ヨーテボリの連帯(Harbor of Neutral Hands) #03-前編
1960年・中立港ヨーテボリ、タグ艇主任マリアが白・青・黄・赤の“色レーン”で港を動かし、救難優先と臨検で代理人の圧力に抗します(軽度の臨検描写あり)。
【場所:スウェーデン・ヨーテボリ(Göteborg)外港 → スカールダ港湾庁】【時間:1960-02-16 09:10 CET】
北海の影を吸った中立港ヨーテボリ。
雪は降らないが、空は低い。外港の灯標で風見がぎしりと鳴り、灰色の海面に短い白い歯が立っては、すぐ消えた。
マリア・サンドベルイはタグボート〈エリン〉の操舵室でコーヒーをすすり、薄い甘さが舌に残るうちに羅針儀のガラスを拭いた。古いガラスは曇りやすい。だが真方位340°の目盛は今日も揺るがない。変わるのは、港のほうだ。
「灯標2.2nm、真方位220°に一隻。信号、救難旗」
若い機関士が双眼鏡を外す。マリアは頷き、受話器を取った。
「港務から外港へ。白レーンを開けます。補給の黄は閉鎖、医療の青は半幅、救難優先。――ええ、港長決裁は私が持ちます」
白い板を抱えた保安隊員が、桟橋沿いに釘を打ち始める。色は約束だ。港は色で動く。
外海から入ってきたのは、英船籍の小型貨物船〈ブレンダ〉。右舷舷側には拳大の穴が三つ、塗装をめくっていた。砲弾か、鋼片か。北海は今日も世界の言葉を混ぜている。
「速力8kt。こちらのタグを先行させます。昼間入港・夜間出港禁止は通告済み。――はい、難色です。『夜のうちに出たい』と。上限24hは譲れません」
電話口で港長フリクソンが咳払いする。
「交戦国の代理人が来る。紙を振ってくるだろう。君は嫌われ役を引き受ける気はあるかね?」
「もうやっています」
マリアは受話器を置き、窓に息を吹きかけて曇らせ、指で円を描いた。曇りの向こうで救難旗の赤が揺れる。
検査桟橋は、潮と消毒液の匂いが混じる場所だ。
〈ブレンダ〉の甲板日誌は濡れていた。船長は震える指でページをめくり、積荷を書く。穀物、缶詰、綿、医薬品――そこで記載は途切れている。
「荷主電報の写しと照合します」
通訳が紙を渡す。エジンバラからの電報には、さらに一行。
〈試薬・ケース3〉。
「これはどこに?」
船長は答えず、水平線を見た。黒い海。黒い雲。
マリアは頷き、鉛印の箱を指さす。
「封印庫で保管します。24hは港の責任で確保。再申告がなければ、沖に戻ってもらいます」
港長室の扉が開いた。濃い灰のコートに、濃い灰の眉。
交戦国の武官代理は封筒を机に置く。
「特別扱いの通達だ。補給レーンを開けろ。夜間出港も認めよ」
フリクソンが視線で助けを求めるのを、マリアは手で制した。
「本港の色は、あなたの封筒の色では変わりません」
「君は港長ではない」
「今日は私が嫌われ役です」
壁の新しい表を指さす。白・青・黄・赤の四色レーンと停泊時間の欄。
「救難(白)は受け入れ、医療(青)も。補給(黄)は閉鎖。武装(赤)は沖合待機。夜間出港は禁止。停泊上限は民間24h、軍需・武装12h。この枠をはみ出す紙は、ここでは効力がありません」
冬の海のような沈黙が落ちる。
武官代理は封筒を押し戻し、肩をすくめた。
「覚えておけ。海は、紙より広い」
「だからこそ、港は狭くします」
マリアはコートの袖に染みたタールの匂いを嗅ぐ。タグの匂い。仕事の匂い。
午後、〈エリン〉と姉妹船〈フリーダ〉が〈ブレンダ〉を曳航した。真方位340°、川風が逆らう。
桟橋D-3へ横付けすると同時に赤十字の腕章が走り、担架が二つ、足音が六つ、短音一つ。
鉛印が打たれるたび、鈍い音が港に沈む。封印は約束の形だ。港は約束で動く。
日が傾くころ、港内スピーカーが鳴った。
「――本日付で色分けレーン方式を施行します。救難は白、医療は青、補給は黄、武装は赤。信号旗を掲げ、短音一で優先を示してください……」
工員の肩がひとつずつ動き、釘が色板を噛む音が続く。
マリアは羅針儀のガラスをもう一度拭き、薄く笑った。
外海の2.2nm先、国籍不明の小さな影が停泊している。甲板に人影はない。やがて信号灯が点り、短い明滅が港へ届いた。
――明朝、臨検を願う。
港は答えた。
――夜は港内で過ごせ。朝になれば、色で迎える。
港は色で動き、紙で争い、人で決める。
それが中立の狭さであり、強さだった。
日が落ちる。冷えた鉄の桟橋に、釘を打つ音だけが残る。白と青の板はほぼ掛かり、黄は布で覆われた。赤はまだ倉庫の奥で眠っている。永く眠っていてほしい色だ。
マリアはスピーカーを止め、外港の無線席へ移った。500kHzの受信機はざらつきを吐き、時おり救難呼び出しが混じる。
「外港より入域希望のバージ一隻。信号灯で交信。船名不明、牽引艇も無標識」
双眼鏡の向こう、黒い影が二つ。波間に灯りがひとつ。
「外港灯標の北0.6nmで停泊を指示。明朝臨検と伝達」
マリアが指示すると、信号員が項垂れた帽子を上げ、白い光を刻んだ。短く、長く、また短く。
返答は遅れた。やがて影のひとつが真方位065°へわずかに首を振り、速度を落とす。受信機が一瞬静まり、すぐにざわめきが戻った。
港務所に戻る途中、廊下の角で立ち止まる。昼間の武官代理が、まだいた。
「色の板は、いくらで別の色になる?」
乾いた声。冗談にも脅しにも聞こえる。
「板は安いが、港は高い」
マリアは通り過ぎた。応接室からフリクソンの咳払い。きっと苦いコーヒーをもう一杯。
外へ出ると、タグ桟橋の若者たちが綱を巻いていた。指先は赤く、息は白い。
「仕事が増えましたね、主任」
「色で覚えれば、手は勝手に動く」
工場から回してもらった余り板に、手早く赤の下地を塗らせた。明朝、必要になる。
深夜近く、外港監視所が呼ぶ。
「主任、沖で浮流物。機雷かもしれません」
マリアはコートの襟を立て、監視所へ駆けた。灯台の上は風が棘のようだ。
海面に丸い影が揺れている。錆色、黒、また錆色。
「正横090°、距離350yd」
信号員が測距を読む。
彼女は双眼鏡を下ろし、肩の力を抜いた。
「ケーブルドラムだ。外輪が割れて芯が浮いた」
安堵の溜息。背後から乾いた笑いが漏れる。
「よく分かるな」
「港は海の落とし物の博物館だから」
半年前には丸ごとの牛が流れ着いた。航路を外れていたのでタグの少年たちに教えた。「この匂いは覚えておきなさい」。港は、匂いでも動く。
午前零時を回ると、外海の風が北へ振れた。真方位010°。
不明バージの灯りは灯標を中心に円を描くように揺れる。錨は効いている。牽引艇の煙突から短く煤が出た。
無線に別の音が混じり始めた。見慣れたトーン、医療用の短文コード。
〈搬送済/2名軽傷/1名要観察/夜間は停泊〉
〈ブレンダ〉の船医からだ。青の板はきちんと働いている。
マリアは缶からカルダモンを一粒つまみ、歯で割った。香りが眠気を追い出す。
明け方の臨検まで、あと五時間。赤の板は乾くだろうか。指の腹で塗面を押す。まだ少し柔らかい。十分だ。朝の光で固まる。
夜半すぎ、港内回線が鳴る。
「沿岸砲兵分隊より。沖合に潜水艦の噂が回っていますが、変化は?」
「噂のままです。灯標に反応なし、音響監視も対象外」
「了解。海峡封鎖時の通達を念のため準備します」
「ありがとう。紙は広いですから」
受話器を置いて、彼女は小さく笑った。
海は紙より広い。だが紙のない海は、もっと荒れる。
明け方前、窓が白む。湾の奥からパンの匂い。製パン所が火を入れたのだ。
マリアは外套を羽織り、臨検書類を胸に挟み、赤い板を片手に外へ出た。凍った息を吐きながら桟橋で待つ若者に言った。
「行くよ。白と青は通した。次は赤を見せる番だ」
読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。
港は色で動き、紙で争い、人で決める――本話の核でした。
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次回:03-後編。更新は明日、19:30頃に公開予定。
それでは、ヨーテボリで。