婚約
屋敷に戻ったなら、お祖父様にはまずは長旅の疲れを取ってもらうことにし、バトラーに世話や慰労を任せて執務室に戻る。
まだまだ仕事の途中、貴族としてすべきことはしなければと作業に取り掛かる。
残っている封蝋作業をし、それを終えたら手紙をそれ用の箱……後で郵便屋に渡される箱へとしまっておく。
それが終わったなら書類仕事……なのだが、貴族として書類にサインするというのは稀なことで、数は多くない。
細かい事務作業などは家臣や代官に任せていて、それらへの指示や報告は手紙でするもので、書類でどうこうすることはない。
サインをするような契約などを貴族が直接行うのは稀なことで、家臣か家令が行うものとされていて……今日しなければならない書類仕事は、銀行の口座確認だけだ。
家臣達への給料や、孤児院や教会への寄付、その他諸々の出費を一括管理させているのが銀行で、その口座の動きは毎日手紙という形で報告が入るようになっている。
前世で言うところの通帳みたいなものではなく、入出金の記録を羅列をした報告書が届くといった形になっていて……その入出金全てに間違いがないかを、手紙や記録と照らし合わせての確認をする必要がある。
何しろ前世のようのコンピューター管理している訳ではなく、全てが人力で管理され記録されているので、横領やミスによる入出金、記載間違いなどもザラで、毎日しっかりと確認しておかないと、後々になって大惨事になる可能性があるからだ。
それでも自分で全ての入出金を管理するよりはマシで、特に遠方の代官や施設に金を送る時は銀行を通した方が何倍も楽で、コストもかからないので、このくらいの確認作業は仕方のないものとして受け入れる必要がある。
見逃しがないように丁寧に、二度三度重ねての確認をし……確認が終わったなら、日付と問題なしとの文字を書き込んでから、自作のファイルにしっかりと閉じて、本棚にしまっておく。
それが終わったなら今度は家の者から提出された報告書を確認していく。
我が家では結構な人数を雇っている。
バトラーが3人、護衛かつ戦闘術指南役が5人、庭師が5人、馬や猟犬の世話係が4人、猟場の管理人が1人、メイドが30人。
メイド……と、一言に言ってもそれぞれに仕事の内容が違い、階級みたいなものもあったりする。
階級順に羅列すると、まずメイド達をまとめるハウスキーパーメイドが1人、今は不在だが母や姉妹達の世話をする小間使いが5人、同じく姉妹達の家庭教師、ガヴァネスが2人、料理人が4人、その部下となるキッチンメイドが6人。
我が家には幼児がいないので、ほぼほぼ俺の世話役となってしまっている乳母、ナニーが1人、今まさに仕事中だろう接客担当のパーラーメイドが4人、掃除や食事の運搬、火起こしなどを行うハウスメイドが5人……で、雑用と言ったら良いのか、見習いのオールワークスが2人。
そして領主としての経営に関する補助や助言役となる家令が1人いるが、これは屋敷とは別の場所で働いているので、顔を合わせるのは稀である。
そんな面々からの報告書が届くことがあり、しっかりと目を通した上で、返事も用意していく。
わざわざ報告書など用意しなくても、直接報告したら良いだろうと、幼い頃は思ったものだが……貴族に直接報告が出来るのは、バトラーと家令、ハウスキーパーくらいのもので、他の者達が直接報告するのは憚られるらしい。
何故かと言えば貴族と顔を合わせて良いレベルの礼儀作法が出来ていないから。
礼儀作法が出来ていない状態で貴族と顔を合わせるのは侮辱に近いレベルの無礼とされている……らしい。
無礼な状態で顔を合わせてしまうと、顔を覚えられてしまった上で、なんらかの処分が下ったりするそうで……ひどい家では、主人を見かけたら壁を向いて動きを止めて、主人を見ないように、主人に見られないようにして、主人が立ち去るまで待ったりするそうだ。
我が家では流石にそんなことはさせていないけども、貴族相手では直接言えないことも多かろうと報告書という形を取っていて……文字を書けない者の報告書は、バトラーや家令が代筆をすることになっている。
……この辺りは前世の西洋でも同じなのだが、前世の世界とは決定的に違う部分が一つあった。
それは貴族とメイドの恋愛や結婚が許されていること。
前世の世界なら、そんなことをしたら貴族失格、恥知らずとして追放や暗殺されてもおかしくなかった訳はずなんだけども、こちらの世界ではどういう訳か普通に許されている。
愛人やら離婚に関しての倫理観も緩いし……むしろそういったことを進んでしろと推奨している節すらある。
その理由は宗教にあるんだろうなぁ……この世界の宗教は多神教、なのに『教会』があって『神父』がいる。
いやまぁ、そういう世界なんだろと言ってしまえばその通りなのだけど、なんだってそう変な部分で、前世世界と一致しているんだと突っ込みたくなる。
……まぁ、スーツやら何やら、前世で見かけた物ばかり見かけることからして、他にも転生者がいたんだろうなぁ。
今までに一体何人いたのかは想像も出来ないが、文明文化に影響する程に転生してきていて、その影響が残っているということなのだろう。
……こうして自分が転生してしまっているのだから、他にもしている人がいるのは当たり前のことだ。
……なんてことを考えながら家臣団への返事を書き終えたら、先程とはまた別の箱にしまい、それが終わったならスーツの上着を上着掛けに預けて、執務室を後にする。
それから玄関に向かうと戦闘指南役のうち3人が俺の大槍を持って待機してくれているので、それを受け取って庭に向かう。
鍛錬もまた貴族の義務だった、特に若いうちは欠かすことは許されていない。
軍人として戦場に出られる程度には鍛えなければならない……が、その程度はその家の判断に任せられている。
なので10分程度の鍛錬でも許されてしまう訳だけども……それで戦場に出て命を落としましたでは話にならないし、健康にも良くないのでその日の忙しさにもよるが1~3時間の鍛錬を自分に義務付けている。
まずは柔軟体操をしっかりやって、それからマラソンをし、筋トレを終えたら、武器を使っての打ち合い。
正直どれもこれもやりたくない、疲れるし身体中痛いし、ダルいし毎日サボりたいと思ってしまう。
だからと言ってサボればその先に待っているのは死で……一度経験したからと言って、いや、一度経験したからこそもう死にたくない、人生を堪能し切るまでは……老いて満足する時までは死にたくないと、文字通り必死に頑張る。
そうやって汗だくになっていると、家臣達と合流したらしいお祖父様が、家臣を引き連れやってくる。
20~50代くらいのいずれも筋骨隆々、スーツを筋肉で盛り上げている男達。
お祖父様は武闘派で名前が知られている貴族で、戦地での経験はもちろんのこと、格闘大会のような競技でも好成績を残し続けている家の主だ。
もう高齢だというのにお祖父様もしっかり鍛え上げていて……さっきの本気のハグでは、本当に骨を折られるかと思った程に力が強い。
そんなお祖父様は汗だくになって鍛錬する俺を見て……もうなんていうか、人はこんなにも笑顔になれるのかというくらいの満面な笑みとなっている。
肌は白く、そのせいか頬が紅潮しているのがはっきり見て取れて、目元も口元も緩んでだらしないくらいだ。
俺がしっかりと鍛錬していることが余程に嬉しいようで……鍛錬の邪魔にならない程度の距離まで近付いてきてから、声をかけてくる。
「そう言えば今まで聞いたことがなかったがブライトよ、婚約者はおるのか?」
何故この流れで婚約者? と、疑問に思いながら、しっかりと鍛錬も続けながら答えを返す。
「い、いません。
決まる前に父上が、戦場に行くことになって……それでもいつか、父上が帰ってくるものと、思っているので、父上に決めてもらおうと、考えて、あえて決めていませんでした」
息を切らしながら大槍を振るいながらそう返すと、お祖父様は更に笑みを深くして、初めて聞くような弾んだ声で言葉を返してくる。
「そうか! それは何よりだ!
であれば儂に任せておくと良い、儂が良い相手を連れてきてやろう!
……誰が良い? 国内の貴族の娘なら3人でも4人でも連れてきてやるぞ!
ブライトがそうと望んだのなら、誰にも否とは言わせん、軍を起こしてでも連れてきてやるからな、好きな名を挙げると良い!」
その言葉に思わず動きを止めてしまう。
最初から最後まで突っ込みどころ満載でどう返して良いのか全く分からない。
お祖父様ってそんなことが出来る程偉いの? とか、3人も4人もいらないよ? 1人で良いよ? とか、貴族の結婚ってもっとこう、家同士の繋がりとか政略とか絡むものじゃないの? とか、どんどん疑問が湧いて出てくる。
正直結婚についてはそこまで望んでいなかったというか、まだまだ若いし先のことだろうと考えて詳しく調べてこなかったのだけど、この国の貴族の結婚ってそういう感じなの? と、そんな疑問を込めた視線を指南役達に送ると、指南役達は苦笑することで『そうではないです』と返してくる。
……そもそも名前を挙げろと言われても、貴族の娘さんに会ったことがないからなぁ……手紙のやり取りで知り合ったいくつかの家の名前は挙げられると言えば挙げられるけども、どんな娘さんがいるのか、そもそも娘さんがいるのかも知らない状態だし……。
あれこれと悩んだ俺は、ここは当たり障りのない答えを返していくべきかと頭の中を整理し、深呼吸してから言葉を返す。
「ありがとうございます、お祖父様。
そのお気持ちは大変ありがたいのですが……未熟な自分はまだ何処の家のお嬢様ともお話ししたことすらなく、また結婚についても真剣に考えたことがない身で、どうお答えしたら良いか分からないのです。
改めて勉強をしてから返事をさせていただければと―――」
するとその言葉の途中でにっかりと笑ったお祖父様は、言葉が終わるのを待つことなく言葉を返してくる。
「そうか! ならば見合いだな、見合いだ見合いだ。
この屋敷に集めてパーティを開けば良いだろう!
こんなにも立派なブライトと結婚出来るのだから、誰もが喜んで参加するに違いない。
……よし、早速手紙を出すぞ、お前達支度を始めろ」
お祖父様がそう声を挙げると、家臣達は持っていたカバンを開いて、中から筆記用具を取り出し、更には勝手にというか、庭に置いてあった日光浴用のテーブルや椅子を持ってきて……お祖父様のための場を整えてしまう。
一体どんな手紙を書く気なのやら……さっき軍を起こすとか言っていたし、もしかして脅迫に近いような内容で下級貴族に娘を差し出させる気では?
そう考えた俺は……お祖父様に言うことではないと思いながらも、それでも今、この場で言っておかなければと口を開く。
「お祖父様、そこまで言って頂けるならお任せしたいと思います……が、一つだけ生意気なことを言わせてください。
王族連中のような真似だけはなさいませんよう、お願いいたします。
お祖父様であれば大丈夫かと思いますが……人生の節目を強制されるのは、辛いものですから」
するとお祖父様はピタリと動きを止める。
軽快に動かしていたガラスペンの動きを止めて……一旦置いて、そして書き掛けの手紙をくしゃくしゃに丸めて、改めて書き始める。
……やっぱりか。
そう思いながらも俺の中で、孫に生意気なことを言われても嫌な顔一つせず、孫のためにペンを走らせているお祖父様への家族愛と感謝の想いが消えることはなく、
「お祖父様、ありがとうございます」
と、それを言葉にする。
するとお祖父様はまたもご機嫌となっての笑みを見せてくれて……そうして物凄い勢いでペンを走らせ……一体何枚の手紙を書くつもりなのか、俺の鍛錬が終わるまでの間ずっと、手紙を書き続けるのだった。
お読みいただきありがとうございました。
次回は母や姉妹やら、急報再びやらの予定です