第六話:束の間の永遠と、君の笑顔
あの夜、泣きじゃくる陽葵を抱きしめてから、俺たちの関係は少しだけ形を変えた。
季節は夏から秋へと移り変わり、俺は講義の合間を縫っては、陽葵のいる病院へ足を運ぶようになっていた。彼女は、以前よりもベッドの上で過ごす時間が増えたようだった。それでも、俺が病室のドアを開けると、彼女はいつも、ぱっと顔を輝かせて「おかえり」みたいに笑うのだ。
「で? 今日の講義はどうだった? ちゃんとサボらずに出た?」
「お前と違って、俺は真面目なんで」
「むっ、聞き捨てならないなー。あれはサボりじゃなくて、ミッションです!」
そんな軽口を叩き合えるくらいには、俺たちの距離は縮まっていた。陽葵の病状について、俺は相変わらず何も聞けないでいる。彼女も話そうとはしない。ただ、二人でいる時間だけは、病室の白い壁も、消毒液の匂いも、全部忘れてしまえるような、穏やかな空気が流れていた。
文化祭が近づいたある日、俺は刷り上がったばかりのパンフレットを持って、彼女の病室を訪れた。
「ほら、約束のやつ」
「わー! ほんとだ!」
陽葵はベッドの上で飛び起きて、子供みたいに目を輝かせた。俺たちは一枚のパンフレットを覗き込み、顔が触れ合いそうな距離で、行く場所の計画を立て始めた。
「まず、演劇部のロミオとジュリエットは絶対でしょ!」
「お前、そういうの好きそうだよな」
「当たり前じゃん! それから、あ、ここ! 軽音部のライブ! 湊はどっちのバンドが見たい?」
陽葵が楽しそうに指差す、その指先が、ほんの少しだけ震えていることに俺は気づいた。気づいて、気づかないふりをした。
「……でも、外出許可、もらえるかな」
ぽつりと、彼女が不安を漏らす。
「最近、あんまり体調、良くない日も多いから……」
「大丈夫だ」
俺は、彼女の頭にぽん、と手を置いた。
「俺が、絶対にもらえるように先生に頼んでやる。だから、心配すんな」
何の根拠もない自信だった。でも、そう言うと、陽葵は心の底から安心したように、ふわりと微笑んだ。この笑顔が見れるなら、なんだってできると思った。
そして、文化祭当日。
秋晴れの空の下、俺は大学の門の前で、そわそわしながら陽葵を待っていた。本当に来れるのか、昨日の夜まで何度もメッセージを送り合った。
『許可、取れたよ!』という短い返信が来たのは、今日の朝のことだ。
「お待たせ!」
振り返ると、そこにいたのは、少しだけお洒落をした陽葵だった。淡いベージュのワンピースに、髪には小さなリボン。俺のために頑張ってくれたんだと分かって、胸が熱くなる。
「……行くか」
照れ隠しにそう言って、俺はごく自然に、彼女の手を取った。陽葵は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、嬉しそうにその手を握り返してきた。
陽葵が夢見ていた「普通のデート」は、想像以上に、ありふれていて、そして、最高だった。
二人でクレープを買って、生クリームを鼻につけた陽葵を笑ったり。
お化け屋敷で本気で怖がる彼女が、俺の腕に必死にしがみついてきたり。
射的で良いところを見せようとして、景品を一つも取れずに、逆に彼女に慰められたり。
一つ一つの出来事が、まるで映画のワンシーンみたいに、俺の心に焼き付いていく。
陽葵は、本当に楽しそうだった。心の底から笑い、驚き、拗ねて、そしてまた笑う。俺は、そんな彼女の表情を一つも見逃さないように、ずっと、ずっと、隣にいた。
あっという間に時間は過ぎて、夕暮れがキャンパスを茜色に染め始める。後夜祭のキャンプファイヤーが始まる時間だった。
俺たちは、喧騒から少し離れた芝生に座り、燃え盛る炎を遠くから眺めていた。パチパチと薪がはぜる音と、学生たちの楽しそうな歌声が聞こえてくる。
「……湊」
不意に、陽葵が俺の名前を呼んだ。
「ありがとう。今日、すっごく楽しかった。今まで生きてきた中で、一番……」
彼女は何かを続けようとして、だけど、その言葉を飲み込んだ。
俺は、その先を言わせたくなくて、わざと明るい声で遮った。
「一番、はこれから更新していけばいいだろ。リスト、まだたくさん残ってるんだから」
陽葵は、きょとんとした顔で俺を見た。そして、ゆっくりと、花が咲くみたいに、微笑んだ。
「……うん。そうだね」
その笑顔が、あまりにも完璧で、綺麗すぎて。
俺は胸の奥が、チリリと痛むのを感じた。
この瞬間を、フィルムに焼き付けるみたいに、永遠に閉じ込めてしまいたい。
そう、心の底から願った。
それが、絶対に叶わない願いだと知っていながら。
燃え盛る炎の向こう側に、俺は、確実に忍び寄ってくる時間の終わりを、見ないふりをすることしかできなかった。




