表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第三話:嘘つきな君と、踏み込めない境界線

陽葵ひまりと会わない日が、一週間続いた。

あれ以来、彼女が講義に来ている気配はなかった。俺はといえば、気づけば講義室の出席状況を気にするようになり、休み時間には無意識に中庭のベンチへと足を運んでいる。

すっかりペースを乱されている自覚はあった。


「……何やってんだ、俺は」


誰もいないベン-チに座り、自嘲気味に呟く。

名前を呼び捨てにされたくらいで、何を舞い上がっているんだか。彼女にとっては、きっと深い意味なんてない。ただの気まぐれ。そうだ、きっとそうだ。


そうやって自分に言い聞かせていた時だった。ポケットのスマホが短く震えたのは。

画面に表示された通知を見て、俺は自分の目を疑った。


『湊、生きてる?』


送り主は『Amano Himari』。メッセージアプリに、いつの間にか登録されていた名前だった。


『暇なら、病院の屋上庭園まで来て。リストNo.7、手伝ってほしい』


病院。

その一言が、俺の胸をざわつかせた。やっぱり、彼女はただのサボりじゃなかったんだ。

俺は気づけば駆け出していた。バイトのシフトが迫っていることなんて、頭から完全に抜け落ちていた。


大学病院の最上階。一般の人間も立ち入れる屋上庭園は、心地よい風が吹き抜ける、静かで穏やかな場所だった。

陽葵はそこにいた。ベンチに座り、スケッチブックに何かを描いている。今日の彼女は、淡い空色のワンピースを着ていた。


「……遅い」

「なんで、ここにいるって分かった」


俺の姿を認めると、陽葵は少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。

「あんたの講義の時間割、友達に頼んで調べてもらったの。サボるなら、いつもの中庭だと思った」


「……ストーカーかよ」

「人聞き悪いなー。これはミッションのための、必要不可欠なリサーチです!」


そう言って笑う彼女の顔は、いつもより少しだけ、白いように見えた。


「それで、リストNo.7って?」

俺が尋ねると、陽葵は得意げにスケッチブックを見せてきた。そこに描かれていたのは、拙いながらも、どこか愛嬌のある猫の絵だった。


No.7『見たことのない猫に、世界で一番かっこいい名前をつける』


「……は?」

「あそこにいる」


陽葵が指差した先、植え込みの陰で、一匹の三毛猫が気持ちよさそうに昼寝をしていた。


「あいつ、最近ここに住み着いてるんだけど、まだ名前がないんだよね。だから、私たちがつけてあげようと思って」

「……俺を呼んだのは、そのためだけか」

「そのため“だけ”じゃないよ。そのため“こそ”だよ。一人で決めるより、二人で決めた方が、絶対もっと素敵な名前になるもん」


彼女の理論は、いつも突拍子もない。だけど、なぜか説得力があった。

俺たちはベンチに並んで座り、あーでもない、こーでもないと、猫の名前を考え始めた。


「風格があるから、『キング』とか?」

「安直すぎる」

「じゃあ、毛の色が三色だから、『トルテ』とか?」

「……なんでスイーツなんだよ」

「可愛いじゃん!」


くだらない、本当にくだらない時間。

だけど、気づけば俺は、心の底から笑っていた。こんなふうに誰かと笑い合ったのは、いつぶりだろうか。


「……決めた」


しばらくして、俺は呟いた。

「あいつの名前は、『シグマ』だ」

「シグマ?」

「ギリシャ文字の。全部足し合わせる、っていう意味がある。あいつの周りには、いつも人が集まってくる気がするから」


俺がそう言うと、陽葵は目を丸くして、それから、くすくすと楽しそうに笑い出した。

「何それ。湊、意外とロマンチストだね」

「……うるさい」

「うん、気に入った! 今日からあの子は、シグマだね!」


陽葵は嬉しそうにスケッチブックに『Σ(シグマ)』と書き加えた。

その時、ふと彼女の腕に巻かれた、白いリストバンドが目に入った。そこには、俺が目を逸らしたくなるような文字が印字されていた。

『天野陽葵』という名前と、いくつかの数字。そして、『入院患者』という、冷たい事実。


「……なんで、入院してるんだ」


声は、自分でも驚くほど、低く、硬くなっていた。

陽葵の笑顔が、ぴたりと止まる。彼女は腕を隠すように、そっとカーディガンを羽織った。


「……ちょっと、ね。定期検診、みたいなもん」


明らかに、嘘だった。

顔にはそう書いてあるのに、彼女は完璧な笑顔を作って見せた。

「ほら、そんなことより、次のミッション考えなきゃ! No.13は、確か……」


それ以上、俺は何も聞けなかった。

彼女が引いた境界線。その内側には、決して踏み込んではいけないのだと、痛いほど伝わってきたからだ。


「……俺、バイトだからもう行く」

「え、あ、うん……」


無理やり会話を打ち切って、俺は立ち上がった。

陽葵の戸惑ったような顔から、目を逸らす。これ以上一緒にいたら、きっと、聞いてはいけないことを聞いてしまう。


「シグマのこと、よろしくな」

「……うん。またね、湊」


背中越しに聞こえた彼女の声は、少しだけ、寂しそうに震えていた。


エレベーターを待つ間、俺は壁に寄りかかって、大きく息を吐いた。

嘘つき。

心の中で、誰に言うでもなく呟く。

定期検診なんかじゃない。最高のサボりも、猫の名前も、全部、全部。

彼女が必死に輝かせようとしている“今”は、あまりにも脆く、儚いもののの上にある。


俺は、彼女の本当の病名を知らない。

残された時間がどれくらいあるのかも、知らない。

何も知らないくせに、彼女の笑顔を見るたびに、胸が締め付けられるように痛む。


この感情に名前をつけることを、俺はまだ、恐れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ