第九話:最後のわがままと、託された光
俺たちの最後の一ヶ月は、まるで燃え尽きる線香花火のようだった。
儚い光を、一瞬でも長く、強く輝かせようとする、必死な時間。
陽葵は、ほとんどの時間をベッドの上で過ごすようになった。それでも俺たちは、病室という限られた世界の中で、リストのページを埋めていった。
『No.48:とびきり悲しい映画を観て、二人で号泣する』では、ノートパソコンを囲んで、声を上げて泣いた。『No.55:プラネタリウムで、二人で寝落ちする』は叶えられなかったから、代わりに病室の天井に満天の星を映し出す家庭用プラネタリウムを設置した。消灯後の暗闇の中、俺は彼女が眠るまで、ずっと手を握っていた。
一つ思い出が増えるたびに、一つ季節が過ぎていくように、陽葵の体力は失われていく。それでも、彼女は俺の前では決して笑みを絶やさなかった。俺もまた、悲しい顔は見せまいと、必死に道化を演じ続けた。俺たちは、お互いを守るために、痛々しいほど優しい嘘を重ねていた。
そんなある日、俺が陽葵の病室へ向かっていると、廊下で一人の女性に呼び止められた。歳の頃は四十代後半だろうか。上品だが、その目元には深い疲労の色が浮かんでいる。陽葵によく似た、優しい顔立ちをしていた。
「……神崎湊君、かしら」
「……はい」
「いつも、娘がお世話になっています。陽葵の母です」
彼女は、深々と頭を下げた。俺は、何も言えずに立ち尽くす。
何を言われるだろうか。あの日、無理に陽葵を連れ出したことを、責められるかもしれない。
「少しだけ、お話、よろしいかしら」
俺たちは、病院の隅にある小さな談話室に移動した。自動販売機の明かりだけが、重苦しい沈黙を照らしている。
「あの子、笑うようになったの」
先に口を開いたのは、お母さんだった。
「あなたが会いに来てくれるようになってから。本当に、よく笑うようになった。あんな顔、もう何年も見ていなかったわ」
彼女の瞳は、遠い過去を見ていた。
「あの子は、物心ついた頃から、ずっと戦ってきました。友達が外で遊んでいる時も、勉強している時も、恋をしている時も、あの子はずっと、この白い壁の中で……。何度も諦めかけて、何度も心を閉ざしてきた」
彼女の言葉の一つ一つが、俺の知らない陽葵の時間を、俺に突きつけてくる。
「正直に言うと、最初はあなたのことが怖かった。あの子を外に連れ出して、無理をさせているんじゃないかって。でも、違ったのね」
お母さんは、俺の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、涙で潤んでいた。
「あなたは、あの子に光をくれた。私たちが、もう何年も与えてあげられなかった、外の世界の光を」
彼女は、再び深く、深く頭を下げた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
そして、続けた。
「……どうか、あの子の最後のわがままを、聞いてあげてください。あの子の最後の時間を、あなたにあげてください。……お願いします」
それは、母親としての、悲痛な叫びだった。
俺は、ただ頷くことしかできなかった。託された光の重さに、胸が張り裂けそうだった。
病室に戻ると、陽葵は窓の外をぼんやりと眺めていた。
「湊、おかえり。お母さんと、会った?」
「……ああ」
「そっか。……ねえ、湊」
陽葵は、弱々しい力で、俺の手を握った。
「リストの、No.73、覚えてる?」
俺は、頭の中でリストのページをめくった。
No.73、『思い出のためじゃない、普通の写真を撮る』。
「撮ろうよ。今、ここで」
「……ああ」
俺はスマホを取り出し、カメラを起動した。
陽葵は、ゆっくりとベッドの上で体を起こすと、俺の肩に、こてんと頭をもたせかけた。
俺は、震える指でシャッターを押す。
カシャ、という軽い電子音。
画面には、ぎこちなく笑う俺と、そんな俺に寄り添って、今にも泣き出しそうな、だけど最高に幸せそうな顔で微笑む、陽葵が映っていた。
思い出のためじゃない、普通の写真。
だけどそれは、俺にとって、世界でたった一枚の、宝物になった。
その夜、陽葵は俺が本を読んでいる途中で、静かに寝息を立て始めた。
俺は本を閉じ、彼女の額に流れた髪を、そっと払う。その寝顔は、驚くほど穏やかだった。
俺は、陽葵のノートを手に取った。
残されたリストは、あと僅か。
そして、最後の一ページ。
No.100の項目は、まだ、空白のままだった。
俺は、彼女の小さな手を、もう一度強く握りしめた。
大丈夫だ、陽葵。
約束する。
お前の最後のわがまままで、俺が、全部叶えてやる。
窓の外では、今年最初の雪が、音もなく舞い始めていた。
それはまるで、世界の終わりを告げる、静かな合図のようだった。




