北海の薄氷(Thin Ice of the North Sea)#02-1
核抑止が生まれなかった世界線
――1959年・北海。英空母Ark Royalと米空母群が「砲窓」を刻みます(軽度の戦闘描写・爆発音、軍事用語あり)。
砲窓手順(Window Drill)#02-1【場所:北海—ノルウェー沖/シェトランド西方 時間:1959-11-05 10:10 GMT】
風が艦の右舷を撫でる角度に変わった。艦橋のガラスを薄く曇らせる塩が、光の加減で細い白線を浮かべる。ハリントンは懐中時計を一瞥し、砲術長に顔を向けた。
「窓は030°基準、幅400yd。第2斉射にVT(近接信管)。波頭が上がる、修正はお前の眼でやれ」
「了解、400yd刻み、VTに切替。——装填!」
北海の冬は、海図にない縞模様を一晩で描く。GannetのAEW(早期警戒機)はその縞の上を、時計仕掛けの振り子のように往復した。真方位030°、距離120nm。Ark RoyalはEMCON-2(電波管制・発信抑制) 、アンテナの一部を黙らせ、音の小さな巨体として群れの真ん中を進む。遠方、東に210nm。USN(米海軍)のCVA(大型攻撃空母)がF-8D(艦上戦闘機)を2機1対で回し、外層の空を磨いている。
「TRK(レーダー追尾目標)、PLOW-11、2万ft、方位030°、180nm」
AEWの声は乾いていた。ハリントンは無線員に指で丸を作る。
「フォレスタルの剣(F-8D)に通告。外層で当てる。こちらは窓の練習を続ける」
10分もしないうちに、上空の帯電した空気が抜ける。F-8Dが接近、敵機の鼻先が海霧の縁で揺れ、そして翻る。Il-28〈Beagle〉(ソ連製ジェット爆撃機)。あいつらは見に来る、数える、そして帰る。数えられる前に、数えさせない。
「訓練標的、低空、来るぞ」
レーダー幕僚の声に、砲術長の身体がわずかに沈む。
「窓開け、第1!——撃て」
4.5インチ連装のリコイルが艦の骨を叩いた。雷鳴のような短い連打が2度、3度。
「時限、早い。第2、+1目盛」
砲弾は、目には見えない細い門を作る。海面と低雲の隙間に、薄い針金を何本も渡すようなものだ。門を潜るものだけを切る。Seaslug(長距離艦対空ミサイル)は見上げた空で獲物を待ち、Seacat(近距離艦対空ミサイル)は海と雲の間で息を詰める。低すぎるものに対しては、古い主役——砲が段取りを握る。
「命中……破片効果、標的失速、落下」
観測の声に艦橋の空気がゆるむ。だが緩めるのは、椅子の背だけだ。ハリントンは時計の蓋を閉じる。
「窓、再設定。いまの海だと、波頭が弾道を誤魔化す。1つ狭めろ」
11時を回ったころ、船体が別の重さを拾った。ノイズの下を潜るものがある。AEWの報が刺す。
「低空の再接近。2機。速度420kt、波頭50–80ft」
ハリントンは小声で言う。
「Seaslugは寝てろ。Seacatは距離を待て。砲窓、全艦重畳」
風が強くなる。左舷から塩の粒が叩きつける。ハリントンの頭の中で図形が回る。030°の門を、028°に回す。列は太く、弧は薄く。
「回頭、028°。Ark Royalはロケット式チャフ(金属箔による電波妨害)、末端準備。——撃て!」
砲声。海面近くの空気が千切れ、白い糸が一瞬で燃え尽きる。Seacatはしびれを切らした猫のように、遅れて身を起こすが、照準器の中の点はもう糸を切っていた。
「敵、測的途絶。反転」
AEWの声は相変わらず乾いている。だが艦橋のどこかで、誰かが息を吐く音がした。
ハリントンは海図に視線を落とす。ノルウェー沖の等深線が冷たい指のように延びている。
「今日覚えたことを忘れるな」
彼は砲術長に向き直った。
「窓は撃つためではなく、撃たせないためにある。Seaslugが空を見張り、猫(Seacat)が膝で眠り、最後に古い銃が門番をする。階を踏み外すな」
午後は下の敵だ。Type 12(対潜フリゲート)のソナーが唸り、S-2(対潜哨戒機)が線を海に引く。Ark Royalの格納庫では、濡れたデッキの水が左右に走る溝へ素直に流れていく。
整備兵が膝をついて、手袋の先で塩の縁をこそいだ。スパナを持つ手の甲に、細かい赤い線。風が、寒さをいつもより一段深くする日だ。
シェトランドに向かうフェリーの食堂では、窓を打つ雨を見て、子どもが母に訊ねる。
「ねえ、雷?」
「冬の海はよく鳴くのよ」
母は熱い紅茶のカップを持ち直し、窓の外で短い雷鳴が転がるのを聞いた。4.5インチ砲は、子どもの言葉を否定もしないし肯定もしない。ただ、門を守る音を出す。
正午前、風向はさらに北へ寄り、海は分厚い安全靴を履いたように重たくなる。ハリントンは通信士に頷いた。
「前進は予定通り。北岬に斜めの鉛筆線を引く。午後は対潜を厚く」
「了解。S-2は線、Type 12は点、——網にします」
海は図面ではない。だが、図面のように扱う他ない。人が引いた線は、風と波に嘲われる。それでも線を引く。線がなければ、群れは薄氷の上で方向を失う。
ハリントンは時計を見た。世界の別の海で、同じように線を引く誰かの顔が、ぼんやりと浮かぶ。視線を窓の塩に落とし、指で細い白線を擦り消す。
「——先に、あちらが動く」
艦は北へ。薄氷の上を、重く、そして静かに。
読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。
本話の要点は「外で当てる/中で見せる/内で切る」。砲窓=方位×幅×時限で作る“撃たせないための門”でした。
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次回:02-2「点と線」――S-2が“線”を引き、Type12が“点”で待ち、Mk44が“影”を嗅ぎ分ける(明日 19:30頃 JST 公開予定)。
それでは、また北海の「午後」で。