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最終話:君のいない世界と、俺の約束

最初の雪が降ってから、数日が過ぎた。

世界はすっかり冬の装いをまとい、陽葵ひまりの時間は、目に見えて失われていった。

彼女はもう、ほとんどの時間を眠って過ごすようになった。俺はそんな彼女のそばで、ただひたすら、手を握り続けた。


時折、意識が浮上した彼女と、途切れ途切れに言葉を交わす。

「……湊、いる?」

「ああ。ずっと、ここにいる」

「……そっか。……安心、する……」

それだけの会話が、俺たちの世界のすべてだった。


ある日の午後。

ふと、陽葵が穏やかな表情で目を覚ました。

「……湊。海の、音が、聞きたいな」


それは、リストのNo.85、『もう一度、海の音を聞く』だった。

俺は頷くと、スマホを取り出し、ヘッドホンを彼女の耳にそっとつけた。以前、二人で行った冬の海の、波の音を録音しておいたものだ。


目を閉じた俺たちは、病室にいながら、あの日の砂浜にいた。

寄せては返す、優しい波の音。潮風の匂い。隣で息をする、君の気配。

「……きれいな、音……」

陽葵の目尻から、一筋の涙が静かにこぼれた。


しばらくして、彼女はヘッドホンを外すと、か細い声で言った。

「……ノート、取って」


俺は、使い古された『やりたいことリスト』を、彼女の胸元に置いた。

陽葵は、最後のページを開く。

No.100。そこは、まだ空白のままだった。


「……湊。書いて……」

彼女にはもう、ペンを握る力も残っていなかった。

「……何を、書けばいいんだ」

声が、震えた。泣かないという誓いは、もう限界だった。


陽葵は、俺の目をじっと見つめ、最後の力を振り絞るように、微笑んだ。

「……書いて……『湊が、私のいない世界でも、ちゃんと幸せになること』……って」


その言葉は、彼女の、最後のわがままだった。

自分のためじゃない。俺の未来のための、あまりにも優しくて、あまりにも、残酷な願い。


「……書けるかよ、そんなの……っ」

涙が、堰を切ったように溢れ出した。

「書けよ……! 俺が、幸せになんて、なれるわけ……!」

「なれるよ」


陽葵は、ゆっくりと首を振った。

「湊は、もう、昔の湊じゃないもん。……私の、自慢の、湊だもん」

彼女は、冷たくなった指先で、俺の涙を拭った。


俺は、震える手でペンを握りしめ、涙で滲む文字で、彼女の最後の願いを書き記した。


No.100『湊が、私のいない世界でも、ちゃんと幸せになること』


書き終えた俺の顔を見て、陽葵は、満足そうに、心から幸せそうに、微笑んだ。


「……陽葵」

俺は、彼女の手を強く、強く握りしめた。

もう、何も怖くなかった。伝えなければならない。俺の、本当の気持ちを。

「……愛してる。陽葵。お前が、大好きだ」


あの砂浜で、彼女が叫んでくれた言葉。

俺が、ずっと返せなかった、答え。


その言葉を聞いて、陽葵の瞳が、ふわりと細められた。

それは、俺が今まで見た中で、一番美しい笑顔だった。


「……うん。……知ってたよ」


彼女は、何かを言いかけた。

だけど、その言葉が音になることはなく、代わりに、穏やかな寝息が聞こえてきた。

いや、違う。


彼女の手から、すっと力が抜けていく。

俺の手を握り返す、温もりはもう、どこにもなかった。


病室に響いていた規則的な電子音が、途絶える。

代わりに、世界を支配するような、冷たい、長い音が、鳴り響いた。


俺は、動かなかった。

ただ、静かになった彼女の手を握りしめ、その寝顔を見つめていた。

まるで、最高の夢の続きを見ているみたいに、穏やかで、幸せそうな顔。


約束だ、陽葵。

俺は、泣かない。

お前の最後のわがまま、必ず、叶えてみせるから。


窓の外では、あの日と同じように、静かな雪が舞い続けていた。

君のいない世界が、今、始まる。

それでも、俺の心の中には、君が灯してくれた、消えることのない光が、確かに宿っていた。


***


あれから、二年が経った。

俺は、あの冬の海に、一人で来ていた。首からは、陽葵と一緒に撮った“普通の写真”を入れた、古いカメラをぶら下げている。


大学を卒業した俺は、小さな出版社で、カメラマンのアシスタントとして働いている。

モノクロだった俺の世界は、今、たくさんの色で溢れている。

笑って、泣いて、怒って、そして、時々、どうしようもなく君に会いたくなる。


波打ち際に立ち、目を閉じる。

聞こえてくるのは、あの日、二人で聞いた優しい波の音。


大丈夫だよ、陽葵。

俺は、ちゃんと、前に進んでる。

君がくれたこの心で、君が見たかったこの世界の美しい瞬間を、一つ一つ、切り取って生きていく。


不意に、雲の切れ間から、柔らかな太陽の光が差し込んできた。

それはまるで、空の上から、君が笑いかけてくれているようだった。


俺は、空に向かって、そっと微笑み返す。

そして、また、明日へと歩き出す。


君との約束を、果たすために。

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