第三話:嘘つきな君と、踏み込めない境界線
陽葵と会わない日が、一週間続いた。
あれ以来、彼女が講義に来ている気配はなかった。俺はといえば、気づけば講義室の出席状況を気にするようになり、休み時間には無意識に中庭のベンチへと足を運んでいる。
すっかりペースを乱されている自覚はあった。
「……何やってんだ、俺は」
誰もいないベン-チに座り、自嘲気味に呟く。
名前を呼び捨てにされたくらいで、何を舞い上がっているんだか。彼女にとっては、きっと深い意味なんてない。ただの気まぐれ。そうだ、きっとそうだ。
そうやって自分に言い聞かせていた時だった。ポケットのスマホが短く震えたのは。
画面に表示された通知を見て、俺は自分の目を疑った。
『湊、生きてる?』
送り主は『Amano Himari』。メッセージアプリに、いつの間にか登録されていた名前だった。
『暇なら、病院の屋上庭園まで来て。リストNo.7、手伝ってほしい』
病院。
その一言が、俺の胸をざわつかせた。やっぱり、彼女はただのサボりじゃなかったんだ。
俺は気づけば駆け出していた。バイトのシフトが迫っていることなんて、頭から完全に抜け落ちていた。
大学病院の最上階。一般の人間も立ち入れる屋上庭園は、心地よい風が吹き抜ける、静かで穏やかな場所だった。
陽葵はそこにいた。ベンチに座り、スケッチブックに何かを描いている。今日の彼女は、淡い空色のワンピースを着ていた。
「……遅い」
「なんで、ここにいるって分かった」
俺の姿を認めると、陽葵は少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「あんたの講義の時間割、友達に頼んで調べてもらったの。サボるなら、いつもの中庭だと思った」
「……ストーカーかよ」
「人聞き悪いなー。これはミッションのための、必要不可欠なリサーチです!」
そう言って笑う彼女の顔は、いつもより少しだけ、白いように見えた。
「それで、リストNo.7って?」
俺が尋ねると、陽葵は得意げにスケッチブックを見せてきた。そこに描かれていたのは、拙いながらも、どこか愛嬌のある猫の絵だった。
No.7『見たことのない猫に、世界で一番かっこいい名前をつける』
「……は?」
「あそこにいる」
陽葵が指差した先、植え込みの陰で、一匹の三毛猫が気持ちよさそうに昼寝をしていた。
「あいつ、最近ここに住み着いてるんだけど、まだ名前がないんだよね。だから、私たちがつけてあげようと思って」
「……俺を呼んだのは、そのためだけか」
「そのため“だけ”じゃないよ。そのため“こそ”だよ。一人で決めるより、二人で決めた方が、絶対もっと素敵な名前になるもん」
彼女の理論は、いつも突拍子もない。だけど、なぜか説得力があった。
俺たちはベンチに並んで座り、あーでもない、こーでもないと、猫の名前を考え始めた。
「風格があるから、『キング』とか?」
「安直すぎる」
「じゃあ、毛の色が三色だから、『トルテ』とか?」
「……なんでスイーツなんだよ」
「可愛いじゃん!」
くだらない、本当にくだらない時間。
だけど、気づけば俺は、心の底から笑っていた。こんなふうに誰かと笑い合ったのは、いつぶりだろうか。
「……決めた」
しばらくして、俺は呟いた。
「あいつの名前は、『シグマ』だ」
「シグマ?」
「ギリシャ文字の。全部足し合わせる、っていう意味がある。あいつの周りには、いつも人が集まってくる気がするから」
俺がそう言うと、陽葵は目を丸くして、それから、くすくすと楽しそうに笑い出した。
「何それ。湊、意外とロマンチストだね」
「……うるさい」
「うん、気に入った! 今日からあの子は、シグマだね!」
陽葵は嬉しそうにスケッチブックに『Σ(シグマ)』と書き加えた。
その時、ふと彼女の腕に巻かれた、白いリストバンドが目に入った。そこには、俺が目を逸らしたくなるような文字が印字されていた。
『天野陽葵』という名前と、いくつかの数字。そして、『入院患者』という、冷たい事実。
「……なんで、入院してるんだ」
声は、自分でも驚くほど、低く、硬くなっていた。
陽葵の笑顔が、ぴたりと止まる。彼女は腕を隠すように、そっとカーディガンを羽織った。
「……ちょっと、ね。定期検診、みたいなもん」
明らかに、嘘だった。
顔にはそう書いてあるのに、彼女は完璧な笑顔を作って見せた。
「ほら、そんなことより、次のミッション考えなきゃ! No.13は、確か……」
それ以上、俺は何も聞けなかった。
彼女が引いた境界線。その内側には、決して踏み込んではいけないのだと、痛いほど伝わってきたからだ。
「……俺、バイトだからもう行く」
「え、あ、うん……」
無理やり会話を打ち切って、俺は立ち上がった。
陽葵の戸惑ったような顔から、目を逸らす。これ以上一緒にいたら、きっと、聞いてはいけないことを聞いてしまう。
「シグマのこと、よろしくな」
「……うん。またね、湊」
背中越しに聞こえた彼女の声は、少しだけ、寂しそうに震えていた。
エレベーターを待つ間、俺は壁に寄りかかって、大きく息を吐いた。
嘘つき。
心の中で、誰に言うでもなく呟く。
定期検診なんかじゃない。最高のサボりも、猫の名前も、全部、全部。
彼女が必死に輝かせようとしている“今”は、あまりにも脆く、儚いもののの上にある。
俺は、彼女の本当の病名を知らない。
残された時間がどれくらいあるのかも、知らない。
何も知らないくせに、彼女の笑顔を見るたびに、胸が締め付けられるように痛む。
この感情に名前をつけることを、俺はまだ、恐れていた。




