表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/58

エピローグ -調印の間/Room of Signatures- #18-後編

後編は条文と言葉の手触りを追います。

通航・射界・医療優先、そして偽造しない三分野(気象・水路・疫病)。

佐伯や由紀、ファティマたちの“生活の音”を並べ、大文字ではない終わりを小さく置く。

【場所:中立国首都・旧議事堂 調印室 時間:1964年・秋(現地)/JST換算掲示なし】


 記者に与えられた2分は、秒針の音に追い立てられるように始まり、同じ音に追い出された。私は手を挙げ、「非武装地帯の幅と、沿岸航路の扱いを」とだけ問う。答えは簡潔。「幅は後日の付属文書で定める。民間航路は即時の通行再開を原則とし、港湾の安全基準は共同で監査する」。言葉としては十分、心としては足りない。足りない部分を埋めるのが、私の職務のはずだ。


 退場の列が長い蛇のように廊下へ伸びる。窓からの霧雨が、絨毯の端だけを濃くしていた。佐伯が視界を横切る。袖の焦げはまだ新しい。「沖の列は、帰り船でも太くしますか」と私が言うと、彼は短く笑う。「ええ。帰り道のほうが、人ははみ出しやすい」。それだけ言って、振り向かずに歩いた。


 英国の士官――ハリントンは、帽の庇を軽く上げる。私が名を呼ぶより先に、「低いものは人が拾う、高いものは道具が拾う」と呟いた。北の海の話だろう。Seaslugは空の高みを狩り、低空の跳ね返りは砲と耳で受ける。「その耳は、もう休めますか」と訊ねると、彼は肩をすくめる。「休む耳は、また使える」


 フランスの艦長は条項の写しを折りたたんで胸に入れた。紙は湿って重い。「火器のカレンダーを平時用に戻す手順を、今夜、艦で配り直します」。戦闘時の「沈黙」を、今度は平時の「静けさ」に置き換える作業。似ている二語の違いを、私はメモに残す。


 階段の踊り場でマリアが帳簿を抱えて待っていた。「積荷の最初は、薬と粉乳と灯り。塩と砂糖は、その次」。読み上げるように言い、降りる誰かに向けて短く手を振る。「港は、飢えないことが仕事だから」


 ファティマは窓辺で石畳を見ていた。「雨はよく降るわ」と彼女。「でも、雨で市場が溺れたことはない。溺れるのは、人の都合よ」。彼女の手の甲の灯油の匂いは、紙の上でも揮発しない。私はページの端に、彼女の名と今日の日付を書く。


 林は薄い封筒を差し出した。中には疎開先で描かれた絵の複写が3枚。鮮やかな青の線が床板を海に変える。「この線は、帰る線ですか」。彼女は首を振る。「待つ線です。帰る線は、子どもたちが自分で引きます」。黒板にチョークを置くような言い方で、私は少し救われる。


 ヨハンの名札を付けた速記官が書類の束を抱えて走り抜ける。私の横で息を整え、「付則、その2。捕虜と抑留者の即時交換、医療優先」。すぐにまた走る。階段の陰で、白衣の女性――由紀に呼び止められた。「交換の初便に乗る幼児の名簿に、印をつけておきました」。声は実務的で、体温がある。


 誰かが肩に触れ、「ベルリンへ戻るのですか」。私は頷く。検問所はまだ完全には解けないだろう。けれど街を横断するための新しい許可証には、戦時の赤い印はないはずだ。色が薄くなる。それだけでも、歩く速度は変わる。


 調印室の扉が閉まる音のあと、私は街々の音を並べる。沖縄の港で、朝1番のクレーンが錆を軋ませる音。北海の工廠で、鉛筆が鉄板の寸法をなぞる音。ホルムズの夜、タグボートが低く喉を鳴らす音。台北の教室で、出席を取る声が窓に跳ね返る音。ベルリンの横断歩道で、片手で荷物を持つ人が、もう片手で誰かの肩を支える音。互いに知らない音だが、同じ季節の空気を吸っている。


 夕刻、条項の一部が貼り出された。群衆が近づきすぎないようロープが張られる。私は背伸びし、紙の端だけ読む。


 ――海峡通航の自由は、指定航路と指定速度を遵守する船舶に対して保障される。

 ――沿岸砲の射界は、平時訓練を除き、指定基線より内側へ向けない。

 ――捕虜および抑留者の交換は医療優先とし、病者には国籍を問わず保護を与える。

 ――気象・水路・疫病に関する報は、戦時においても偽造してはならない。


 紙は濡れ、インクがわずかに滲んでいた。誰かが「最後の1行がいちばん難しいな」と言い、別の誰かが頷く。私はそれをノートに写す。気象・水路・疫病。戦時に嘘を許さない3つの分野。人が、誤魔化しより生存を選ぶと決めた領域。忘れないよう、文字の線を濃くする。


 別紙公報 第12号:第3駆逐隊を再編、張 建国は沿岸防備司令へ転補


 夜、宿の小さな机で1日を清書する。電球は古く、音だけは元気に鳴る。文章は短く、段落は深呼吸のたびに生まれる。どこまでが過去で、どこからが未来かをはっきりさせるため、私は日付と時刻を多めに書く。書式は道順だ。迷いにくいほうへ読者を連れていく。そのために比喩を減らし、固有名詞を増やす。


 窓の外で霧雨が弱まる。舗道の敷石が乾き、ところどころ丸い輪が残る。輪は昼間の蝋の跡を思い出させる。押された紋章の数だけ帰り道が増えるのだとすれば、今日の蝋は重くていい。重いものは、落としにくい。


 伝送の時間が迫る。原稿の末尾に、いつもの1文を置く。「見たことを書く」。それは手順であり、道具であり、今日のところは祈りにも似ている。封筒を閉じ、宿を出る。雨はほぼ上がり、空は暗いのに、どこか乾いた匂いがした。




 同じ頃、いくつもの場所で、終わりに似た始まりが置かれていた。


 沖縄・泊地。曳船が錨鎖を解く。甲板に並んだ救命胴衣は、いまは緩く穏やかに積み直される。港務長は旧い機雷図に赤鉛筆で斜線を引く。「帰りの列は、家の明かりに向ける」。自分に言い聞かせるように。


 那覇・校務室。出席簿の末尾に「ミナ(仲村)」の行が増え、インクはまだ濡れている。


 北海・工廠。整備兵が分解した装置に布をかけ、布の上に工具名をチョークで書く。次に開いた時、誰でも迷わないように。ハリントンは作業台を見て庇を指で押し上げる。「休む耳は、また使える」。外の冷気を肺に入れる。


 ホルムズの湾口。灯台守が灯器のガラスを拭き上げる。夜の海に伸びる光は、条項の2行目よりも素直だ。海面を渡る風が砂の匂いを運ぶ。ファティマの市場では、今夜は灯りが1つ多い。彼女は値札を裏返し、明日の数を書き足す。


 台北・校庭。貼り紙が新しくなる。「避難訓練 来週」。その下に小さく「運動会 日程再調整」。林は掲示板の針を押し、教室から聞こえる音読に耳を澄ます。息が揃う。揃わない息も混じる。それが正しい。欠けていた出席番号に、遅れて小さな丸印が入る。


 ヨーテボリの港。マリアは帳簿を開き、最初の入港予定を書く。「薬・粉乳・灯り」。1度だけ顔を上げ、曇天の隙間に薄い青を探す。青は1枚きりの紙のように薄いが、書ける文字は多い。


 ベルリン。検問所のバーが上がり、係官が新しい許可証の色を確かめる。ハンナは鞄を肩に掛け直し、手の中の封筒を握り直す。足取りは少しだけ速くなる。急ぐのではない。歩幅が戻るのだ。



 深夜。私は原稿を投函し、投函の音を耳で確かめる。中庭の木が雨上がりの匂いを濃くしている。誰もいない回廊で、私は1度だけ立ち止まる。戦は終わらない、という言い方がある。終わりを大文字で書かない、という言い方もある。私は今日だけ、終わりを小さく書く。小さければ、次に誰かが読みやすい。読みやすければ、続きが書ける。


 部屋に戻ると、机の上に無銘の万年筆が1本、忘れられていた。キャップを外し、紙の端に細い線を引く。線は輪のように閉じず、遠くへ伸びる。明日の取材予定を書き入れ、キャップを戻す。灯りを消す前に、窓の外をもう1度見る。夜はやわらかく、しかし確かに暗い。


――神は、議事録の余白に今日の日付を記す。扉はいまだ閉じられたまま、鍵は見つからぬまま。だからこそ、頁は続いていく。


読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。

最後まで読んでくれて、ほんとうに感謝です。

終戦記念日から始めた連載も、気づけば暑さが和らいできました。

初めての連載で手探りだらけでしたが、第三次世界大戦編はいったんここまでとします。

今後の予定は未定ですが、無核戦記世界の設定メモは手帳に残しています。

次は少し毛色を変えて、異世界ものに挑戦してみたいなぁ、と。


印象に残ったエピソードや、表記の気づきをコメントでぜひ教えてください。

面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)が、番外・補遺(用語集/地図)や次回作の燃料になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ