第12話 闇に沈む月影の谷
あんなに固く決心したのに、どうすればいいのか、また分からなくなってしまった。
グエンは森に来なかった。
代わりに、山ほどの見舞いの品が届いたのだ。
流行り病だと伝えたことで、余程心配してくれたのか、薬草や滋養に良いといわれる食べ物が贈られてきた。惜しみなく貴重な絹まで。
でも、違う。そうじゃないの。
貴方に会いに来てほしかったの。
散々、待たせてしまった私がいけないのだと分かってはいるけれど。
貴方と話さなきゃ、私たちは何も始まらない……。
見舞いの品を返せば、理由を聞きに、グエンは森に来てくれるだろうか。
私は一縷の望みをかけた。
「花は森に咲いているので、いつでもご覧ください」
私は森にいます。会いに来て。そう伝えたつもりだった。
けれど、彼は来なかった。
一度、火の塚のリーとして私を招いた手前、もう一人でふらりと森にくることが難しくなったのかもしれない。
その次の日も、グエンは森に来なかった。
そして、さらにその翌日、再び見舞いの使者が来た。
私を妻に迎えたいという言葉と共に。
それは、火の塚のリーの絶対的な命令だった。
グエン。
そんなにも私を求めてくれるのに、どうして私の思いを知ろうとしてくれないの。
どうして強引に無理を通そうとするの。
私たちは、まだお互いのことを何も知らないのに。
私は、どうしても首を縦に振ることができなかった。
できることなら、あの巨木の下で出会ったあの日に返りたい。
そんな埒もないことばかり願っていた。
リーは、私を連れ帰るまで動かないという使者に何度も頭を下げてくれた。
神に仕える巫女ゆえに、人に嫁すことはできぬのだと言って。
何時間も押し問答が続いた。
そして、業を煮やした使者は、「後悔するぞ」と不吉な言葉を残して帰っていった。
リーは、私に言った。
「もしかしたら、ほんの少しの掛け違いだったのかもしれないね……」
いつものように穏やかに微笑んでいた。
私はまた間違えたのだろうか。
その後、リーは次期リーと目していた伯父に、村人たちを森のもっと奥深くにある洞窟へ避難させるように言った。
恐らく、グエンがここに来るだろうからと。
今思えば、リーはこの後の悲劇を予見していたのかもしれない。
昔、西の王に仕えていたという彼には、きっと権力の持つ人間の思考や行動が手に取るように分かったのだろう。
ああ、それなら、私にグエンの下へ行けと命じてほしかった。
あのときの私には、皆が命を落とすなんて想像できなかったのだから。
違う。
リーが悪いわけではない。
私の迷いのせいなのだ。
「お前の犠牲で成り立つ安寧は、本当の安寧だろうか。お前が苦しむと分かっているというのに」
リーはそう呟いていた。
村の安全と、私の未来。
彼は、全てを守ろうとしていたのだから。
リーは村人たちを全て逃がし、私と共に村に残ってグエンと会うつもりだった。
「安心しなさい。彼は、お前を傷つけることだけはしないだろうから」
「それなら、私だけが残ればいいじゃないですか! リーも逃げてください!」
「そうはいかないのだよ。リーとしての責任は果たさなければね」
彼はもう、自分の死を覚悟していた。
そのうえで言うのだ。
「いいかい、ディーナ。今度こそ彼と話しなさい。村のためではなく、自分のために」
涙が止まらなかった。
どうして、私のためにそこまでするの。
リーは自分の命で村を守り、そして私にグエンと理解しあうための場を作ろうというのだ。
私たちが話すことで、何がどう変わるのか、そんなことは分からない。
けれど、それが私にとって重要な意味を持つのだと、彼は考えているのだ。
「泣かなくていい。私の順番が回ってきただけのことだから」
何も言えず、私はただ小さく首を振るだけだった。
伯父は、リーの言葉に従って即座に村人を集め、避難を開始した。
けれど、突然のことに事情をうまく呑み込めていない村人の行動は遅く、火の塚の行軍が到着したときには、まだ三分の一ほどの人が残っていた。
リーの予測よりも、グエンの行動はあまりにも早すぎたのだ。
初めて、リーの顔に絶望が浮かんだ。
「リー、失格だね……」
それでも、彼は毅然とグエンを迎えた。
傲慢な態度をとるグエンに臆することなく、私たちの神のことを、生き方を彼に説いた。
それは、私の思いを代弁しているかのようだった。
「ぜひ、我らと共に森で生きていただきとうございます」
少しでも伝わってほしい、そう願っていた。
けれど、グエンの顔はどんどんと険しくなっていく。
怒りを隠そうともしていない。
そしてついに、剣を抜いてしまった。
ああ、それからのことは、黒狼の峰の比ではなかった。
リーの喉元に突き付けた剣を、グエンはいとも簡単に突き刺してしまった。
私の敬愛するリーが、人形のように倒れていく。
グエンは、もう恐ろしい獣以外には見えなかった。
あの日、貴方は私の歌に感動してくれたはず。
どうして、あのときの素直な優しさを、今ここで捨ててしまうの。
なぜ、少しも私たちのことを理解しようとしてくれないの。
「ディーナ! 何処だ!」
グエンの荒々しい声が響き渡っていた。
彼は、私に会いに来たのではない。
奪いにきたのだ。
邪魔する者は全て排除して、自分の望みを完遂させることだけを考えている。
目の前にある命を、命とも思わずに。
それは、まるで悪夢のようで。
私は、震えながら彼の前に出た。
「ディーナ! ああ、ディーナ。やっと会えた。お前に会いたかった!」
違う。
こんなふうに会いたかったんじゃない。
私を抱きしめようとする彼の頬を思い切り張った。
「グエン! そんなことのために貴方は……!」
なんて愚かな人。
なんて残酷な人。
貴方は、私の中の少年のように笑う貴方自身も殺してしまった。
「なぜ、姿を見せなかった!」
「……貴方には、まだ資格が無かったから。……ああ、そして、もう得ることを放棄してしまった……」
「お前もリーと同じことを言うのか。お前たちの神を信じろと!」
もはや、信仰の問題だけではないというのに。
「貴方は、花を愛してなどいないでしょう……摘みたいだけ、手に入れたいだけ……だから、会えなかったの……」
一体私は、この人と何を語ろうと思っていたのか、それも分からなくなっていった。
怒りに染まった目で、グエンが私を見ている。
彼の意に添わぬ私を赦せないのだろう。
そして、私の目の前で、さらなる虐殺が始まってしまった。
「やめてーー!!」
私の言葉は誰にも届かなかった。
次々と仲間が倒れていく。
仲の良かった友達が。
よく面倒をみてくれたおばさんが。
そして、大好きな母も……。
「やめて! お願いだから、もうやめて!」
どうしてここまでするの。
私は、貴方の前に現れたじゃない。
私を連れていけばそれでいいじゃない。
私を好きにすればいいじゃない。
どうしてリーを殺したの。どうしてみんなを殺したの。
貴方が分からない。
もう、分かりたくもない……。
話すべきことは何もなくなってしまった。
そして、月影の谷を夜の闇と深い沈黙が包んだ。
せめて、森の奥深くに逃げた仲間たちが見つかりませんようにと、祈ることしかできなかった。
グエンの戦車に乗せられて、私は故郷の村に別れを告げた。
今度こそ、二度と帰れないのだと思った。




