北海の薄氷(Thin Ice of the North Sea)#02-2
核抑止が生まれなかった世界線――1959年・北海、午後の「点と線」。S-2が海に“線”を引き、Type12が“点”で待ち、Mk44が“影”を嗅ぎ分ける。高空にはBadger、Seaslugの一幕(軽度の戦闘描写・爆発音、軍事用語あり)
点と線(Points and Lines)#02-2【場所:北海—ノルウェー沖/シェトランド西方 時間:1959-11-05 11:45 GMT】
昼下がりの風は、朝より重く湿っていた。海面の色は黒に寄り、波頭が厚い羊毛のように丸くなる。Ark Royalの左舷では排水が勢いを増し、デッキの水切り溝が絶えず白い筋を描いていた。
「午後は下だ」
ハリントンは艦橋の欄干に軽く触れ、通信士に頷く。
「線はS-2、点はType 12。——網にしろ。真方位065°にブイ帯、間隔1000yd」
「了解。S-2、発艦準備。Type 12、Mk32(三連装魚雷発射管)にMk44(対潜魚雷)装着」
空は相変わらずよく鳴く。だが今は、海の底が話し始める番だ。S-2が2機、風に逆らうように跳ね上がり、線を引く。投下されたソノブイが、等間隔に見えない縦縞を海に刻む。Type 12はその縞の交点、点に腰を据える。
「周波数帯、雑音高め」「風ノイズ、補正済み」「水温躍層、80ft」——報告が積み上がる。
11:45。
「弱い拍……方位072°、距離1.3nm」
ソナー長の声は、さっきのAEWと同じくらい乾いている。
「分類、可能性高。スクリュー数4——」
ハリントンは割り込む。
「急がない。点をずらすな。S-2、線を1つ南へ寄せ」
波に混じる微かな規則が、スピーカーの奥に揺れ始めた。S-2の機上員が短く叫ぶ。
「金属反射——通過音。方位固定、速度3kt以下」
ハリントンは時計に視線を落とし、指で甲板の塩を一度払う。
「Type 12、投下線A。Mk44、1本。——放て」
海は一瞬だけ沈黙し、次いで遠くで鈍い拳を握ったような音が来た。Mk44は静かに潜り、狩人の犬のように音へ鼻先を向ける。
「ヒット反応——なし。目標、停止」
ソナー長が続ける。
「底形状に重なる。——陰の可能性」
海は図面ではない。だが、図面の影は描ける。ハリントンは小さく息を吐いた。
「良い外しだ。魚雷は無駄にしなかった。線を保て。——午後の授業、終い」
艦橋に軽い笑いが走る。緊張の針が半目盛りだけ戻る。
12:32。
上から別の音が降りてきた。Gannetの声が急く。
「高高度トラック、真方位048°、150nm、2万5千ft。Badger——Tu-16〈Badger〉(ソ連製ジェット爆撃機)の可能性」
空はまた鳴き出す。ハリントンは指を2本立てる。
「外層、F-8Dを交代投入。Ark RoyalはEMCON-2維持。——Hampshire、構えろ」
County級の甲板で、長い筒が微かに震える。Seaslugは高い空に出番がある。
「標定確立。射界良」
「撃て」
白い柱が甲板を離れ、濃い煙の鉛筆線を空に引く。ブースタが離脱し、弾は細い光の針だけになる。レーダー員が単調な歌のような声で追い続ける。
「誘導良好……良好……近接!」
空の高みに、乾いた花が咲いた。Badgerの断片が遅れて落ち、雲の裏で消える。艦橋に拍手はない。誰もが知っている。次は、低いのが来る。
12:49。
「低空2、波頭50ft、420kt。真方位041°、距離21nm」
Gannetが言う前に、ハリントンは頷いていた。
「窓を028°で重畳。Seacatは距離を待て。——列、太く」
回頭。砲術長が口を開くより早く、ハリントンが言う。
「第2を+1目盛遅らせ。——撃て」
4.5インチの門が再び開く。白い糸が幾筋も張られ、海と雲の隙間に細い檻を作る。低空の機影が檻の端を掠め、片側の翼が泥を払う鳥のように震える。
「1機、離脱。もう1機、——Seacat射程」
「発射!」
猫は膝から跳ねた。だが着地点は、檻の外、わずかに白波の上。
「外れ。——窓で切り直し」
風がさらに上がる。雨脚が斜めに伸び、ガラスに伸びた塩の白線が溶けていく。
「Ark Royal、末端チャフ。……よし、敵測的途絶」
報告と同時に、艦橋の空気がもう一目盛り緩む。ハリントンは砲術長を振り返った。
「門番は疲れたか」
「いえ、門は閉めたままが楽でして」
短い笑い。だが彼らは知っている。窓は開けるためではない。常に、そこにあるために開かれている。
13:30。
雨は細く、しかし止まず。シェトランドのフェリーは時間を遅らせ、その食堂ではラジオから気圧の数字が読み上げられていた。子どもは眠く、母は紅茶をもう一度頼む。遠くで1度だけ、雷鳴が転がる。門番の音だ。
14:05。
Gannetが最後の円を描き終え、戻ってくる。外層のF-8Dは交代し、薄い雲の縁を2本の鉛筆線が行き来する。ハリントンは通信士に手を伸ばした。
「本日の講義録、まとめろ。——要点3つ。外は落とした。中は見せた。内は守れた。言葉はそれだけだ」
「了解。講義録を旗艦・空母・Type 12へ配信」
紙は海で弱い。だが、記録は海で強い。次の雲の下でも、同じことができるように。ハリントンは懐中時計を閉じ、海図上の鉛筆線を1本だけ延ばした。
「今夜は北北西へ。21:00に速度16kt。——列は太くのまま」
そのとき、通信が割り込んだ。
「第7艦隊より共同運用通告。西太平洋、天候窓48時間。前進配備、予定前倒し」
艦橋の空気がわずかに変わる。誰もが別の海を思い浮かべた。南と東の、もっと湿った風の海。
ハリントンは短く言う。
「いい知らせだ。向こうでも、門は同じだ。外・中・内。——踏み外すな」
風が艦の右舷を撫でる角度に戻った。薄氷の上を行く隊列は、夕刻の光の中で太くなり、静かになった。
読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。
本話の要点は「外は落とした/中は見せた/内は守れた」。対潜は“線と点の秩序”、焦らず“外させる”判断も守りの一部でした。
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次回:02-3「夜の窓線」――夜間手順へ。窓は028°基準・幅300yd、AEW降りても“耳と約束”で外層を崩さない(明日 19:30頃 JST 公開予定)。
それでは、夜の北海で。