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死神さんが教えてくれたこと

死神さんのモデルはサンドイッチマンの伊達さんです。

「うわああ!」


 まだ暑さが残る九月の朝、僕、川島栄太かわしまえいたが目を覚ますと、四十代ぐらいのおじさんが添い寝していて、思わず悲鳴をあげてしまった。


「ひやああ! なに? 何があったの?」


 トランクスと白いTシャツ、頭は短い茶髪で細い銀縁眼鏡を掛けたまま寝ていたのか、おじさんは僕の悲鳴で飛び起きた。


「あなた、誰ですか?!」


 僕は体を起こし、キョロキョロ周りを見ているおじさんに問い掛けた。


「お前、見えるタイプなのか?」

「見えるタイプってなんの事ですか? どうしてあなたが僕の部屋で寝ているんですか?」

「あちゃーそうか……仕事がやりにくくなっちゃうな……。俺は死神。お前が死んだら魂をあの世に送り込む役目があるんだよ」

「ええっ! 死神?!」


 おじさんはどこをどう見ても普通の中年男にしか見えず、僕は驚いた。


「まあ、信じられねえだろうな。頭の上を見てみろよ」


 おじさんに言われて上を見ると、緑の「24」と青の「50」という数字が浮かんでいる。手で払っても数字は消えず、ホログラムの映像のような感じだ。


「なんですか、この数字は?」

「緑の数字は日数、青は確率だ。つまり、お前は後二十四日後に五十パーセントの確率で死ぬって事なんだ」

「ええっ! 嘘でしょ! まだ二十四歳だし、こんなヒョロガリな体で、健康診断で引っ掛かった事も無いのに!」

「まあ、死ぬのは病気だけじゃ無いからな」

「突然そんな事言われても信じられないですよ……あっ! 今何時?」


 僕は出勤しなきゃいけない事に気付いて、枕元の目覚まし時計を見た。


「ああっ! もう八時だ! なんで鳴らなかったんだ? 遅刻しちゃうよ」

「あっ、それ、うるさいんで俺が止めちゃったよ」

「なんて事すんだよ、あんたは!」


 僕は顔も洗わずに背広を着て、アパートを飛び出した。


「おい、もうちょっとゆっくり行ってくれよ」


 死神さんが走って駅へと向かう僕の後ろから、息を切らせて付いてくる。

 驚いた事に、死神さんの服は指をパチンと鳴らしただけで、和柄のシャツと短パンに変わっていた。しかし、ゼイゼイ言いながら後ろを走って来る姿は、うだつの上がらないチンピラやくざにしか見えない。


 走ったお陰で、駅に着いた時には、なんとか仕事に間に合う時間だった。。死神さんもなんとか付いて来て、今は両手を膝について、ゼイゼイ言いながら苦しそうに下を向いている。

 仕事には間に合ったが、僕の気持ちは沈んだ。いつもの電車で笑顔さんの姿を見れなかったからだ。


「そんなに苦しいなら、付いてこなきゃ良いのに」


 僕は腹立ちまぎれに、死神さんに当たった。


「数字の出た奴ほっといたら、他の死神に取られるだろ。こう見えてもノルマきついんだよ」

「ノルマがあるんですか?」

「おお、今回は厳しくてな。ノルマ未達成が続くと、存在を消されちまうんだ。だから、対象の人間に付いていて、魂が口から出て来たところをグッと掴んで、この袋に仕舞い込んで死者の世界に運ぶんだ」


 死神さんはズボンのポケットから、真黒なきんちゃく袋を取り出して僕に見せる。

 こんな話、信じられないが、死神さんも服が一瞬にして変わったり、頭の上の数字が現れたり、不思議な現象が起こっているしな……。


「僕はあと二十四日で本当に死んじゃうんですか?」


 改札を抜けて、ホーム向かいながら、僕は死神さんと話している。


「今は五分五分ってところだな。まあ、普通に数字が見えないほとんどの人間は、時間が進むにつれ確率が上がって死んでしまうけどな」

「それじゃあ、数字が見える僕は回避する事も出来るんですか?」

「まあ、やりかた次第だわな」


 そうなのか。まだ、決定ではないんだな。


「ん、なんか周りの人が僕をじろじろ見ているような……。ほら、すれ違う人が確実に変な目で僕を見てますよ」

「お前が大きな声で独り言しゃべっているからな。俺の姿や声は他の人間には見えないし」

「それ、先に言って下さいよ!」


 僕はその後、人前では死神さんを無視する事にした。



 僕は雑居ビルのワンフロアに全部署が入る小さな会社で、経理の仕事をしている。

 遅刻せずに間に合ったが、仕事が始まってから死神さんが会社のフロア内をうろうろするので、集中する事が出来ない。同じ課の先輩社員である松田まつださんが使っていたボールペンを少し違う場所に置いたり、彼が席を外している間にパソコン画面にエロい画像を表示させたりのいたずらはまだ可愛げがあったが、お局様の浜田はまださんのほっぺにキスをしようとした時には、声を上げてしまって彼女に睨まれてしまった。


「おい、川島!」


 課長がデスクから僕を呼びつける。高圧的に話す人で、僕は苦手にしている。


「はい」

「これ、今日中にやっておけ」


 デスクの前に行った僕に、課長がバサッと書類の束を投げ出す。


「えっ? 今やっている分も今日中って言われましたが……」


 無理な要求に戸惑っていると、死神さんがやって来て課長の後ろに立った。


「どちらも今日中に決まってる……うん?」


 死神さんは課長の右肩を後ろからポンポンと叩いた。振り返った課長の目には、当然死神さんは映らない。課長は不思議そうな顔をしながら、また前を向くが、死神さんが今度は左肩をポンポンと叩く。課長はまた振り返ったが、当然誰もいない。死神さんはそんな事を二度三度繰り返した。


「お前がやっているのか!」

「えっ? 何の事ですか?」


 僕は必死に笑いをこらえて、すっとぼけた。すると死神さんは、マジックを手に持ち、課長の髪が後退して広くなった額に「バカ」といたずら書きした。さすがに僕はこらえ切れずに大爆笑し、切れた課長に仕事を押し付けられてしまった。



「さあ、晩御飯が出来ましたよ」


 遅くまで残業し、アパートに帰って食事を始める頃には日付が変わってしまった。


「おっ、美味しそうじゃねえか。料理上手いんだな」

「ご飯まで食べるんですね」

「おお、食べなくても平気だけどな。物も持とうと思えば持てるし、すり抜けようと思えばすり抜けられるし、便利に出来てんだよ。せっかく見える奴に憑いたんだから、楽しませて貰うぜ」

「それはそうと、会社内では大人しくしていてくださいよ」

「いや、見ている人が居ると思うと張り切っちゃうんだよな」

「なんなんですか、その謎のサービス精神は!」


 僕の中にある死神のイメージと違い過ぎる。


「課長があの落書きに気付いたら、僕の所為にして怒られちゃいますよ」


 結局、課長は額の「バカ」の文字に気付かず、嫌われているので誰にも教えて貰えずで、そのまま帰宅してしまった。


「あんな奴の言う事なんか無視すりゃ良い。俺は多くの人間見ているから、一目見りゃそいつがどんな奴か分かるんだよ。あいつはロクな人間じゃねえよ」

「僕もそう思います」


 僕たちは目を合わせて笑った。


「しかし、お前も変わった奴だな。実感湧かねえかも知れんが、あと二十三日で死ぬんだぞ。会社なんか行かずに遊ぼうとか考えないのか?」


 僕は頭上の数字を確認した。昼過ぎに日数が一日減ってはいたが、確率は変わっていない。


「正直実感は無いですね。でも、死ぬ事自体は怖くは無いです。ただ痛いのは嫌だなって……」

「親や兄弟、友達とか恋人とか居ないのか?」


 死神さんの問い掛けに、僕は苦笑いで返した。


「まあ、いろいろ事情はあるわな。俺もその方が、気が楽だ」


 死神さんは、僕の作った野菜炒めを頬張りながら、少し不機嫌そうにそう言った。


「死神さんこそ、家族は居ないんですか? 昔は人間だったとか?」

「多分昔は人間だったと思う。記憶はねえけどな。死神となった今は、家族も居ねえ気楽な身分だよ」


 暗い話になったからか、僕たちは言葉少なに食事を済ませた。



「どうしてまた止めるんですか!」

「おい、もうちょっとゆっくり行ってくれよ!」


 次の日の朝も、僕は駅に向かって走っている。また死神さんに目覚まし時計を止められたのだ。息を切らせて付いてくる死神さんと一緒に、なんとかいつもの電車に飛び乗った。


 僕が利用する朝の電車はいつも混み合っている。だが、僕はこの電車が嫌いではない。それは気になる女性も利用しているからだ。

 その女性を、僕は『笑顔さん』と密かに呼んでいる。ショートカットでスーツ姿の笑顔さんは、たぶんどこかの会社のOLなんだろう。本人は普通の表情をしているのだろうが、いつも微笑んでいるように見える。その顔は優し気で、僕のような人間でも温かく受け入れてくれる気がした。笑顔さんと話をした事は無い。僕を認識しているのかさえ分からない。でも、僕は毎朝その笑顔を見れるだけで満足だった。


 そんな笑顔さんの表情が、今日は曇っている。僕と彼女の間には、見た事の無い一人のサラリーマン風の男がいた。彼女は出入口横の壁際に居て、男が覆い被さるように向かい合っている。僕からは彼女の表情が少し見えるだけで、男の背中が壁になって、二人の間の様子はよく分からない。でも、何やら怪しげな雰囲気はある。

 笑顔さんは今にも泣きだしそうな表情になっている。もしかしたら痴漢か? どうする? 人を押し退けてでも、無理やり間に割って入るか。でも勘違いだったら……。


「おい、目の前の男、痴漢してやがるぜ」


 僕が行動をためらっていると、耳元で死神さんが囁いた。死神さんはこの満員電車の中でも自由に動けるので、確かな情報だろう。後は僕が勇気を出して行動するだけだ。


「あの、彼女、嫌がってますよ。やめてください」


 僕は男の肩を掴み、震える声でそう言った。


「な、俺が何をやったって言うんだ」


 男が怒りに満ちた顔で僕を睨む。気持ちがひるんだが、笑顔さんの悲しそうな顔を見て持ちこたえた。


「あなた痴漢してるでしょ。僕は分かっているんですよ」

「ば、馬鹿かお前……」


 男が反論しようとした瞬間、電車が駅に着いて、すぐ横の出入口のドアが開く。男は反論を放棄して、脇目も振らずに出入口から逃げ出した。

 僕は相手の素早さに虚を突かれて出遅れ、我に返った時には乗り込んでくる乗客に阻まれ、追い駆ける事が出来なかった。結局、男の代わりに僕が笑顔さんの横についてしまった。彼女に壁ドンをする格好で、押し潰さないように、必死で腕を突っ張り支えた。


「大丈夫ですか?」

「ありがとうございます……」


 笑顔さんは痴漢されていた事を恥じているのか、それだけ言うと俯いてしまった。僕もそれ以上、掛ける言葉を失い、ただ必死に腕を突っ張っていた。

 目的の駅に着いた笑顔さんは僕の顔を見ることも無く、伏し目がちに「ありがとうございました」ともう一度頭を下げて降りて行った。僕はその後姿を眺めて、また明日からあの笑顔が見れるのだろうかと心配になった。



「もう少し上手いやりかたが有ったのかな?」


 僕は持っていたお茶碗と箸を置いて、呟いた。


 仕事が終わってアパートに帰り、今は死神さんと夕飯を食べている。今日一日、僕はずっと笑顔さんの事を考えていた。


「そんな気にする事はねえだろ。痴漢を止めたんだから上出来だよ」

「でも、彼女に恥をかかせてしまいました」

「そんな事ねえって、明日になれば『惚れちゃいました! 付き合って下さい!』って言ってくるから」


 死神さんは僕の心配をよそに、笑顔を浮かべてスーパーで買ったコロッケを口に入れた。


 そうは思えなかった。むしろ、僕の顔を見ると痴漢に遭った事を思い出すので、電車の時間を変えられるかと思っていた。ただ、もし笑顔さんが電車の時間を変えたとしても、それで彼女に笑顔が戻るなら、僕は満足だ。今日の悲しそうな顔は、笑顔さんには似合わないから。

 僕は笑顔さんの事が気がかりで、なんとなく上を見上げた。


「あっ! 確率が六十パーセントになってる」


 頭上の数字が「50」から「60」に変わっていた。


「これから、日数は減ってきて、確率は上がって行くからな。心づもりはしておけよ」


 心づもりか……。特別そんな事、僕には必要ない。


「僕の両親はなぜ結婚したんだと不思議になるくらい、仲が悪かったんです。親父は仕事が一番の人間で、お金は稼いでくるが、家で顔を見る事は殆どありませんでした。母は母で、家事もせず、パチンコに行くか家でゴロゴロしているだけ。僕に話し掛ける事もあまり無かったんです」


 突然身の上話を始めた僕を、死神さんはポカンとした表情で見ている。呆れられるかも知れない。でも、それでも、死ぬ前に一度誰かに話してみたかった。


「今で言うネグレクトですかね。昔は聞いた事無かったですが。僕は何が普通で、何が常識かも教えて貰えず、生きる最小限の物だけを与えられて育ってきました。

 幸いいじめには遭いませんでした。無視がいじめと言うなら、そうなのかも知れませんが。でも、たぶんいじめと言う意識は周りに無かったと思う。ただ、居ても居なくてもどうでも良い、透明人間のような存在でしたから」


 死神さんは何も言わなかったが、ちゃんと聞いてくれているようだ。僕にはそれが有難かった。


「お金は稼いできてくれる父のお陰で、僕は高校、大学と進学する事が出来ました。その頃には周りと普通にコミュニケーションを取れるようにはなっていました。でも、友達と呼べる人は一人も居なく、ただずっと惰性で生きて来ただけ。それが今も続いています。

 こんな僕に、死ぬことに対する心づもりなんて必要はありませんよ。ただ、痛いのは嫌だなってだけで……」


 僕は話し終えたが、死神さんは何も言わず、二人の間に沈黙が流れた。


「さあ、ご飯食べましょう」

「ああ、そうだな」


 僕たちは会話も無く夕飯を食べ終えた。


 そうだ、どうせ後一か月弱しかないんだ。死んで消えてしまえば、彼女も僕を見ることも無く痴漢の事は忘れて笑顔が戻るだろう。誰の記憶にも残らず、消えてしまえば良い。



 次の日の朝は、目覚まし時計を離れた場所に置いていたから、普通の時間に起きれた。三日ぶりに余裕のある朝だ。


「ゆっくりした朝も良いもんだな」

「誰の所為で、慌ただしかったと思ってるんです?」


 今日は死神さんと並んで駅まで歩く。僕は秘密兵器として、コードレスイヤホンを耳に着けていた。これだと一人でしゃべっていても何とか理解してもらえる。


「でも、ホント仕事はもう良いじゃねえか。どこか遊びに行こうぜ」

「別に行きたいところも、したい事も無いですからね。普通に過ごしますよ」

「風俗とかどうだ? 童貞だろ? 一回やっとけよ」

「どこまで俗っぽいんですか。とても死神には思えませんね。人間だった時にはよく行ってたんですか?」

「どうなんだろうね? 自分でもよく分かんねんんだよ」


 死神さんは、そう言って笑う。僕の身の上話など忘れたかのようだ。僕はそれが嬉しかった。初めて他人に話したけど、同情されたり、意識されたりはして欲しく無かったからだ。


「だいたい、それで嵌まっちゃったらどうするんですか? この世に未練が出来ちゃいますよ」

「そうか、確かにそうかも知れんな。残された時間をどう使えば良いのかね……」


 僕の冗談を真に受けて、死神さんは腕を組んで考える。


「今まで通りで良いんですよ。淡々とその時を迎えましょう」


 そうだ。どうせ死ぬなら、下手な事をせず、穏やかな気持ちで逝きたい。


 そうこう話をしているうちに駅に着いて、僕たちはホームに上がる。電車を待つ列の後ろに並ぼうとすると、一人の女性が近付いて来た。


「おはようございます。私は赤村杏里あかむらあんりと言います。昨日は本当にありがとうございました」


 近付いてきた女性は笑顔さんだった。彼女の名前は赤村さんと言うのか。緊張していて顔は強ばっているが、昨日のような悲しそうな顔ではなく笑顔だ。

 何か返事をしようとしたが、上手い言葉が見つからず「あっ、あの……」と呟いていると、赤村さんが頭を下げた。


「昨日は助けて頂いたのに、逃げるように電車から降りて、本当にすみませんでした」

「あ、いや、全然大丈夫です。気にしてませんから。頭を上げてください」

「良かった。申し訳なさ過ぎて、昨日は謝らなきゃって、ずっと考えていたんです」


 頭を上げた、彼女の顔は、いつも以上に笑顔が輝いていた。彼女の後ろで、「ほらな」ってドヤ顔を浮かべている死神さんが、ホント邪魔で仕方ない。


「失礼ですが、何かお礼をさせて頂けませんか?」

「あ、いや、そんなお礼なんて全然大丈夫で……」

「でも……」

「ホントに、あの、気を遣わなくて全然大丈夫ですよ!」


 僕がテンパり気味でそう言うと、赤村さんは少し悲しそうな表情になる。


「おい、断り過ぎると逆に相手に失礼だぞ」


 なぜか人間心理に詳しい死神さんが、耳元でささやく。その言葉を聞き、僕は冷静になれた。確かにこれじゃあ、迷惑がっているみたいだ。


「でも、そう言って貰えるのは凄く嬉しいです」

「ホントですか! じゃあ……」


 赤村さんが嬉しそうに笑った瞬間、ホームに電車が入って来て、僕達は流れのままに乗り込んだ。

 電車内は隙間が無いくらい混雑していて、とても話が出来る雰囲気では無い。僕と赤村さんは密着した状態で、並んで立っている。背の高い僕が見下ろす感じで、赤村さんは恥ずかしそうに下を向いている。

 二つ駅で乗り降りがあり、僕達は昨日のような位置取りになった。赤村さんが壁際、それを僕が両腕で壁ドンしている体勢だ。


「あの、お名前をお聞きして良いですか……」


 赤村さんが小声で呟く。


「あっ……」


 そう言われてみれば、名乗ってなかったな。


「僕は、川島栄太です」

「ありがとうございます。川島さんですね」


 赤村さんの少し照れたように笑った顔を見て、僕の胸がドキッと高鳴る。そんな僕の反応が楽しいのか、死神さんはちょろちょろ視界に入って来て、ニヤニヤしている。

 その後は満足な会話も出来ないまま、赤村さんの降りる駅に着いた。


「あの、これを読んでください」


 赤村さんは降り際に、可愛らしい緑色の手紙を手渡してくれた。


「それじゃあ」

「あ、はい、また……」


 僕は手に持った手紙を眺めた。手紙には何が書かれているんだろうか?


「やるじゃん。ラブレターだなそれ」

「いや、違いますよ!」


 死神さんに冷やかされ、みんな無言の電車内で思わず声をあげてしまった。周りの視線が痛い。キッと死神さんを睨んだが、ニヤニヤした笑顔のままで全然気にしていないようだ。

 死神さんの言葉を否定はしたが、僕も内心ラブレターかもと期待していた。



 会社に着くと、すぐにトイレの個室に駆け込み、手紙を開いた。


「おい、なんて書いてあるんだよ」


 死神さんがのぞき込む度にガードしながら読んだ。だが、期待に反し、ラブレターと呼ぶ程の内容では無かった。

 手紙は赤村杏里という名前と、ホームで話してくれたような感謝とお礼がしたいと言う話で、ライン登録して連絡を取りたいとの事だった。

 僕と話が出来なかった時を考えて、手紙にしてくれていたんだろう。


「どうするんだよ」


 結局、死神さんは覗き見したようだ。


「どうすれば良いんですかね?」

「そりゃ、お前次第だろ。どうしたいんだ?」


 僕は赤村さんの笑顔を思い浮かべた。望んでは無かったけれど、親しくなれるならそうしたい。


「僕は赤村さんと親しくなりたいです」

「じゃあ、連絡しろよ」

「でも、もうすぐ死ぬかも知れないんですよ? 今親しくなったって無駄じゃないですか」


 そうだ、もし死ぬとしても、今のままの方が穏やかな気持ちで迎えられる筈。


「お前はたまたま見えてしまったから、そう思うかも知れんけどな、人間なんてみんないつか死ぬんだぞ。何も考えずに行動してて、明日死ぬ奴もいるんだ。死ぬかもしれないから何も出来ないって言うぐらいなら、今すぐ死ね! 俺が魂抜いてやるよ」

「いや、やめて下さい……」


 死神さんが僕の口に手を突っ込んでくる。


「分かりました! 連絡しますよ、もう……」


(お手紙ありがとうございます。ライン登録しました。よろしくお願いします)


 ライン登録してメッセージを送信した。すぐ既読になり、メッセージが返って来る。


(登録ありがとうございます! 仕事が始まるので、また後で連絡しますね!)


 スタンプも無いシンプルなメッセージだ。


「あっ」


 急に死神さんが声を上げる。


「どうしたんですか?」

「あ、いや、勘違いだ。何でもない」


 何か誤魔化されたようで気になったが、もう始業時間になるので追及はしなかった。



 昼休みになり、いつも通り僕は一人会社近くのハンバーガーショップで食事を取っている。カウンター席でセットメニューを食べていると、赤村さんからラインが入った。

 迷惑でなければ、昨日のお礼に食事をご馳走したいとの事だった。


「変に遠慮して断ると、迷惑がっていると思われるぞ」


 横で見ていた死神さんがアドバイスをくれる。


「そうですかね? でも、すぐに受けると図々しくないですか?」

「考えてもみろよ、相手はお前の事を何も知らないんだぞ。断るって事は彼女が居るんじゃないかとか、自分と食事は嫌なんじゃないかとか、いろいろ勘ぐってしまうだろ。自分がその立場になったと思って考えりゃ分かるだろ」


 確かにそうだ。もし僕が赤村さんの立場なら、すんなり了解してくれた方が助かる。僕は赤村さんの提案をありがたく受け、二人の都合が良い今日の夜に会う事になった。



 仕事が終わり、僕は赤村さんから指定された駅の改札で待っている。

 仕事中もずっと赤村さんの事が気になり、集中出来なかった。女性と二人っきりで食事なんて初めての経験だ。上手く会話が出来るのだろうか。


「心配しなくても大丈夫だぞ。俺がアドバイスしてやっから」

「絶対にやめてくださいよ! 店の外で待ってるって話でしたよね」


 邪魔をしないように、死神さんには事前に話をしていた。


「分かってるって」

「あっ!」


 改札の中から、赤村さんが走って来る。


「ごめんなさい。こちらから約束しておいて、遅れるなんて」


 電車を降りてからずっと走ってきたのか、赤村さんは焦った表情で息を切らしている。


「大丈夫ですよ。仕事の都合なんだから仕方ないですよ」

「ありがとうございます。じゃあ、行きましょうか」


 赤村さんはいつもの笑顔を見せてくれた。

 赤村さんの案内で、僕たちは駅近くにある洋風居酒屋に向かった。

 並んで歩きながら、赤松さんが店の事を説明してくれる。個室があり落ち着いた雰囲気で凄く気に入っている店らしい。よく友達と行っているみたいだが、その友達の性別が気になった。


 店に着くと、僕達は四人程が入れる小さな個室に案内された。二人ともビールを注文し、料理は赤村さんが頼んでくれた。


「カンパーイ」


 すぐに運ばれてきたビールジョッキで乾杯する。あまり飲めない僕は一口二口飲んだだけだ。


「本当にありがとうございました」


 赤村さんが改めて頭を下げる。


「いや、十分に感謝されましたから、大丈夫ですよ」

「いや、痴漢から助けて貰った事もですけど、その後の事も嬉しかったんです」

「えっ?」


 赤村さんの言うその後の事が、何を指しているのか分からなかった。


「あんな事があった後なので凄く怖かったんですが、あの後川島さんが守ってくれていたから、凄く安心出来ました」

「そ、そうなんですか……」


 そんな風に思っていてくれたなんて、嬉しいのと照れくさいのとで顔が熱くなる。でも、昨日は勇気を出して本当に良かった。赤村さんを守れた気がして、感じた事のない誇らしい気持ちになった。


「あの、助けて貰った上に図々しいんですが、お願いがあるんです」


 赤村さんは切実そうな表情を浮かべている。


「あ、僕に出来る事なら……」

「あの……今日みたいに、朝一緒に電車に乗って貰えませんか?」

「ああ、そんな事なら全然、大丈夫です」

「ありがとうございます! あ、でも彼女さんとか誤解されたりしませんか?」

「いや、彼女なんて、いませんから大丈夫です。逆に赤村さんは大丈夫なんですか?」

「私もいませんから大丈夫です!」


 よしっ! 僕は心でガッツポーズした。


「おお、良かったじゃねえか」

「ああっ!」


 不意に、死神さんに耳元で呟かれ、僕は驚いて声を上げた。完全に油断していたのだ。


「どうしたんですか?」

「あ、いや、すみません、ちょっとトイレに行って来ます」


 僕は慌ててトイレに駆け込んだ。


「外で待ってるって言ってたじゃないですか!」


 僕は悪びれた様子の無い死神さんに、掴みかからんばかりの勢いで怒った。


「悪い、悪い、上手くやってるか、どうも気になってな。初めてのお使いに出す親の気持ちだよ」

「死神には家族居ないって言ってたじゃないですか!」


 外で待っているように、死神さんにもう一度しっかり念押して、僕は個室に帰った。


「本当に大丈夫ですか? 無理してませんか?」


 僕が席に戻ると、赤村さんが心配そうな顔で聞いてくる。


「いや、とんでもない。嬉しいくらいです。 それより、赤村さんは僕の駅から電車に乗るのは辛くないんですか?」

「実は私は一つ前の駅から乗っていて、家は両方の駅の間にあるんですよ。少し家を出るのが早くはなりますが、全然平気です」

「じゃあ大丈夫ですね。明日からよろしくお願いします」

「そんな、お願いするのは私の方ですよ」


 僕たちは笑い合った。


 料理も運ばれて来て、食事をしながらお互いの情報交換を行った。

 赤村さんは僕より一つ年上の二十五歳。童顔なので、年下かと思っていたので意外だった。実家を離れて、今は一人暮らしをしているらしい。僕もさすがに家庭の事情は話さなかったが、年齢や一人暮らししている事や趣味を話した。

 赤村さんも僕と同じ、映画鑑賞が趣味と聞き、話が盛り上がった。お互い好きなジャンルや作品の事を話し、楽しい会話が続く。こんなに楽しく人と話をした事など無く、僕は夢中になっていた。

 あっという間に三時間が過ぎ、そろそろ予約の終了時間となった。鞄を持って帰り支度を済ますと、赤松さんが伝票を持ちレジに向かう。


「あの、俺も出しますよ」


 レジで会計している赤村さんに声を掛けた。


「いや、今日はお礼なので、当然私が出しますよ」

「いや、僕も楽しかったので……」

「じゃあ、次に食事に行く時には僕が出しますって言っとけ」


 また死神さんか! さすがに今回は声を上げずに済んだ。どこか少しだけ、死神さんの存在が頭の隅にあったのだ。

 横目でチラッと死神さんを見ると、早く言えと促してくる。言う通りにするのは悔しい気持ちもあるが、死神さんの言うう通りにすれば次回の約束もし易い。


「あの、じゃあ、次の食事は僕に出させてください」


 僕は死神さんのアドバイスに乗ってみた。


「それは駄目です」


 赤村さんが慌てて僕の言葉を否定する。正直、そこまでキッパリと断られるとは思わなかったので、僕は驚いた。横目で見ると、死神さんも驚いた顔をしている。


「あ、いや……割り勘なら、ぜひ次も行きたいです……」


 赤村さんは少し照れたように、俯き加減でそう言った。


「なっ」


 「なっ」じゃねえよ! 死神さんが肘で僕を小突いてきたが、ドヤ顔してるのは分かっているので、チラ見もしてやらなかった。


「ありがとうございます。今日はご馳走になります。また今度行きましょうね」

「はい、喜んで」


 僕が了解すると、赤村さんもニッコリ微笑んでくれた。


 その後、赤村さんとはいつもの駅で別れ、僕達は自分のアパートまで帰って来た。


「おい、すぐにお礼の連絡入れろよ」

「ああ、そうですね」


 帰って来るなり、死神さんのアドバイスが飛んでくる。僕は慌ててスマホを取り出し、ライン画面を開く。


「全くお前はなんも分かっちゃいねえな」

「逆にどうして死神さんはそんなに人間関係の事に詳しいんです?」

「こんな事ぐらい常識の範囲だろ。まあ、お前とは人間力が違うんだよ」


 死神の癖にと突っ込みを入れたかったが黙っていた。


「次の約束の事も書いておくんだぞ」


 一々うるさいが、有難いのも事実だ。


(今日はご馳走して頂いてありがとうございました。凄く楽しかったです。また近い内に行きたいですね)


 すぐに既読が付いて返事が返って来る。


(こちらこそ、ありがとうございました。私も凄く楽しかったです。また行きたいですね)


 少しくすぐったいような、嬉し照れくさい気持ち。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだ。

 その後何回かメッセージのやり取りをして、ラインを終えた。明日の朝、駅で会えるのが楽しみだ。


「あの娘、お前に惚れてるな」

「ちょっと、見ないでくださいよ」


 そう言いながらも、惚れてると言われて嬉しかった。僕に好意を寄せてくれる人が出て来るなんて、考えた事も無かったからだ。しかも、あんなに笑顔が素敵な赤村さんが相手なんて。

 幸せな気分に浸っていた僕は、ふと思い出して、頭の上を見る。確率が六十五パーセントに増えていた。こんなに幸せな気分になれたのに、僕の命は後三週間ぐらいしか無いんだ。


「どうしたんだよ、急に?」


 黙り込んでしまった僕に死神さんがそう尋ねてくる。


「ああ、何でも無いです。そう言えば、死神さんは何も食べてないですね。カップラーメンしかないですが、食べますか?」

「おお、それ良いな。一度食べてみたかったんだよ」


 死神さんにカップラーメンを用意して、僕はお風呂に入った。小さな浴槽に体育座りで浸かり、もう一度頭の上の数字を見る。

 神様は残酷だ。死ぬ運命を与えたのなら、赤村さんと親しくなるなんて余計な事をしてくれなくても良いのに。ずっと生きていたくなるじゃないか。

 そんな僕の嘆きは、次の日の朝に駅で赤村さんの笑顔を見た瞬間に吹き飛んだ。彼女の笑顔は僕に幸せを運んでくれる。後三週間ぐらいで死ぬかも知れない。でも、逆に考えれば、それまでは確実に生きられるのだ。残りの期間は悔いなく生きようと決めた。



 あれから二週間ほどが過ぎた。赤村さんとは、毎朝顔を合わせているし、夜はラインで連絡を取っている。二回食事に行って、一度映画を観に行った。明日は初めて赤村さんのアパートに招待されて、手料理をご馳走してもらう事になっている。会えばいつも楽しく、順調な交際が続いていた。ただ、頭の上の数字が「8」と「80」になったのを除けば。


「川島、今日仕事終わってから予定ある?」


 今日は金曜のノー残業デイなので、四時頃から仕事の調整をしていると、横の席に座る松田さんが声を掛けてくれた。


「いえ、何もありませんが……」


 こんな事を聞かれたのは初めてなので、僕は戸惑った。何か特別な仕事が出て来たんだろうか?


「じゃあ、飲みに行かないか? 浜田さんと行こうかって話になったんだけど、二人で行くのも寂しいしな」

「浜田さんもですか!」

「なによ、私とで飲むのが嫌なの?」


 向かいの席から、浜田さんが冗談めかしてチャチャを入れて来る。


「いえ、とんでもないです。そういう意味じゃなくて、初めてなんで驚いて……。ぜひ僕も一緒に行きたいです」

「じゃあ、決まりだな。定時までに仕事片付けようぜ」


 僕達は定時で退勤し、会社の近所にある居酒屋に向かった。赤村さんにラインで事情を説明して、終われば連絡すると伝えた。

 居酒屋のテーブル席で僕と松田さんが並んで座り、松田さんの前に浜田さん、その横にはしれっと死神さんが座った。


「お疲れさまでした!」


 とりあえず僕たちはビールで乾杯した。松田さんと浜田さんが世間話で盛り上がり、僕は二人の話を聞いて相づちを打っていた。死神さんはつまらなさそうに、二人の目を盗んで料理をつまんでいる。


「そう言えば、川島、お前最近変わったよな」


 松田さんが、急に話を振ってきた。


「そうだよね。何か良い事あったんじゃないの?」

「いや、そんな事ないですよ。今までと変わらないと思いますよ」

「いやいや、今までは話し掛けづらい雰囲気あったけど、最近はそうでもないよね、浜田さん」

「そうそう、彼女でも出来たんじゃないの?」

「いや、まだ彼女って言える程じゃなくて……」


 僕はついポロリとこぼしてしまった。


「あっ、やっぱり居るんだ! ちくしょー悔しいな」

「なによ、松田君には私が居るじゃない」

「あっ、そっすね」


 少し酔って来たのか、二人が軽快に冗談を飛ばし合う。二人とも陽気な酒で楽しい。


「なになに、どこで出会ったのよ?」


 浜田さんが身を乗り出すように聞いて来る。

 僕は痴漢から助けた事で仲良くなった話を二人に聞かせた。


「なによそれ、ロマンスじゃない!」

「やるな、川島! お前ヒーローじゃん」


 死神さんが背中を押してくれたからこそなので、僕は感謝の気持ちで視線を送った。だが、死神さんのから揚げを口いっぱい頬張っている姿を見て、馬鹿らしくなってやめた。


 その後も赤村さんの事で話が盛り上がり、冷やかされながらも楽しくお酒が進んだ。


「しかし、課長のやろう、また自分のミスを俺に押し付けやがったんだぜ」


 話の流れが仕事に変わり、松田さんがぼやきだす。


「今日の事ね。ホントしょうがないよね、あの人は」


 浜田さんが松田さんに同調する。僕も松田さんがぼやいている件を知っているが、確かに課長が酷い。今回に限った事では無いのだが。


「でも一番課長の被害に遭ってるのは川島君よね」


 浜田さんが僕に話を振って来る。


「だよね。お前よく我慢してるよな」


 松田さんが慰めるように僕の肩を叩く。


「確かに腹が立つんですが、人と言い争うのが苦手なんで……」

「でも、嫌な事は嫌と言わないと駄目よ。面倒な事全部押し付けられちゃうよ」

「そうですよね……」


 確かに浜田さんの言う通り、今そうなっている。


「よし、決めた!」


 松田さんが今度は強く、僕の肩を叩く。


「今度理不尽な要求されたら、ちゃんと断れ。絶対俺達がフォローしてやるから。課の人間三人に言われれば、あいつもごり押し出来ないだろ」

「それ良いね、松田君。私も乗るわ」


 酔った勢いで信じて良いのか分からなかったが、こう言ってくれるだけで僕は嬉しかった。


「分かりました。キッパリと断ってみます。お二人ともフォローよろしくお願いしますね」

「よっしゃ、任せとけ!」


 二人は声を揃えて胸を叩いた。

 その後も僕たちは楽しく飲んで話を続けた。


 飲み会も終わり、僕と死神さんは駅からアパートまでの道を歩いている。


「こんな楽しい飲み会、生まれて初めてでした」


 僕はこの気持ちを誰かに伝えたくて、横に居る死神さんに話し掛けた。


「良かったじゃねえか。共通の敵が居るって言うのは団結しやすいもんだよ」

「僕が死んだら、あの二人は悲しんでくれますかね」


 僕は聞くともなく、呟いた。


「そりゃあ、悲しむだろ。でも、どうしたんだよ、急に」

「いや、僕が死んで悲しむ人が居るなんて、考えた事が無かったので。両親が悲しむとは想像も出来ないので」

「あの赤村って彼女も悲しむだろ。絶対泣くと思うぞ」


 そうだ。そんな当たり前の事に気付いて無かった。


「そうですよね……」


 死に対して、急に現実感が押し寄せて来る。赤村さんの声が聞きたくなり、僕は電話を掛けた。


「もしもし、こんばんは、今大丈夫ですか?」


(こんばんは! 今は家でくつろいでいますから大丈夫ですよ。飲み会は終わったんですか?)


 嬉しそうな赤村さんの声を聞いて、心が温かくなる。


「ええ、今終わって、駅から家に帰っているところです。急に赤村さんの声が聞きたくなって電話しました」


(そうなんですか! 私も川島さんの声が聞けて嬉しいです。でも、電話しながら歩くのは危ないですから、気を付けてくださいね)


「ありがとうございます。立ち止まっているので大丈夫ですよ」


 こういう心遣いが彼女らしい。


「明日が凄く楽しみです」


(私も楽しみです。期待に応えられるように頑張りますね!)


「じゃあ帰ったら、またラインします」


(はい、お待ちしています)


 電話を切った後に横を見ると、死神さんが心配そうな顔で見つめている。


「お待たせしました。帰りましょうか」


 僕は笑顔を作ってそう言ったが、死神さんは笑わない。


「大丈夫か?」


 僕は死神さんの問い掛けには答えず、笑顔のままで「置いて行きますよ」と声を掛けて歩き出した。



 次の日、僕は一人で赤村さんのアパートに向かっている。死神さんにどうしても二人っきりにして欲しいと頼んで、一人で出て来たのだ。代わりに僕の額には「予約済み」と死神さんの指で文字を書かれている。普通の人には読めないみたいだが、僕にはハッキリ見えるので不安になる。もし他の死神が来たら、この文字を見せて追い払えとの事だった。


 赤村さんのアパートまでは結構な距離があるが、僕は秋のさわやかな天気を感じながら歩いて向かう。僕に残された時間は、あと今日を含めて八日間。ゆっくりと時間を使いたかった。


「いらっしゃいませ!」


 赤村さんのアパートに着くと、彼女が笑顔で迎えてくれた。オレンジ色のロングTとデニムのジーンズ。カジュアルな服装も良く似合っていた。


「お邪魔します。これ途中で買ったケーキと約束してた白ワインです。ケーキはご飯の後、一緒に食べましょう」

「ありがとうございます。私、甘い物大好きなので嬉しいです」


 そう言って赤村さんは、笑顔で奥に通してくれた。


「もうお昼ご飯用意出来てますから、座って待っててくださいね」


 僕はダイニングにある二人掛けの小さなテーブルに腰掛けた。

 今日はお昼ご飯を食べた後、二人で赤村さんお勧めの映画を観て、夕飯を食べてから帰る事になっている。


「お昼は手作りのカルボナーラとサラダですよ」


 赤村さんんが、湯気が上がるカルボナーラの乗ったお皿とサラダのお皿を二つずつテーブルに並べる。


「パスタソースって手作り出来るんですね。いただきます」

「ネットでにレシピが沢山あるので、書いてある通りに作るだけなんですけどね」


 僕はフォークでパスタをすくい、一口食べてみた。


「美味しい!」


 なめらかでクリーミーな味わいが口の中に広がった。


「嬉しい。頑張って良かった」

「こんな風に、誰かの手料理を食べたのは初めてです」

「えっ、そうなんですか? 実家に居た時には……」


 赤村さんは、そこまで言って言葉を濁した。


「実家ではいつもスーパーのお弁当でした。母も父も健在ですが、手料理を食べた記憶は無いんですよ……」

「す、すみません、余計な事を言って……」


 僕が声のトーンを落とした所為か、赤村さんが暗い表情になる。


「いえ……あの……少し聞いてもらいたい話があるんですが、良いですか?」


 僕は自分の育った家庭の事を、赤村さんに聞いて貰おうと思った。今まで話したのは死神さんだけ。一週間後に死んでしまうのなら、話さずに付き合い続けても良いのかとも思っていた。でも最期の瞬間に後悔してしまうかも知れない。それに、もし話す事によって引かれてしまうのなら、それはそれで生に未練が無くなるかも知れないとも考えていた。


「はい、どうぞ」


 赤村さんの顔に緊張が浮かぶ。


「話は、僕の育ってきた家庭の事なんです……」


 僕はネグレクトを受けていた事や、学生時代にずっと孤独に過ごしてきた事を、赤村さんに話した。


「……そんな感じで、僕は他人と深く関わらないままここまで過ごしてきました。今までで一番親しくなった赤村さんには知ってて欲しくて……」


 赤村さんはずっと僕の話を真剣な表情で聞いていてくれた。僕の話を聞いて、どう感じたのだろうか?


「やっぱり、そんな事情があったんですね」


 赤村さんは緊張が解けて、ほっとしたような表情でそう言った。


 やっぱり……どういう意味なんだろうか? ずっと他人が不自然に感じないように、注意して行動してきたけれど、常識を知らない僕は、浮いた行動していたのだろうか? 赤村さんはそんな僕を不審に思っていたのだろうか?


 赤村さんの表情は笑顔だったが、僕は心臓に針を刺されたように緊張した。


「実は私、助けて貰う前から、川島さんの事を意識していたんです」

「意識していた……」


 なぜ、僕の事を意識していたんだろうか? 変な奴だと思っていたとか?


「川島さんって、凄く優しいですよね」


 普通でも笑って見える顔を、さらに笑顔にして赤村さんはそう言った。


「優しい、ですか……」

「そうですよ。満員電車に乗り込む時から、車内で立っている間も、ずっと周りに気遣いながら過ごしていたんですから」

「あ、でもそれは、迷惑掛けたくなかったから……小心者なだけですから……」

「私も最初そうかなって思ってたんですよ。でも、あなたは相手構わず優しいです。お年寄りが居たら自然につり革を持てる位置までスペースを作って誘導したり、降りる人にも自分が避けるだけでなく他の人に声を掛ける事もあったり。

 私を助けてくれた時に、壁際で守ってくれた時に確信しました。この人は本当に優しいんだって」


 自分をそんな風に見ていてくれた人が居たなんて……。僕は感動で言葉が出なかった。


「昔、聞いた言葉の受け売りなんですが、優しいと言う文字は、人の横に憂いが立っている。憂いている、悲しみを知っている人こそ、他人に優しくなれるんですって。

 育ってきた環境の話を聞いて、まさに川島さんの事だと思いました」


 赤村さんは優しく微笑んだ。


「あっ、失礼でしたか……」


 赤村さんが驚いた顔をしたので、僕は気付く。知らに間に僕は涙を流していた。


「ごめんなさい。嬉しくて……凄く嬉しくて……」


 焦って止めようと何度も拭うが、涙は後から後から流れてくる。仕舞いには嗚咽まで漏らしていた。


「川島さん……」


 赤村さんも涙を浮かべて、タオルを持ってきてくれた。


「ありがとうございます」


 僕がタオルで目を押さえると、赤村さんは頭を抱き締めてくれた。

 優しく頭を撫ぜて貰っていると、僕は一度も与えて貰えなかった、母親の愛情を感じて更に涙を流す。泣くのがこんなに気持ちの良いものだと始めて知った。


 僕が落ち着いてから再開した昼食は、もう冷めていたが美味しかった。


 食べ終わった後は、赤村さんお勧めの映画鑑賞だ。クッションを背もたれにして、並んで観ていたのだが、いつの間にかどちらともなく手を繋いでいた。

 二本の映画を観終わった後に、僕たちは一緒に夕飯を作った。まあ、僕は手伝っていただけだが。料理を作っている赤村さんの横顔は、真剣な表情なのに可愛かった。


「来週の土曜日は空いてますか? よかったら、買い物に付き合って貰えませんか? そろそろ冬物の服を買いたいんですが、川島さんの感想も聞きたいなって」


 来週の土曜と聞いて、体が固まる。僕が死ぬ予定日だ。もしかしたら運命には分かれ道が有って、選択を変えれば命が助かるのかも。


 僕はチラリと頭の上を見た。「7」と「80」の数字がハッキリと見えている。


「ごめんなさい。土曜日は予定が有って、次の日の日曜日じゃダメですか?」

「あ、日曜日でも構いませんよ……」


 僕は赤村さんの返事を聞きながら、祈るような気持ちで頭上の数字を見た。


 無くなっている!


 さっきまでハッキリ見えた数字が嘘のように消えていた。

 僕は嬉しさの余り、泣きそうな気持で赤村さんの方を見る。


「あっ!」


 そういう事だったのか……。


 僕は全てを悟った。


「どうしたんですか? 日曜日も無理しなくて大丈夫ですよ」


 僕の様子を不審に感じたのか、赤村さんが心配そうに、そう言ってくれる。


「いえ、勘違いしてました。予定が空いているのは土曜日の方でした。だから土曜日に行きましょう。僕も楽しみです」

「そうなんですか。それじゃあ、土曜日に行きましょうね」


 赤村さんの笑顔を見てから、僕はまた頭上の数字をチラ見した。「7」と「90」の数字が浮かび上がっている。


 これで良い。これで良いんだ……。


「僕の服も選んで貰えませんか。センスが悪いんで」

「そうですか? そのシャツ良く似合ってますよ。でも、私が選んで良いなら張り切っちゃうな!」


 僕たちは笑顔で会話を続けながら、夕飯を楽しんだ。



 夕飯を食べ終え、僕はそろそろ帰ろうとしていた。赤村さんが寂しそうな顔で、三和土まで見送りに来ている。


「今日はご馳走様でした。本当に美味しかったし、楽しい時間でした」

「私も本当に楽しかった……」


 僕たちは無言のまま見つめ合う。

 決心して立ち去ろうとした瞬間、僕のシャツの袖を赤村さんが掴む。


「赤村さん」


 僕は抑えていた感情がはじけ飛んで、赤村さんを抱き締めた。


「好きです……」


 僕がそう呟くと、赤村さんも抱き返してくる。


「私も、川島さんが好き……」


 僕たちは少し体を離し、見つめ合う。そしてゆっくりとキスをした。

 その日、僕は自分のアパートへは帰らなかった。死の運命を忘れ、赤村さんと心が通じ合えた喜びに浸っていた。


 次の日も、スーパーに買い物に行ったり、部屋でまったり過ごしたりと、夜までたっぷり二人の時間を楽しんだ。



「ただいま」


 夜になり、僕は自分のアパートへ帰って来た。死神さんは布団の上で大の字になって、いびきを掻きながら眠っていた。

 僕が部屋着に着替えていると、死神さんは目を覚ましたようだ。


「おう、お帰り。昨日は帰って来なかったじゃねえか」

「来週の土曜日に、赤村さんとデートする事になりました。その日は付いて来るんですよね」


 僕は冷やかされた返事の代わりにそう聞いた。


「来週の土曜って、予定の日か?」

「はい、その日です」


 死神さんは僕の目をじっと見つめた。


「分かった。しっかり役目を果たすぜ」


 あと一週間、残り少ない生を楽しもう。



 最後の一週間が始まったが、特別変わった事など無い。朝は赤村さんと一緒に電車に乗り、日中は会社で仕事をしている。夜になれば、赤村さんと食事に行ったり、ラインで連絡を取ったりしていた。いや、変わっていないどころか、今までと全然違うのかも知れない。職場では松田さんや浜田さんがサポートしてくれたし、仕事以外ではいつでも赤村さんと繋がって居られた。こんなに他人の存在を感じて生活出来たのは、生まれて初めてかも知れない。



 金曜日の午後になると、頭上の数字が、日数から時間に変化した。「24:00」からカウントダウンが始まり、刻々と数字が減ってきている。今は「5:20」土曜の朝だ。


 いつもより丁寧に顔を洗い、一番好きな服を選んだ。用意が出来てアパートを出る時間だ。


「死神さん。この一か月間、本当にありがとうございました。外に出たら話も出来ないんで、ここでお礼を言っておきます」


 僕は出発前、三和土で横に居る死神さんにお礼を言った。


「おいおい、俺はお礼を言われるような事をした覚えはねえぞ」

「そんな事ないですよ。死神さんのアドバイスで、僕は知らなかった世界に飛び込めたんですから」


 僕は不思議そうな顔をしている死神さんに微笑んだ。


「そう、その世界は、ほんのちょっと勇気を出して一歩踏み出すだけで入る事が出来た。でも自分一人じゃ永遠に無理だったと思います。死神さんのアドバイスで勇気を持てたんですよ。

 でも皮肉なものですね。世界が広がった途端に、人生が終わるなんて……」


 僕がしみじみとそう言うと、死神さんはぎゅっと目を閉じた。


「すまん……」

「えっ?」


 死神さんは思い詰めたような表情で頭を下げた。


「俺はお前を騙していたんだ」

「騙してた?」

「今日は行くな。お前はあの娘に関わったから死ぬ運命になったんだ。あの娘と親しくなればなるほど、確率は高くなっていた。俺は知っていたけど黙ってたんだ。自分のノルマを果たさんが為にな。

 だから今日は行くな。お前はこの部屋で今日を過ごせば、きっと死から逃れられる」


 僕は死神さんの告白を聞き、涙が出そうなくらい、嬉しかった。


「ありがとうございます。でも、僕も知っていましたよ。赤村さんと親しくなったタイミングで確率が上がったので、彼女が関係あるんだなって」

「ええっ? じゃあなんで……」

「僕も今日のデートはキャンセルしようとしたんです。でもね、そうしたら、僕の頭の上の数字が消えて、赤村さんの頭の上に数字が表れたんです「7」と「100」。もし今日僕が行かなければ、彼女は百パーセント死ぬんです」

「百パーセント? 本当に百パーセントだったのか?」

「ええ……」


 百パーセントと聞き、死神さんは凄く驚いている。


「あの娘は……死ぬ運命だったんだな……」

「死ぬ運命って、どういう意味ですか?」

「通常「100」という数字は、死ぬ瞬間にしか出ないんだよ。だが、まれに生まれた時から死ぬ瞬間が定められた人間も居る。そんな奴は初めから百パーセントなんだ」


 赤村さんが生まれながらに死ぬ運命を背負っていたなんて……。


「でも、どうしてそんな人の運命に僕が関われたんですか?」

「普通は無理だ。お前が特別に死神が見える目を持っていて、俺がいろいろアドバイスしたから……。

 もしかして……お前は彼女を助ける前から知っていたのか?」


 そう、僕は痴漢から赤村さんを助ける前から彼女を知っていて、自覚は無かったけど、ずっと好きだったんだ。


「ええ、朝の電車でいつも見ていました」

「きっと、お前の想いが、あの娘を死ぬ運命から救ったんだ」


 僕の想いが、赤村さんを救った……。


「ホントですか、それ?」


 僕は死神さんの両肩を掴んで、叫んだ。


「そうしか考えられねえな」

「ありがとうございます!」

「な、なんだって?」


 僕の言葉に、死神さんは驚く。


「正直言うと、死神さんの話を聞くまで、死ぬのが怖かったんです。やっと人生が上手く広がってきたのに、死ぬのが怖かったんです。

 でも、赤村さんの死ぬ運命から救ったと聞いて、気持ちが晴れました。僕の死には深い意味が有ったんですね。彼女を運命から救えるのなら怖くないです」


 僕は晴れ晴れとした気持ちになっていた。


「お前はそれで満足なのか?」


 僕は笑顔で頷いた。


「分かった、行こう」


 僕たちは、赤村さんと待ち合わせしている駅に向かって、アパートを出発した。



「おはようございます! 今日は少し寒いですね」


 駅に着くと、先に来ていた赤村さんが、眩しい程の笑顔で迎えてくれた。


「おはようございます! もうすっかり秋ですね」


 僕たちは、どちらともなく自然に手を繋いで、改札に向かった。死神さんは少し離れた場所で見ているようだ。俺の事は忘れて楽しめと言ってくれたのだ。


 今日、僕は気を付けなければいけない事がある。今は寿命の数字は僕の上に出ているが、一緒に行動している以上、イレギュラーな事態で赤村さんの上に移動するかも知れない。今の流れを壊さないようにしないといけない。


 目的地に着いて、買い物を始める。

 赤村さんは楽しそうに冬物の服を選んでいる。自分のセンスに自信は無いが、意見を聞かれれば素直に答えた。彼女は僕の服も選んでくれて、自分の買った服と並んで歩いたら感じ良く見えると喜んだ。


「あの、今日もうちに来ますか?」


 赤村さんが少し顔を赤らめて聞いてくる。


「赤村さんが良ければ、ぜひ」


 行けない事を知りながら僕は嘘を吐く。自然な流れに逆らう訳にはいかない。


「じゃあ、着替えとかも買わないといけませんね。歯ブラシとかも……」

「そうですね。後で買いましょうか」

「私ね、少し憧れていたんですよ。自分のうちに彼氏の物を置くのって」

「そうなんですか?」

「だって、一人じゃないって感じられて、寂しくないと思うんです」


 楽しい未来を疑わない赤村さんに心が痛む。今日、僕が死んだら彼女は悲しむだろうか? でも、大丈夫。彼女の笑顔は、見る人を幸せにする。きっと支えてくれる人が現れる。きっと彼女は立ち直る。


「そろそろお昼ご飯にしませんか? お腹空いてきちゃった」

「うん、どこかで食べましょうか」


 残り時間はあと三十分。お昼を食べる場所で僕は死ぬのか。


 僕たちはチェーン店のファミレスでお昼ご飯を食べる事にした。店に入る寸前に振り返り、死神さんの姿を確認した。ちゃんと付いて来ていて、僕と目が合うと頷いた。

 店に入るとウエイトレスさんに、窓際の席に案内された。道路に面していて嫌な予感がしたが、僕の頭の上には変わらず数字が浮いているので、そのまま席に着いた。

 料理をオーダーして赤村さんと話をしながら待っている。彼女は変わらず、今かったばかりの服の話や、今度観たい映画の話などで楽しそうだ。


 もう時間は十分となった。覚悟していたは筈だが、さすがに緊張が襲ってきて、汗が流れる。


「大丈夫? 顔色悪いけど」


 心配そうな赤村さんの向こうで、死神さんが手招きしている。


「ちょっとごめんね。トイレ行ってきます」


 僕は死神さんに目で合図を送って、頭の上の数字を確認してからトイレの個室に入った。


「どうしたんですか?」

「やっぱり駄目だ。お前を見殺しに出来ねえ」

「何を言ってるんですか。あなた死神でしょ」

「お前は元々死ぬ運命じゃないんだ。お前は良い奴だ。こんな若さで死んじゃいけねえ」

「気持ちは嬉しいですが、僕はもう納得してます! 彼女の為に僕は死ぬんです!」


 ハッとして僕は頭上を見る。数字が消えていた。


「赤村さん!」


 僕はトイレを飛び出し、席に向かう。


 赤村さんの姿が見える。彼女の頭の上には「100」の文字と「00:30」の文字が。


 どうしてだ? まだ後五分は残っている筈。もしかして、彼女は即死する運命なのか?


「赤村さん! 席を立って!」


 叫ぶ僕の姿を見て、赤村さんは慌てて席を立つ。


 僕が彼女に追いついたと同時に、窓から車が突っ込んで来た。


 赤村さんを車から逃す代わりに、僕は追突を体で受けてしまった。体に激痛が走り、床に倒れ込む。


「川島さん!」


 赤村さんが僕の体に抱き着く。彼女の頭の上の数字が消えていた。代わりに僕の上には「02:00」「98」の数字が浮かんでいる。

 良かった。赤村さんを守れたんだ。僕は安堵して意識を失った。


 意識を失ったのは一瞬で、僕はすぐに視界を取り戻した。だが、位置が少しおかしい。どうも口元から見えているようだ。おそらく、魂となって口から出てきているのだろう。あとは死神さんに死者の世界に運んで貰うだけだ。


「死ぬんじゃねえぞ」


 その時、急に現れた死神さんは、僕を押さえつけて口の中に戻そうとする。


「なにをやってるんですか! 僕の魂を袋に詰めるんじゃないんですか?」

「うるせえ! お前は絶対に死なせない。魂を押し込んでやる!」


 死神さんは今まで見た事無い真剣な表情で、力一杯押し込んでくる。


「そんな事が出来るんですか?」

「出来る出来ねえじゃねえ! 絶対にやるんだ!」

「僕は赤村さんを助ける為に死ぬんです! それで満足んなんです!」

「お前はあの娘の顔が見えねえのかよ!」


 そう言われて、僕の体を抱き締めている赤村さんを見る。彼女は僕の名を叫びながら、大泣きしていた。


「あの娘の命の危機は過ぎ去った。お前はあの娘の為に死ぬんじゃねえ! あの娘の為に生きるんだ!」


 そうか、僕は赤村さんを救えたんだ。僕は生きても良いんだ!


「どうすれば良いんですか?!」

「俺がお前の魂が抜け出すのを食い止める! お前は生きたいと強く願うんだ!」


 生きたいと強く願う。僕はもう一度赤村さんの顔を見た。彼女と一緒に生きていたい。ずっと、これからずっと未来まで。


 数字は「00:10」「99」。カウントダウンが始まったが、九十九から百にはならない。僕は、生きる、生きたいと心の中で叫びながらカウントダウンを見続けた。


「00:00」になったが「99」のまま。その時点で意識がなくなった。



 二年後、入院が必要な程の大怪我を負ったが、僕は今も生きている。

 赤村杏里さんと結婚して、今は一緒に暮らしている。彼女のお腹の中には子供も居て、幸せの絶頂だ。


 あれから一度も死神さんの姿を見ているない。僕が見えなくなったのか、それとも死神さんが居なくなってしまったのか、どちらか分らないが、お礼を言えなかった事だけが心残りだ。


「栄太さん起きて! 遅刻しそうよ!」

「ええっ? どうして?」


 僕は杏里さんに起こされて、寝ぼけ眼で返事をした。


「目覚ましが止まってたの。今までこんな事無かったのにどうしてだろ」


 杏里さんは不思議そうな顔をして、布団を抜け出した。


「目覚ましが止まってた……あっ!」


 僕は目覚ましを止めた犯人を思い出した。

 慌てて周りを見回したが、姿は見えない。だが、僕は確信していた。


「お久しぶりです。あの時は本当にありがとうございました。僕は幸せ一杯に暮らしています」


 もう僕には死神さんを見る事は出来ないが、右手を差し出してみた。

 手の平には何も感じられないが、ほのかに温かみを感じた。

                     

                                     了

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