやく腑に落ちました。この世界に存在している【因子】以外のもう一つの根源的情報素子。理論的にはあり得ないそれが存在しうる理由。考えてみれば簡単なことでした。二つの世界があるならば、二つの根源が存在していても当然なのです。
「それで? 教皇とやらは、その不安定な状態を何とかしようとしているってわけかい?」
マスターは足が痛くなってきたらしく、早くも正座をやめて胡坐をかいています。意外と根性の続かない人ですね……。と、それはさておき、ベアトリーチェはなおも言葉を続けます。
「……ふん。男にしては物わかりが良いようじゃな。かつてこの二つの世界は、お互いを『喰らい合って』いたのじゃ。今でこそ均衡を保ってはいるが、『愚者』たちが『魔力』を操る力を持った存在を襲うのは、彼らが元いた世界を護るための『本能』の名残じゃ。いわば、我らは……彼らにとって『病原体』も同然の存在なのじゃろう」
「病原体、ね。さしずめ彼らは『抗体』ってわけか」
「だが、七種族の世界から見れば、かの者たちこそ『病原体』じゃ。ゆえにこそ、七種族は形は違えど、この世界で彼らに対抗するための『肉体』を得た。ゆえにこそ、彼ら『愚者』たちは『魔力』を排除するための『隻眼』を得た。互いに互いを駆逐するためにな」
「うーん。でも、それで互いが拮抗しているのなら、不安定とはいっても問題があるとは言えないんじゃないのかな?」
「……無駄に鋭い男じゃな。気持ち悪い」
「酷いなあ……」
「まあ、よい。今のわらわは、ヒイロの柔肌のおかげで気分が良い」
「柔肌とか言わないでください!」
思わずわたしは、顔を赤くして叫んでしまいました。しかし、ベアトリーチェは取り合うこともなく、そのまま説明に戻ってしまいます。
「うぬの言葉を認めるのは癪に障るが、そのとおりじゃ。今のままでも世界には何の問題もない。……じゃが、教皇たちはそうは考えない。世界は完全なモノであらねばならんのだと言う。さりとて、今さら癒着した二つの世界を引きはがすのは不可能じゃ。そうなれば二つの世界が崩壊するからな。……ならば、どうするか? 簡単だ。融合させてしまえばよい。単なる癒着などではなく、完全にひとつにしてしまえばよい」
「どうやって?」
尋ねるマスター。すると彼女は、人差し指を立ててみせました。
「ここからはわらわの推測になるが……恐らく教皇や枢機卿の考える『世界の補完方法』とは、『融合』の発端となる『完全体』をこの世に生み出してしまうことじゃ」
「完全体?」
耳慣れない言葉に、わたしたちは異口同音に聞き返してしまいました。するとここで、ベアトリーチェがゆっくりと立ち上がります。
「……さて、そろそろわらわの『準備』も整った。無駄話に付き合ってくれたことには、礼を言おうか」
「え?」
「くくく! しかし……さすがにわらわも驚いたわ。教会の者どもが必死に『王魔』の子をさらい、繰り返している『実験』を差し置いて、まさかこんなところに『完全体』となりうる存在があるというのじゃからな」
そう言って彼女が指差した先には、意味が分からず不思議そうに首をかしげるメルティの姿があったのでした。
次回「第96話 女神の天秤」