第四話:花火と重ねた、君の願い
屋上庭園での一件から、陽葵からの連絡はぱったりと途絶えた。
まるで、俺が彼女の秘密の縁に触れてしまったことへの、静かな拒絶のように思えた。俺もまた、何と連絡していいか分からず、ただ時間だけが過ぎていく。灰色の日々への逆戻り。一度色を知ってしまった世界は、以前よりもっと退屈で、息苦しく感じられた。
バイト先のファミレスで、ぼんやりと窓の外を眺める。夏休みに入り、浮かれた学生たちの声がやけに耳についた。
その時、壁のポスターが目に入った。近所の河川敷で、今週末に花火大会が開かれるらしい。
――綺麗だろうな。あいつと見れたら。
そんな考えが頭をよぎり、俺はかぶりを振った。柄にもない。それに、誘う口実も、資格も、俺にはない。
その日のバイト終わり、アパートへの帰り道。俺はスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。陽葵とのトーク画面には、俺の『またな』という素っ気ない返信で会話が止まっている。
指が、何度も文字を打ちかけては消した。
『元気か?』
『退院したのか?』
どれも違う。詮索しているように聞こえるだろうか。
結局、何も送れないままスマホをポケットにしまった、その時だった。
「――見つけた」
聞き覚えのある声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、街灯の下に陽葵が立っていた。いつものカラフルな私服ではなく、病院で着るような薄いピンク色のパジャマに、カーディガンを羽織っただけの姿だった。
「陽葵……! なんで、こんなところに」
「抜け出してきた」
彼女は事もなげに言うと、ふらりと俺に近づいてきた。その顔色は、今まで見た中で一番悪かった。月明かりの下で、透き通るように白い。
「湊にお願いがあって」
「お願い?」
「今週の土曜日、花火、一緒に見てくれないかな」
それは、俺が言いたくても言えなかった言葉だった。
陽葵は俺の目をまっすぐに見つめる。その瞳の奥には、懇願するような、切実な色が浮かんでいた。
「……リストにあるのか」
「うん。No.14、『好きな人と、一番近くで花火を見る』」
好きな人。
その言葉が、俺の胸に重く、甘く響いた。
「……いいよ。見に行こう」
俺の返事を聞くと、陽葵は心の底からほっとしたように、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、今にも壊れてしまいそうなくらい、儚かった。
そして、花火大会の当日。
俺は陽葵と、河川敷から少し離れた、見晴らしのいい丘の上で待ち合わせをした。ここなら人も少なく、ゆっくりと花火が見れる。病院を抜け出してくる彼女の体力を考えて、俺が選んだ場所だった。
約束の時間ちょうどに、陽葵は現れた。
白いワンピースに麦わら帽子。夏休みの少女のようなその姿に、俺は思わず息を飲んだ。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たとこ」
嘘だ。一時間も前から、そわそわしながら待っていた。
俺たちは並んで丘の斜面に座り、夜空がその色を濃くしていくのを待った。ぎこちない沈黙が流れる。何を話せばいいのか分からない。
やがて、ヒュルル、と甲高い音がして、最初の花火が打ち上がった。
ドン、という腹に響く音と共に、夜空に大輪の菊が咲く。
「……わぁ」
陽葵が、子供のようにはしゃいだ声を上げた。
次々と打ち上がる色とりどりの光が、彼女の横顔を照らし出す。その瞳は、夜空の花よりもずっと、キラキラと輝いていた。
俺は花火を見るのも忘れ、ただ、そんな彼女の姿に見入っていた。
綺麗だ、と思った。
心の底から、そう思った。
「ねえ、湊」
不意に、陽葵が俺の名前を呼んだ。
「線香花火、しない?」
そう言って彼女が取り出したのは、コンビニで売っているような、小さな線香花火のセットだった。
「なんで、こんなの」
「打ち上げ花火ってさ、綺麗だけど、すぐ消えちゃうでしょ。なんだか、寂しいなって」
陽葵は一本の線香花火に火をつけると、そっと俺に差し出した。
パチパチと小さな火花を散らす、儚い光。
「線香花火は、最後まで見届けてあげられるから。好きなんだ」
そう言って微笑む彼女の顔が、あまりにも切なくて、俺は胸が張り裂けそうになった。
限られた時間。消えゆく光。彼女は、この小さな花火に、自分を重ねているのかもしれない。
俺たちは、言葉もなく、ただ、次々と線香花火に火をつけた。
チリチリと燃える火薬の匂い。夏の夜の生温い風。隣で息をする、彼女の気配。
その全てが、俺の記憶に焼き付いていく。
最後の火の玉が、ぽとりと地面に落ちた。
束の間の光が消え、再び世界に静寂が訪れる。
「……ありがとう、湊」
陽葵が、ぽつりと呟いた。
「今日の花火、今までで一番、綺麗だった」
「……俺もだ」
気づけば、俺たちの手は、触れ合いそうなほど近くにあった。
この温もりを、失いたくない。
この時間が、永遠に続けばいいのに。
そんなありえない願いが、胸の奥で生まれてしまったことに、俺はもう、気づかないふりはできなかった。
花火が終わっても、俺たちはしばらく、その場から動けずにいた。
夏の夜空には、数えきれないほどの星が輝いていた。




