第八話:君の嘘と、俺の誓い
病室のドアを、ゆっくりと開けた。
そこにいたのは、俺の知らない陽葵だった。
様々なチューブに繋がれ、酸素マスクをつけ、顔からは血の気が引いている。規則的な電子音だけが、彼女がまだここにいることを、かろうじて証明していた。
俺の知っている、太陽みたいな彼女の姿は、どこにもなかった。
俺は、ベッドのそばの椅子に、力なく座り込んだ。
一ヶ月。
医師の言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。それはまるで、死刑宣告のカウントダウンのようだった。
俺は、ただ、陽葵の寝顔を眺めることしかできなかった。握りしめた拳が、小刻みに震える。なんで、お前なんだ。なんで、俺じゃなくて、お前なんだよ。答えのない問いが、胸の中で渦を巻いていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、陽葵の指先が、ぴくりと動いた。
「……ん……」
薄く目を開けた彼女は、俺の姿を認めると、安心したように、ふっと息を漏らした。そして、おもむろに酸素マスクに手をかけようとする。
「おい、馬鹿! 何してんだ!」
俺は慌ててその手を止めた。
「……だいじょ、ぶ……。湊の顔、ちゃんと、見たいから……」
弱々しい声だった。それでも、彼女は俺のために、笑顔を作ろうとした。その健気さが、ナイフのように俺の心を抉る。
「……ごめん。また、迷惑かけちゃったね」
「……迷惑なんて、思ってない」
「砂浜で、倒れるなんて……。びっくりしたでしょ」
「……ああ。心臓が、止まるかと思った」
俺の言葉に、陽葵は少しだけ、寂しそうに笑った。
「私の心臓は、もうすぐ本当に、止まっちゃうんだけどね」
その言葉は、あまりにも、あっけらかんとしていた。
まるで、明日の天気を話すような、そんな軽やかさで。
「……知ってたのか」
「うん。ずっと前から」
陽葵は、ゆっくりと瞬きをした。
「ごめんね、湊。ずっと、嘘ついてて」
「……なんで、言わなかったんだ」
「言えなかった。言ったら、湊が、そんな悲しい顔するって分かってたから」
彼女は、俺の頬にそっと手を伸ばした。その手は、驚くほどに冷たい。
「私は、湊に笑っていてほしかった。退屈そうだったあんたの世界を、少しでもカラフルにしたかった。それは、私のわがまま」
涙が、こぼれそうになった。
俺は奥歯を強く噛み締め、必死にそれを堪える。ここで俺が泣いたら、この子は、自分を責めてしまうだろう。
「……陽葵」
俺は、彼女の冷たい手を、両手で包み込んだ。
「俺は、お前と出会えて、よかった」
絞り出した声は、ひどく震えていた。
「お前が、俺のモノクロの世界に、色をくれたんだ。だから……だから、もう謝るな」
俺の言葉に、陽葵の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
彼女もまた、必死に涙を堪えていた。俺たちは、お互いを傷つけないように、壊れ物を扱うように、言葉を選んでいた。
「……リスト、まだ、たくさん残ってる」
俺は、努めて明るい声を作った。
「No.42、『人生で一番うまいラーメンを食べる』。No.55、『プラネタリウムで、二人で寝落ちする』。それから……」
俺は、息を吸った。
覚悟を、決める。
「No.61、『世界で一番のキスをする』も、まだだ」
俺がそう言うと、陽葵は、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。それは、悲しみの涙ではなかった。嬉しさと、愛しさと、そして、ほんの少しの安堵が混じった、温かい涙だった。
「……うん」
彼女は、涙で濡れた顔のまま、最高の笑顔で頷いた。
俺は、彼女に誓った。
残された一ヶ月。
俺は、絶対に泣かない。
お前の前では、世界で一番、頼りになる男でいてやる。
そして、リストの最後の一ページまで、必ず、お前の隣にいる。
俺は、陽葵の額に、そっと自分の額を重ねた。
もう、怖いものなんて何もなかった。
ただ、愛しい君のいない未来だけが、どうしようもなく怖い。
窓の外では、冷たい冬の雨が、静かに世界を濡らし始めていた。
それはまるで、俺たちの、短すぎる最後の季節の始まりを告げているようだった。




