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白衣の夜(Night in White)#15-後編

後編は潮の反転→第三陣→夜明け受入。

規則と医療の規則がぶつかる場面でも、札台/ABC/動線で流れを崩しません。

アーディルの痛み「4→3」、見習いの初縫合、灯油の火と金属盆の音——白衣の厚みで夜を渡します。

【場所:マスカット港・臨時救護所(倉庫改装) 時間:1963-04-18 00:05 UTC】


00:05、潮が反転する。空気がゆっくり入れ替わり、汗の塩が乾いて粉になる。ブノワが糸を切り、肩で息を吐く。

「手術室1を清掃、2は器械点検。回復室の黄に鎮痛を追加」

私が段取りを並べ、ファティマが通訳しながら先に動く。2列の動線は戻りなし。汚染から清潔へは行けない。


港湾警備の上着を着た男が、少年アーディルの担架の前に立つ。

「身元の確認が必要だ。敵かもしれない」

私は立ち上がる。

「ここは病院。札の色で動く」

「規則がある」

「規則は守る。でも優先は医療の規則。黒より黄。死者より生者」

札の束を扇にして見せる。赤・黄・緑・黒。

「彼は今、黄。朝になって歩けるなら港務所へ。書類は私が書く」

男は札を見て肩をすくめる。

「朝までだぞ」

「朝まででいい」


灯油の火は時々高くなっては低くなる。看護見習いに仮眠を勧められるが、私は首を振る。眠りの重さは今夜の重さと馴染みすぎて、起きるのに時間がかかる。

ベンチの端で緑札の男が寝言で誰かの名を呼ぶ。言葉は海の方角へすべる。私は背伸びをして、固まった肩甲骨の間を鳴らす。


02:30、第三陣。搬入路に濡れた足音が増える。タグの灯りが2度瞬き、沖で別の灯りがゆっくり動く。

「大型が入る。波が荒れる」

港の古株が呟き、扉が押し広げられる。担架の列が加速する気配。私は札台を半歩だけ入口側へ出す。

「入口、1声2手。赤は右、黄は左。緑は壁沿い」

声に合わせ、足が道になる。2列の矢印は、もう床に染み付いている。


油に濡れた少年。右脇腹に刺創。塩水で洗われ、周囲の皮膚が白くふやける。

「赤。止血、圧迫。ハミド、酸素」

圧迫の角度を調整。海の匂いの奥に、鉄の味。

「名前は?」

口は開くが音は出ない。ポケットから濡れた紙片。数字と黒いスタンプ。

「配給票?」

ファティマが頷く。

「南の名簿に同じ印。あとで探せます」

「探そう。今は縫う」

器械台に手を伸ばし、短く深呼吸して針を取る。自分の呼吸を整える。


隅で、若い見習いが初めての縫合に戸惑う。手が浮き、糸が踊る。

「肘を体に寄せて。糸は皮膚の厚みと相談」

肩越しに言い、肘を軽く押す。手の形が落ち着き、糸の音が落ち着く。

「いい。次は君が2針。私は次の赤を見る」

任せれば、夜は分解できる。ひとりで抱えられない重さも、手順にすれば進む。


03:05頃、アーディルがうっすら目を開ける。

「3」

自分の掌の数字をなぞり、ぎこちなく笑う。

「下がったのね。朝になったら歩ける?」

少し考えて頷く。

「歩く。港務所、書類」

私は親指を立てる。骨組みだけの言葉で会話を組み立てるのは、夜勤の得意技。


外の風が変わる。火が一瞬だけ高く揺れ、また落ちる。ブノワが時計を見て顎を引く。

「夜明けが近い。手術室1を空に」

「了解。器械は滅菌済み、血液はO型1本、A型は半量から」

「足りる」

足りない夜もある。でも今は足りると決める。決めた上で、手を速くする。


フランス語の伝令が息を切らして駆け込む。制服は汗で色が変わり、帽子の鍔から水滴。

「夜明け、通峡。一次処置は船上、搬入は港。……少数、ここに直送の可能性」

ファティマが訳し、私は頷く。

「ベッド2つ空に。手術室1は即開、2は20分で転用可。入口は1間広げる」

声を出しながら、心で赤・黄・緑・黒を並べ直す。黒が出ないよう祈るのではなく、黒に迷わないよう祈る。


巡回の途中、黒札の布のそばで立ち止まる。布の下の人に小さく頭を下げる。費やせない時間への詫びと、残る人に振り分けた時間の責任。言葉にならない礼儀。

顔を上げる。世界地図の角がまためくれる。マスカットのあたりに鉛筆の小さな点。港の若者たちが自分の出身地に印を付けていったのだ。点は海沿いに多く、砂漠にもぽつりぽつりとある。

「朝になったら、点を書いた人に名前を聞こう」

独り言のように言い、糸の端を切る。


04:00、外の空が鈍い灰から薄い青へ。沖で長い汽笛。全員の手が一瞬だけ止まる。

「始まる」

ブノワ。ハミドがボンベのバルブを1つ開ける。ファティマは札台を整え、私は手袋を替える。

「手術室1、待機。2、回復室から2名を移して清掃。入口、赤黄の導線をもう半歩広げる」

言葉は短く、動きは長く。夜の最後の段取りは、朝へ引き渡す橋。


扉が開き、潮の匂いが新しく流れ込む。外で、灰色の大きな艦影がゆっくり横切る。甲板の白線、砲の影は長い。

アーディルが自力でベンチから立ち、壁に手をつく。

「歩ける?」

頷き、私の差し出した腕を断って1歩を踏み出す。

「偉い」

札台の位置を直し、入口の前に立つ。

「ここは病院。朝になっても、やることは同じ」

中にいる全員の目が、同じ方向を見る。


汽笛がもう1度。海峡の向こうへ、音が渡っていく。


読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。

本話は「黒より黄。死者より生者」という運用規範を芯に、入口1声2手/手術室1即開までを描きました。

表記や医療運用の気づき(時刻体裁、在庫ログ、動線の書き分け等)をコメントでぜひ。

面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)で応援を。

次章は戦場が再び海へ——#16 北岬ミサイル決戦、数字と規律はそのまま武器になります。

次回更新は、明日 12:00 頃(JST)に公開予定。

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