第5話「右手と左手」
レフトさんの手が、人間の形に戻っていた。
鱗が引いて、あの綺麗な手。
やけどの痕はまだ少し残っている。
でも指先の動きはしっかりしていて、いつものワシワシも復活した。
(よかった。本当に)
日常が戻っている。
でも、前と少し違う。
お菓子を渡す。一緒に料理する。手を繋ぐ。
全部同じ。
なのに、一つ一つが前より大事に感じる。
(いなくなるかもしれないって思ったから)
光りもの探しは、もうしていなかった。
レフトさんもねだってこない。
あの絵のこと——試練のこと——忘れたわけじゃない。
でも今は、ただこの時間を過ごしている。
お互いに。
わたしの生活は、すっかり変わっていた。
自炊している。コンロの前が居場所になっている。
動画視聴アプリ三昧の日々は、いつの間にか終わっていた。
(いつからだろう。レフトさんが来たから?)
(たぶん。でもそれだけじゃない気がする)
「わたしさ、そろそろ仕事のこと考えなきゃなって。まだ先だけどね」
繋いだ手のひらを、ぎゅっと握ってみる。
レフトさんの指が、同じ強さで握り返してくれた。
頑張れ、なのか。
無理するな、なのか。
(分かんないけど、ありがとう)
◇ ◇ ◇
ある日。特別なことは何もない日。
コンロの前に座って、レフトさんの手と手を合わせていた。
わたしの右手と、レフトさんの左手。
その温かさを確かめながら、独り言をこぼす。
「今日さ、スーパー行ってきたんだよね。ちょっと遠い方の。野菜が安いの」
親指が、わたしの手の甲を優しく撫でる。
「あと、帰りに公園通ったら梅が咲いてた。もう春だね」
ほう、と温かい息をついたような、そんな気配が手から伝わってくる。
手がきゅっと握ってきた。
何が伝わったのかは分からない。
でもなんとなく、穏やか。
(いつもより温かい気がする。手も、気配も)
——ふわっ、と。
手が光った。
(え——)
心臓が一拍、大きく跳ねた。
二人の手の間から、淡い光が溢れている。
レフトさんの手もびくっとした。
でも離さない。
わたしも離さない。
光が強くなる。
手のひらが温かい。
痛くはない。柔らかい光。
手から伝わる感情が、いつもよりずっとはっきりしている。
驚き。戸惑い。
——そして、喜び。
ありがとう。嬉しい。楽しかった。
そう言ってる気がした。
今まで輪郭のなかったものが、はっきりと伝わってくる。
名前のない感情が、次から次へと。
(レフトさん……)
「……レフトさん?」
光の中に、何か小さなものが生まれた。
手と手の間に。
光が収まっていく。
手を開いた。
それぞれの手のひらに、一粒ずつ。
種がある。
同じ形。同じ大きさ。
二つに分かれた、一つのもの。
(……これが、答えだったんだ)
じわっと、胸の奥が熱くなった。
(光る丸いものじゃなかった。ビー玉でも懐中電灯でもなかった)
(ただ手を繋いでいただけだった。何でもない日に。何でもないことを話しながら)
(それが正解だった)
レフトさんの手が、種を握ったまま震えている。
驚いてるのか、喜んでるのか。
たぶん、両方。
わたしもそう。
◇ ◇ ◇
壁の光の円が、脈打つように明滅している。
(……消える)
レフトさんの手が、わたしの手をぎゅっと握った。
今までで一番強く。
伝わってくるもの。
ありがとう。さみしい。うれしい。
全部混ざった、名前のない感情。
(わたしも。わたしも同じだよ)
手が離れていく。
ゆっくり。
指先が最後まで触れていて、名残惜しそうに。
喉の奥がきゅっと詰まった。
光の円に吸い込まれていく。
最後に、ひらひら。手を振った。
見えていないのは分かっている。それでも。
光の円が薄くなる。
薄くなって——消えた。
ただの壁。
手を当てた。何もない。冷たい壁。
(……行っちゃった)
泣くかと思った。
でも泣かなかった。
手のひらには、種が一粒。
◇ ◇ ◇
ホームセンターで鉢と土を買ってきた。
(こういう買い物を億劫に思わなくなってる)
ベランダに鉢を置いて、種を植えた。
あの種は砂にならなかった。
翌朝も、翌々朝も。
手のひらの中に、そのまま残っていた。
何を渡しても、一晩で砂になったのに。
(これだけは、消えなかった)
向こうでもレフトさんが同じ種を持っている。
たぶん。
キッチンで自炊している。コンロを使って。
壁には何もない。光の円はもうない。
たまに、コンロの前に手を置いてみる。
何も起きない。分かってる。
(でも、やっちゃうんだよね)
最初、レフトさんの手は壁の向こうからの一方的な『現象』だった。
でも今は、わたしの右手が、触れ合えるはずのない左手を探してしまう。
(冷たい壁。指先がじんとする。レフトさんの手は温かかった。特に料理の時は)
友達から連絡が来た。
久しぶりに返した。
ご飯行こうよ、と言ったら「最近元気そうじゃん」と驚かれた。
(そうかもしれない)
復職のこと、少し考えている。
まだ先だけど、前ほど怖くない。
頑張りすぎないやり方を、今なら探せる気がする。
ある朝。ベランダの鉢を見た。
芽が出ている。
見たことのない色。
この世界の植物じゃない。
(向こうでも、同じ芽が出てる)
(きっと)
いつか咲くといいな、と思った。
あとがき
最後までお読みいただきありがとうございます。
本作の着想は、私がふと自宅のキッチンに立った時の、些細な妄想から生まれました。
「もし今、ここ調理台に異世界の人が現れたら面白そうだな」
でも、狭いキッチンに全身が現れたら邪魔で仕方がない。
……じゃあ、「手」だけならどうだろう?
そんな、半分思いつきのようなアイデアが、レフトさんというキャラクターの原点です。
執筆中に最も苦労したのは、「非言語コミュニケーション」の描写でした。
レフトさんは言葉を発せず、こちらの言葉も(一部の例外を除いて)理解できません。視覚も共有できていない。
頼れるのは「手」が触れ合う感触と、温度だけ。
その制約の中で、いかに意思を通じ合わせ、関係性を築いていくか。それは作者である私にとっても、文字通り手探りの挑戦でした。
また、本作の主人公は心身の不調で休職中という設定ですが、これは私自身の実体験がベースになっています。
実は私も似たような時期があり、その時は誰かと話すのも億劫で、クリニックに行くことさえしんどいと感じていました。
孤独だけれど、誰かの言葉には傷つきたくない。
そんな時に、「ただ側にいて、手を握ってくれるだけの存在」がいてくれたら。
本作は、あの頃の私が一番欲しかったコミュニケーションそのものを形にした物語なのかもしれません。
言葉より雄弁な「手」の物語が、あなたの心にも温かく触れることができたなら幸いです。




