エピローグ -調印の間/Room of Signatures- #18-前編
砲声のかわりに万年筆の音が響く回です。
各章の人物が言葉の手順として再登場し、戦場での「列を太く」「撃たない判断」が、「国籍の前に命」「見たことを書く」へ置き換わります。
拍手のない終わりを、静かに見届けてください。
【場所:中立国首都・旧議事堂 調印室 時間:1964年・秋(現地)/JST換算掲示なし】
壁の時計は針を3度だけ進めてから、迷うように震えた。調印室の天井は高く、言葉より咳払いのほうが遠くまで届く。私は胸ポケットの小さなノートを指先でしならせる。表紙には雨の跡。ベルリンの検問所でついた染みだ。ここまで持ってこられたのは、検閲の隙間よりも、いくつかの親切が大きい。
机上には万年筆が並び、誰の名も刻まれていない。勝者の名でインクを満たさないためだと、隣の速記官が眠たげな目で教える。きっと何日も休んでいない。私もそうだ。
第1署名者が席に着き、紙の端をそっと押さえる。ペン先が紙を裂く微かな音が、室内の全員を同じ長さの沈黙に縫い合わせた。拍手はない。誰も終わりを音で汚したくはないのだ。
私はノートを開き、顔を上げ、息を整える。ここからは私の仕事。「見たことを書く」。あの街で、火口の縁で、何度もそう決めた。
「書いてください」と、白衣の女性が肩を叩いた。名乗らなかったが、手でわかる。停電の夜、同じ病室で軍服と作業着を同じ体温で抱えた人の手だ。「国籍の前に命」。彼女は小さくそう言い、もう1度押し返すように頷いた。私はその言葉を借りる。借りた言葉は、返す先が見つかった時に返せばいい。
海の男は腕を組んで立っていた。袖口には焼け跡。沖縄の水路で列を太く保ち、斜角をとって盾になった、と彼は短く言う。煙と塩と油。砲の窓を開け閉めするタイミングの差で船は生きる。「運じゃない、手順だ」と彼――佐伯は言った。言い切りの奥に、取りこぼした名が沈んでいる気がした。
英国の士官は、机の端に指を置いたまま視線だけ上げた。北の海、氷の粒が甲板に積もる夜。発艦と回収と消火が同時に進む甲板は、音の多さが不思議と秩序に見えた、と。高い空を得意にする矢と、低い海面で跳ねる影。Seaslugは空の高みで獲物を捉え、低空は砲と人の耳が埋めた――最後に、整備兵の手の荒れ方がこの戦争の質を正確に物語る、と付け加える。
フランスの艦長は言葉を節約した。ホルムズの細い水路で、重い船を横目に進ませ、岸の砲台に斜めの火を送り続けた夜。砲の「開口時間」と対空の射界が干渉しないよう、火器カレンダーを書き換えた、と淡々。紙の上で調律された沈黙は、海では命綱になる。彼の視線の先で、湾の灯が小さく揺れる。
市場の女主人――ファティマは、手の甲に灯油の匂いを残したまま、桟橋前の夜を語る。照明弾が落ち、影が伸び、誰かが叫ぶ。翌朝、扉を開けると、いつもの子が1人だけ立っていて、パンを2つと言った。片方はツケに残った。「だから店は開けておく。戦争は、閉めた扉の前に人を並ばせるから」
台北の教師――林は、疎開先で描かれた絵を1枚取り出す。クレヨンは避難所の床を広い海に変え、靴音を波に変えた。サイレンの合図で机の下に潜る子どもたちの順番は、いつか元に戻る、と彼女は低い声で言う。戻らない順番もあるのだが、と続けない。
北の岬で長い1日を過ごした男は名を明かさない。寒さと燃料の算盤を同じ指で弾く。戦果は出る、しかし補給は痩せる。等価交換の泥沼。私がメモを書き足すと、彼は眉をひそめ、手元を見る。「書いていい。誰も、戦の計算書を暗唱し続けたくはないだろう」
ヨーテボリの港で受け入れを整えた女性――マリアは、帳簿を抱えていた。中立の港に寄せる船は、国旗の色より積荷の重さで並ぶ、と彼女。物は物として計る。その冷たさが人を生かした夜があった。
そして、彼。戦域全体を俯瞰していた人――マクレーンは長卓の端で立ち止まる。「撤退も作戦だ」。何度も人づてに聞いた言い回し。本人の声は思っていたより穏やかだった。地図を畳むように言葉を畳み、「出口を確保するのも勝利の一部だ」とだけ続ける。勝つより負けない、という選び方は紙の上では地味だ。けれど、帰り道を残すのは派手な破壊より難しい。
子どもの泣き声。那覇から来たという女性――仲村が、肩に小さな手を乗せて通り過ぎる。彼女は署名の列を遠巻きに見て深く息を吸った。避難船の甲板で凍えた夜、その子の体温は彼女に生きた証拠をくれたのだと、小さな声で言う。
窓の外で霧雨が強まり、石畳に色がつく。調印室の空気は、誰のものでもなく、誰のものでもある沈黙で満たされていた。ノートの最終行はまだ空白。私は街で覚えた癖のまま、そこへ1文を置く。「見たことを書く」。誓いではなく、手順だ。書けば誰かの手に渡る。手に渡れば、誰かが次を続ける。
万年筆が最後の紙面を離れ、蝋がひとしずく落ちた。紋章が押される。誰も拍手をしない。誰も旗を振らない。靴音だけが廊下に長い線を引き、線は交わり、離れ、またどこかで交わるだろう。私はドア脇で立ち尽くし、吸い込んだ空気の冷たさを確かめた。
読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。
エピローグ前編は“戦場の手順→言葉の手順”の橋渡しでした。
現場の断片(佐伯/ハリントン/仏艦長/ファティマ/林/北岬の男/マリア/マクレーン)を短い文と道具の手触りで編んでいます。
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次回更新は、明日 12:00 頃(JST)に公開予定。




