第五話:君の涙と、俺の覚悟
花火の最後の音が夜空に溶けて、もうずいぶん経った。俺と陽葵は、まるで魔法が解けるのを惜しむみたいに、丘の上に座り続けていた。
「……そろそろ、戻らないと」
先に沈黙を破ったのは、陽葵だった。その声には、名残惜しさが滲んでいる。
「門限、破っちゃったな。怒られちゃうかも」
そう言って彼女は、わざとおどけるように笑った。でも、その笑顔は少しだけ、力なく見えた。
「送るよ。病院まで」
「ううん、大丈夫だよ。一人で帰れるって」
「だめだ。送らせて」
俺は有無を言わせない口調で言うと、先に立ち上がって彼女に手を差し出した。陽葵は一瞬ためらった後、おずおずと、その小さな手を俺の手に重ねた。
触れた指先は、夏の夜には不釣り合いなほど、少しだけ冷たかった。
病院までの帰り道、俺たちはほとんど何も話さなかった。
ただ、繋いだ手の温もりだけが、お互いの存在を確かめ合っているようだった。街灯が、俺たちの影を長く、そして短く、アスファルトに映し出す。このまま時間が止まってしまえばいい。そんな非現実的な願いが、何度も胸をよぎった。
病院の裏口が見えてくる。陽葵が、ぴたりと足を止めた。
「湊。今日は、本当にありがとう」
彼女は繋いでいた手をそっと離すと、深々と頭を下げた。
「私のわがままに付き合ってくれて。最高の、思い出になった」
「……わがままなんて、思ってない」
「ううん。わがままだよ」
陽葵は自嘲するように、ふっと笑った。
「湊の時間を、私のために使わせてる。本当は、こんなことしちゃいけないって、分かってるのに」
その声は、微かに震えていた。
「湊は、優しいから。だから、私みたいなのに捕まったら、きっと……」
言葉が、途切れる。彼女の大きな瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。それはまるで、ずっと張り詰めていた糸が、ぷつりと切れてしまったかのようだった。
「ごめん……ごめんね……っ」
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
彼女は子供のように、しゃくり上げながら涙を流す。完璧な笑顔の仮面が剥がれ落ち、そこには、ただ死の恐怖と戦う、一人の弱くて、脆い女の子がいた。
俺は、どうすればいいか分からなかった。
かけるべき言葉が見つからない。ただ、目の前で泣きじゃくる彼女を、どうしようもない衝動のまま、強く、強く抱きしめていた。
「……陽葵」
腕の中で、彼女の体が小さく震える。
「俺の時間は、お前のものだ」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「お前が使いたいだけ、全部使えよ。俺は、お前と一緒にいたい。お前のリスト、最後まで、全部一緒に叶えたい」
それは、ただの慰めじゃなかった。
俺の、覚悟だった。
彼女の病気のことも、残された時間も、まだ俺は何も知らない。だけど、もうそんなことはどうでもよかった。
この、太陽みたいに眩しくて、ガラスみたいに儚い女の子を、一人になんてさせたくない。
ただ、それだけだった。
俺の腕の中で、陽葵の嗚咽が少しずつ、静かになっていく。
やがて、彼女は顔を上げ、涙で濡れた瞳で、俺をじっと見つめた。
「……後悔、しない?」
「するわけないだろ」
俺が即答すると、陽葵は、泣き顔のまま、ふにゃりと笑った。それは、今まで見たどんな笑顔よりも、素直で、愛おしい笑顔だった。
「……じゃあ、お願いがある」
彼女は俺の服の裾を、ぎゅっと掴んだ。
「リストの、No.15」
「……ああ」
「学校の、文化祭に行きたいな」
「文化祭?」
「うん。普通の高校生みたいに、二人で。クレープとか食べて、お化け屋敷とか入って……そういうの、やってみたいな」
それは、あまりにもささやかで、そして、あまりにも切実な願いだった。
彼女が失ってしまった、ごく普通の日常。
「……分かった。行こう、絶対に」
俺は、腕の中の温もりを確かめるように、もう一度、陽葵を強く抱きしめた。
秋風が、俺たちの間をそっと吹き抜けていく。
残された時間がどれくらいなのか、俺はまだ知らない。
だけど、俺たちの本当の夏は、今、始まったばかりのような気がした。




