第2話「お菓子と独り言」
レフトさんが来るようになって、一週間くらい経った。
気づいたら、起きる時間が少し早くなっていた。
布団の中で動画視聴アプリはまだやってる。
でも昼前には起き上がって、キッチンに向かっている。
(別にレフトさんを待ってるわけじゃない)
(……待ってるな。完全に)
お菓子の減りが異常に早い。
自分が食べてるんじゃない。
コンビニの買い物リストに「レフトさん用:グミ多め」と書いてある。
(我ながらどうかしてる)
いつの間にか、一方的に喋るようになっていた。
「今日さ、猫が箱に突撃する動画があってさ——」
レフトさんの手をマッサージしながら、独り言みたいに話しかける。
指の節を揉んでやると、気持ちよさそうに力が抜けるのがわかる。
「ウケた? ウケたよねそれ」
ふにゃりと指が曲がる。肯定、と受け取ることにする。
「あとね、世界の変な食べ物ってやつ見たの。ドリアンっていうフルーツがあってね——」
そう言った瞬間、手がピクッとして、また掌を突き出してくる。
「……いや食べ物の話するとすぐおねだりするじゃん。なんでわかるの」
通じてるわけない。
でも、なんとなく伝わってる気がする。
楽しい雰囲気とか、食欲とか、そういうのが肌を通して。
(普段から配信者の一人喋り聞き慣れてるからかな。しゃべる側もいけるな、わたし)
ある日、気づいたらこんなことを話していた。
「わたしさ、仕事ちょっと頑張りすぎちゃってさ。今お休みしてるの」
握っていた手が、無意識に強くなっていたのかもしれない。
レフトさんの指先が少し強張ったのを感じた。
「あ、大丈夫大丈夫。もう元気だから。たぶん。……まあ元気だったらYouTube一日中見てないか」
手がこちらに伸びてきて、そっと触れた。
ぎゅっと握ってくる。
言葉は通じてない。
でもなんとなく、しんみりしてるのは伝わったのかもしれない。
(聞こえてないから話せるんだよなあ、こういうの)
(友達にも先生にも言えないけど、手には言える。変なの)
◇ ◇ ◇
ある日、ふと思いついた。
(これ、配信したら生活費稼げるんじゃ?)
天才かもしれない。
スマホのカメラを構える。
「はーい! 今日はですね——怪奇! 壁から手! 見てください、この不思議な存在を……」
レフトさんの指を一本一本曲げて、無理やりピースの形にする。
手首を掴んで振らせる。されるがまま。
(よしよし、いい子)
カメラを確認する。
——映ってない。
壁しか映ってない。
わたしの手だけが虚空でピースしている。
「……って、写ってないんかーい!」
(余計ホラーだよこれ)
がっくりしてキッチンカウンターに突っ伏した。
振動が伝わったのか、レフトさんの手が心配そうに、わたしの手の甲をぽんぽんと叩いてきた。
(あ——)
みかんを渡した時にも感じた、あの感覚。
手が触れてると、なんとなく気持ちが伝わる。
今のは——慰め? 心配?
(やっぱり気のせいじゃなかったんだ、あれ)
ツッコミが終わった後も、レフトさんの手はピースしたまま手を振っていた。
(意味分かってないでしょ絶対)
でも楽しかったらしい。
律儀にピースを終わらせてから、お菓子を握らせた。
(完全にイルカショーの飼育員のノリだな、これ……)
◇ ◇ ◇
ある日。出てきたレフトさんの手が、いつもと違った。
新しいリング。爪に色が入っている。
「おっ、オシャレしてきた?」
指先でリングに触れると、見せびらかすように手をひらひらさせた。
(かわいい)
ふと、自分の手を見る。
(……ひどい。荒れてるし、爪ぼろぼろだし)
その日のうちにコンビニでハンドクリームを買った。
ついでに爪やすり。
(休職してからこんな買い物したの初めてだ)
(誰に見せるわけでもないのに)
(……いや、見せる相手いるじゃん。手だけだけど)
数日後。
レフトさんが出てきて、わたしの手に触れた瞬間、指先でじっとなぞってきた。
(気づいた)
(……嬉しい)
◇ ◇ ◇
ある日、コンビニでおでんの袋を買ってみた。
鍋にあけて温めるだけのやつ。
コンロの前に立つ。
レフトさんが不思議そうにこちらに手を向けている。
わたしは少し迷ってから、レフトさんの手を握り、声をかけた。
「……火、つけるよ。危ないから、ちょっと離れてて」
わたしは、握られていた指をいったんほどいた。
そのまま離すんじゃなくて、手の甲を指先で軽く――とん、とん。
「ごめん、ちょっとだけ」
声は届かない。だから、触れ方だけで伝える。
レフトさんの手が、ほんの少し渦の奥へ引く。
咲希は息を止めて、つまみを回した。
チチチチ……ボッ。
青い炎がボッと音を立てる。
レフトさんの手がびくっと縮こまったのが見えた。
最初の日の氷の大惨事。
コンロの火に反応して冷気をぶちまけたあの日。
レフトさんにとってもトラウマらしい。
「大丈夫だよ。今日はおでんだから。温めるだけ」
手に触れて、ゆっくり鍋の方に向ける。
湯気が立ち始めている。
温かいでしょ、怖くないでしょ。
レフトさんの手が恐る恐る鍋に近づいて——ぴたっと止まった。
手のひらをかざしている。
じんわり、と温かさが広がった。
鍋から、じゃない。レフトさんの手のひらからだ。
(……え、温められるの?)
遠赤外線みたいなやわらかい熱。
氷だけじゃなかった。火の魔法もあるらしい。
おでんは美味しかった。
大根がちょっと熱すぎるのはご愛敬。
(休職してから初めて、温かいものをちゃんと食べた気がする)
数日後。
スーパーで鮭の切り身とカット野菜を買ってきた。
アルミホイルで包んで、レフトさんの炎で温めてもらう。
休職してから初めての——たぶん人生でも数えるくらいの——まともな自炊。
——温まらない。
「アレー? なんで? バグかな? いや、魔法の炎ってアルミホイル伝導しないの?」
他の食材は普通に温まるのに、ホイルに包んだ部分だけ全然ダメ。
レフトさんも「?」という感じで手をかざし直す。
何度やってもダメ。
レフトさんは「食べられないの!?」とショックを受けた子供みたいに、手をバタバタさせて悔しがった。
結局、普通にコンロの火で焼いた。
レフトさんはもうコンロの火を怖がらなかった。
「まあいっか」
美味しかったので良しとする。
レフトさんには、タッパーに入れて使い捨てのスプーンとフォークを添えて渡すことにした。
◇ ◇ ◇
いつものように手が出てくる。
でも今日は動きが鈍い。元気がない。
触ると、手の甲に1cmほどの、小さなやけど。
(なにこれ……)
普通のやけどとちょっと違う。
傷の端がどす黒く変色し、皮膚が炭化してひび割れているような、見たことのない痕。
絆創膏を持ってきて、そっと貼った。
レフトさんの手がきゅっと握ってくる。
「……痛い?」
聞こえてないかもしれない。
でも、わたしの指の震えが伝わったのか、それとも消毒液が染みたのか。
びくっと強張った手が、すぐにまたゆっくりと力を抜いた。
大丈夫、と言ってるのか。
我慢してるのか。
手から伝わってくる気配は——痛い、けど、平気。
そんな感じ。
(強がってない?)
(——この手の向こうには、別の世界がある)
(楽しいだけじゃない。危ないことも、ある)
不思議で楽しい出来事だったものが、誰かの生身の手に変わった瞬間だった。
翌日。
レフトさんの手はまたワシワシしてお菓子をねだっていた。
絆創膏は砂になっていた。
でも傷は塞がりかけている。
(よかった)
壁から生えてる手の心配をしている自分は、傍から見たらどうかしている。
でも——よかった。
元気そうで、本当に。




