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第七話:君のいない世界と、空っぽの俺

文化祭の日を境に、俺たちの時間は急速に色を濃くしていった。

まるで、残されたロウソクの光が、消える直前に一番強く燃え上がるように。


陽葵ひまりのリストを叶えることが、俺の日常の中心になった。

『No.17:二人だけの秘密基地を作る』では、大学の裏山にある古い温室を飾り付けた。『No.21:絶望的にまずい手料理を食べさせ合う』では、真っ黒な卵焼きを前に二人で涙が出るほど笑った。『No.33:一番好きな本を、朝まで語り合う』では、彼女の病室で小さなライトを頼りに、夜が白むまで話し込んだ。


一つ一つの思い出が、宝物みたいに積み重なっていく。

陽葵の体調には波があり、ベッドから起き上がれない日も増えていた。それでも彼女は、俺の前では決して笑顔を絶やさなかった。俺はそんな彼女の強さを、そしてその裏にあるであろう痛みを、ただ黙って受け止めることしかできなかった。


季節は、秋の終わりを告げようとしていた。冷たい木枯らしが吹き始めた、ある日の午後。

その日、俺たちはリストのNo.19、『理由もなく海に向かって叫ぶ』を叶えるために、冬の海に来ていた。


「よーし、いくぞー!」

陽葵はマフラーをなびかせながら、砂浜を駆ける。その姿は、病気の影なんて少しも感じさせないくらい、生命力に満ち溢れていた。


「おーい、湊も早く!」

「分かってるよ」


俺たちは誰もいない海に向かって、本当に、くだらないことを叫び続けた。

「レポート終わらないぞー!」

「プリン食べたいぞー!」

叫んでは笑い、笑ってはまた叫ぶ。空っぽだった俺の心は、いつの間にか、彼女と過ごす時間で満たされていた。


「……最後は、これ!」

陽葵は息を切らしながら、満面の笑みで俺を振り返った。そして、肺いっぱいに空気を吸い込むと、今までで一番大きな声で、叫んだ。


「湊のことが、だーいすきだー!」


その言葉は、まっすぐに、俺の心のど真ん中に突き刺さった。

時が、止まる。風の音も、波の音も、何も聞こえなくなった。俺は、何も言えずに、ただ、真っ赤になって立ち尽くす。


「……なんてね。びっくりした?」

陽葵は、照れ隠しのようにぺろりと舌を出した。

その、直後だった。

彼女の体が、糸が切れた人形のように、ゆっくりと砂浜に崩れ落ちたのは。


「――陽葵っ!!」


俺の叫び声が、冬の空に虚しく響いた。

駆け寄った俺の腕の中で、彼女はぐったりと意識を失っていた。触れた頬は、氷のように冷たい。


そこからの記憶は、ひどく曖昧だった。

必死で救急車を呼び、病院に搬送される彼女の隣で、ただ「陽葵」と名前を呼び続けたことだけを、断片的に覚えている。


気づけば、俺は集中治療室の前の廊下に、一人座り込んでいた。

白い壁、規則的な電子音、通り過ぎる看護師たちの足音。さっきまでの、カラフルな世界が嘘みたいに、急に全てが色を失っていた。


「……神崎湊君、だね」


不意に、白衣を着た初老の男性が、俺の前に立った。陽葵の担当医だと、すぐに分かった。

「少し、話をしようか」


俺は、夢遊病者のように、医師の後についていった。

通された小さな診察室で、彼は一枚のカルテを机に置き、静かに、そして残酷に、現実を告げた。


「天野さんの病名は、『進行性心筋不全』。心臓の機能が、少しずつ、だけど確実に失われていく病気だ」


心臓が、どくんと大きく鳴った。


「移植以外に、根本的な治療法はない。だが、彼女の体力は、もうその大きな手術に耐えられない状態にある」

医師は、俺の目をまっすぐに見つめた。

「……正直に言おう。彼女に残された時間は、もって、あと一ヶ月だろう」


一ヶ月。

それは、あまりにも短く、あまりにも、残酷な宣告だった。


「……嘘だ」

声が、震えた。

「だって、あいつは、あんなに笑ってて……あんなに、元気で……」

「それが、この病気の怖いところなんだ。最後の最後まで、気丈に振る舞えてしまう。……君の前だから、尚更だったんだろう」


医師の言葉が、ガラスの破片みたいに、俺の心に突き刺さる。

俺が知っていた陽葵は、彼女の、ほんの一部分でしかなかったのだ。


「彼女は、ずっと戦ってきた。君と出会ってからのこの数ヶ月は、彼女にとって、奇跡のような時間だったんだよ」


診察室を出て、俺はふらふらと病院の廊下を歩いた。

陽葵のいない世界。

そのことを考えただけで、足元から崩れ落ちそうになる。

リストは、まだたくさん残っているのに。

あいつの「大好きだ」に、俺はまだ、何も返せていないのに。


空っぽだ。

陽葵がいなくなったら、俺の心は、またあの頃みたいに、空っぽになってしまう。

いや、違う。

一度、彼女という光を知ってしまった心は、前よりもっと、暗く、冷たい闇に沈むだろう。


俺は、病室のドアの前で立ち尽くす。

ドアノブに手をかける勇気が出ない。

どんな顔で、彼女に会えばいい?


それでも。

俺は、ゆっくりと、ドアを開けた。


覚悟を決めなければならない。

彼女の、最後の時間を、俺は、どう生きるのか。

どう、彼女と共に、生き抜くのか。

俺の本当の戦いは、今、始まろうとしていた。

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