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第1話「左手と右手」

休職して三日目。

冬の昼過ぎ——カーテンの隙間から差す日差しが低くて弱い。


布団の中でずっと見てたスマホの動画視聴アプリを止めて、ようやく起き上がる。


布団から出た瞬間、刺すような冷気が素足を這い上がる。

フローリングが氷みたいだ。

吐く息がかすかに白い。

暖房をつける気力もなくて、パーカーのフードを深く被る。


(起きた。えらい)


(……わたし、終わってるな)


しんどくはない。たぶん。

何もする気が起きないだけ。

退屈でも、虚無でもない。名前をつけられない。


クリニックの先生は「しっかり休んで」と言った。

だからしっかり休んでいる。

これでいいのか知らないけど。


昼食を摂らないと。

キッチンの窓ガラスが結露でくもっている。


棚にはカップ麺、レトルト、コンビニの菓子。

隅っこには実家から届いたみかんの箱。

箱の蓋に母さんの字で「咲希(さき)へ」と書いたメモが貼ってあって、裏には実家の猫の近況なんかが書いてある。


(母さん、ありがとう。でもこんなに食べない)


昼食はカップ麺に湯を注ぐだけ。


(三日連続。まあいいか)


いつもは電気ケトル。

でも今日はなんとなく、やかんを手に取った。

金属がひんやりと手のひらに張りつく。


やかんをコンロに置く。

つまみに手を伸ばす。

ふと何気なく視線を上げると、コンロの奥


——壁から、手が生えていた。


(……は!? え?なに?)


◇ ◇ ◇


白くて細い。綺麗な手だった。


コンロの奥、壁にうっすら浮かんだ光の渦。

ゆっくり回る淡い光の輪から、細い腕が(ひじ)のあたりまですっと伸びている。


女性の手。

肘から先だけ。その向こうは見えない。


手の甲に紋様(もんよう)みたいなもの。

見たことない素材の細いリング。

爪は丁寧に手入れされていて尖っている。


手のひらをこちらに向けたとき、親指が右側にあった。

左手だ。


(——日本人じゃなさそう。こういうファッションの人? いや、そもそも壁から手って何)


わたしはコンロの前で固まった。

頭が追いつかない。

どうしていいかわからなくて——気づいたらつい、現実逃避するかの様にお湯を沸かす手順をなぞっていた。


コンロのつまみを回す。

チチチチチチ……ボッ。

火がついた。


壁の手がびくっと跳ねた。


次の瞬間——冷気が爆発した。


手のひらから白い風が吹き出す。

頬に刺さるような冷たさ。

キッチンが一瞬で凍りついた。


やかんに霜。

シンクの水滴が氷の粒になる。

壁に氷の花。


「えっ、えっ——」


悲鳴にもならない。

手は慌てて光の円に引っ込んでいった。

あとには霜と氷と、壁にうっすら残る光の円。


わたしは凍ったキッチンの真ん中で、白い息を吐きながら立ち尽くしていた。


 ◇


翌日。

氷は溶けていた。

壁の光の円だけが、まだうっすら残っている。


(……夢じゃない)


溶けた水でキッチンの床がびしょびしょ。

出しっぱなしだった塩こしょうの瓶が倒れて、ふやけたラベルが悲惨なことになっている。

これが証拠。


恐る恐るコンロの前に立つ。

光の円を見つめる。

触ると、ただの壁。何も起きない。


……だめか。


昨日の恐怖がよみがえる。

また何かが起こるかもしれない。早く離れたほうがいい。

でも、足は動かなかった。


(もう少しだけ)


怖い。でも、見たい。

わたしはキッチンカウンターに手をついて、じっと待つことにした。


——その時。


光の円から、指先がちょっとだけ出てきた。

すぐ引っ込む。

またちょっと出る。引っ込む。


(こわいんだ)


そりゃそうだ。昨日あんなことになったんだし。


わたしは動かなかった。

何もしないで、そっと手のひらを上に向けて、コンロのそばに置いた。


しばらくして、手が出てきた。

あの綺麗な手。

昨日よりずっと慎重に、指先がこちらの空気を探っている。


お互いにじっとしている。

冬の午後。

窓の外で木枯(こが)らしが鳴っていて、時計の音だけがキッチンに響いている。


ふと思いついて、みかんの箱から一つ取った。

冷たい皮に触れると、かすかに柑橘(かんきつ)の香りが立つ。

冬のにおい。

手のひらに乗せて、そっと差し出す。


手が止まる。

指先がみかんの表面をそろそろと触った。

皮のでこぼこを確かめている。


——わたしの手のひらに触れた瞬間、震えているのがわかった。


(こわいよね。そうだよね。こっちもこわいよ)


大丈夫。大丈夫だよ。


声には出さなかった。ただ思っただけ。

なのに震えが止まった、気がした。一瞬だけ。


(あれ。伝わった?)


気のせいかもしれない。

でも——なんだろう、この感じ。悪くない。

触れているあいだだけ、気持ちがにじむ。そんな気がした。


みかんを掴んで、引っ込んだ。


しばらく沈黙。向こうで食べているんだろう。


手がまた出てきた。

掌を上にして、こちらに差し出している。


「……もう一個?」


もう一個渡す。

引っ込む。また出てくる。掌。


「いや、何個食べるの」


笑ってしまった。声に出して。

(こんな気持ち。久しぶりかも)


笑った拍子に、指先がレフトさんの手に触れる。


ふと、レフトさんの手が動きを止めた。

こっちの笑いが伝わったのか、警戒が解けたみたいに、指先がふにゃりと力なく垂れた。


なんか、いい感じ。


◇ ◇ ◇


それからは毎日、手が出てくるようになった。


いつ来るかは分からない。

呼ぶ方法もない。

でもコンロの前に立っていると、そのうちにょきっと出てくる。


昼前後が多い。

だんだんタイミングも分かってきた。


コンビニのお菓子を色々渡してみる。

反応が全部手で返ってくる。


チョコレート——手がべたべたになって、わたわた空を掻いていた。


おせんべい——バリバリいってるらしく、ご機嫌にぱたぱた揺れる。


グミ——最初びくっとして、でもすぐ気に入ったみたいで、ワシワシ催促してきた。


ある日、いつもよりたくさんねだってきた。

手をワシワシ振りながら、掌を突き出して暴れている。


「取っておいてゆっくり食べる気でしょ」


多めに渡した。

すると向こうからも何かくれた。

小さな木の実。

見たことのない色で、表面がかすかに光っている。


きれいだったから、キッチンの棚に置いておいた。


翌朝。目を疑った。

木の実がなくなっている。

代わりにさらさらの砂が小さな山を作っていた。


コンロの前に立つと、手が出てきた。

砂を握ったまま、ぶんぶん暴れている。


(悲しみと怒りを全力で表現する左手)


やがて力が抜けて、しょんぼりとうなだれた。


わたしは棚の砂を見た。

向こうの木の実も、こっちのお菓子も、一晩で砂になる。


「……なるほど。お互い、取っておけないんだ」


新しいお菓子を差し出す。

今度はその場ですぐ食べ始めた。


(学習が早い)


まだ名前も知らない。

顔も知らない。声も聞いたことがない。

いつも光の渦から手しか見えない。


でもその左手の動き方は、もうだいぶ見慣れた。


嬉しい時はぱたぱた。

怒ってる時はグーでぶんぶん。

何かほしい時は掌を上にして差し出す。

しょんぼりしてる時は力なくだらんと垂れる。


左手だから——とりあえず、レフトさん、と呼ぶことにした。


明日も来るかな。

来るよね、きっと。

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