第一話:世界の彩度を上げたのは、君だった
「大学生活とは、人生の夏休みである」
どこかの誰かが言ったその言葉を、俺は講義室の一番後ろの席で反芻していた。窓の外は雲ひとつない青空。グラウンドからは、やけに楽しそうな声が聞こえてくる。
まさに夏休みみたいな陽気だ。だけど、俺にとってのそれは、ただただ退屈で、無限に続くかのように思える、色のない時間だった。
神崎湊、大学二年生。可もなく不可もない成績で単位を取り、意味を見出せないままファミレスのバイトをこなし、アパートと大学を往復するだけの毎日。世界はまるで、彩度を落としすぎた写真みたいに、ぼんやりと霞んで見えた。
そんな俺が、年に一度の健康診断のために大学病院の待合室にいたのは、単なる義務感からだった。ここでもやることは同じ。スマホをいじって、順番を待つ。それだけ。
無機質なパイプ椅子、消毒液の匂い、気怠い午後の空気。退屈の構成要素が完璧に揃った空間で、俺は静かに目を閉じた。
その、静寂を切り裂くみたいに、彼女は現れた。
「ふぅ、セーフ!」
どん、と軽い衝撃と共に、隣の椅子に誰かが勢いよく座った。
驚いて目を開けると、そこにいたのは、このモノクロの空間にはおよそ似つかわしくない、鮮やかな色彩を放つ女の子だった。
少し赤みがかった栗色の髪。レモンイエローのカーディガン。何より、大きな瞳がキラキラと、まるで世界中の光を吸い込んでいるみたいに輝いている。
同じ大学の学生だろうか。見覚えはない。彼女は看護師の目を盗むように身をかがめると、いたずらっぽく笑って俺に話しかけてきた。
「ねえ、君。もしかして、暇?」
初対面の相手にかける第一声がそれかよ。
俺は無視を決め込もうと、再びスマホに視線を落とした。関わると面倒くさいことになる。俺の人生経験が、そう警告を鳴らしている。
「あのさ、私、今からちょっとした冒険に出るんだけど」
「……」
「脱走計画、みたいな?」
「……」
「協力者、求む。報酬は、そこの自販機のアイス一個。どう?」
矢継ぎ早に繰り出される言葉を右から左へ受け流す。だが、彼女は諦めなかった。俺の腕を、ツンツンと人差し指でつつく。
「ねえってば。聞いてる?」
「……聞いてる」
「じゃあ返事してよー」
「……興味ない」
「えー、そんなこと言わずにさ。人生、一度きりでしょ? 退屈してる暇なんてないんだよ?」
その言葉が、少しだけ胸に引っかかった。
顔を上げると、彼女は悪戯が成功した子供みたいに、ニッと笑った。
「よし、行こっか!」
「は? いや、俺は行くなんて……」
「いいから、いいから!」
有無を言わさず、彼女は俺の手首を掴んだ。
華奢な見た目に反して、その力は驚くほど強かった。指先から伝わる熱が、やけに生々しい。俺は抵抗するのも馬鹿らしくなって、ため息をつきながら立ち上がった。
彼女の計画――“脱走”は、想像以上にささやかなものだった。
看護師の視線を柱の影から窺い、小走りで廊下を駆け抜け、たどり着いたのは中庭に面したテラスだった。
「ぷはーっ! 外の空気、最高!」
彼女は大きく伸びをすると、花の咲く植え込みの前にしゃがみこんだ。その横顔は、さっきまでの快活さとは少し違う、どこか儚げな光をまとっているように見えた。
「脱走って、ここまで来るためだけにか?」
「うん。今日のミッションは、『太陽の匂いをかぐ』だからね」
「ミッション?」
「そっ。人生を遊びつくすための、大事なミッション」
そう言って振り返った彼女の笑顔は、やっぱり太陽みたいに眩しかった。俺はなんとなく気まずくて、自販機に百円玉を入れる。
「……アイス、何がいい」
「え、ほんとに? やった! じゃあ、ソーダ味のやつ!」
差し出したアイスを、彼女は本当に嬉しそうに受け取った。
しばらく、二人で無言のままアイスをかじる。気まずい沈黙のはずなのに、不思議と居心地の悪さはなかった。
「……君さ、いつもあんなつまらなそうな顔してるの?」
「別に」
「してるよ。魂、半分くらいどっかに置いてきたみたいな顔」
図星だった。俺は何も言い返せずに、最後の一口を飲み込んだ。
「ありがと。助かったよ」
「別に、何もしてない」
「ううん。一人より、二人の方がずっと楽しい。冒険って、そういうもんでしょ?」
彼女はそう言うと、ふわりと立ち上がった。
その時だった。カーディガンのポケットから、一冊の大学ノートが滑り落ちたのは。
俺はとっさにそれを拾い上げる。何の変哲もない、どこにでも売っているノート。だけど、その表紙に書かれた手書きの文字に、俺は目を奪われた。
『天国に持っていくためのやりたいことリスト』
「あっ!」
俺がページを開こうとするより早く、彼女が慌ててノートをひったくった。
その顔は、さっきまでの笑顔とは違う、少しだけ焦りと、見られたくないものを見られた子供のような、戸惑いの色が浮かんでいた。
「……じゃ、じゃあね! また!」
彼女はノートを胸に抱きしめると、くるりと背を向け、病棟の方へ駆け出していく。
「あ、おい!」
呼び止める間もなかった。
あっという間に、彼女の姿は自動ドアの向こうに消えていく。その背中を見送りながら、俺は一人、テラスに立ち尽くしていた。
手の中には、まだアイスの棒が残っている。
さっきまでモノクロだった世界に、ほんの少しだけ、レモンイエローの色が差したような気がした。
「天国に、持っていくための……?」
呟いた言葉は、誰に届くでもなく、初夏の空気に溶けていった。
また会える保証なんてどこにもない。名前も知らない、不思議な女の子。
なのに、なぜか俺は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
まるで、退屈だった俺の物語が、勝手に次のページをめくろうとしているような、そんな奇妙な予感がしていた。




