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白衣の夜(Night in White)#15-前編

14章の「受ける手」を受けて、港の倉庫は白衣の夜へ。

札台・ABC・在庫口唱えで流れを切らさない看護を描きます。

匂い(潮×消毒)と音(金属盆・足音・発電機)で読者の体感を立ち上げました。

【場所:マスカット港・臨時救護所(倉庫改装) 時間:1963-04-17 18:30 UTC】


山田 由紀(日本赤十字・派遣看護師/当直責任)は、夜、マスカット港の倉庫を臨時救護所に変えたその入口の札台に立っていた。


潮と消毒薬は、混じると甘く苦い。倉庫の屋根は熱を溜め込み、夕方になっても金属の匂いを吐き続けている。由紀は袖をひと折りして脈をとった。皮膚は乾いて熱い。指先は油で黒く、爪の隙間に砂が残っている。

「黄。止血でいける」

札の束から黄を引き抜き、胸元の紐に通す。男の喉から塩辛い息が漏れ、片目だけがこちらを探した。

「水は、あとで。まず包帯ね」

英語で告げる。ファティマがすぐ隣でアラビア語を重ね、男の指がわずかに緩む。


入口の鉄扉がまた軋む。担架2、次に肩貸し1、その後ろに濡れたサンダルの列。札台は台車の上にあり、止め金が甘くて、揺れるたびに背骨に響く。

「赤、2。気道確保1、出血1。緑、3は向こうの長椅子」

私の声に、警備の若い隊員が頷いて走る。彼の頬にも油が跳ねて黒い星を作っている。ブノワ医師は奥の手術台で洗浄を始め、麻酔のハミドは酸素ボンベの残量を指で数える。こういう夜は、在庫を口で覚えるのが早い。包帯(大)2、残り4。O型2本、A型1本。

「灯りが落ちるぞ」

誰かの声と同時に白が抜け、倉庫は暗い銅色になる。モーターの唸りが止まり、虫の翅のような静けさ。ハミドがバッグを掴み、胸骨の上で一定のリズムを刻む。

「1、2、 3…」

私は別の台で頬を叩き、舌根を持ち上げる。手袋越しの柔らかさに、生活の重さが突然宿る。ファティマは灯油ランプを3つ、縫合台の端に置き、揺れる火が血の色を厚くする。


停電は長く続かない。発電機の咳が2度、3度。灯りが戻ると、汗がいっせいに光る。私は唇だけで笑い、次の担架を迎える。

制服の布が焼けて徽章がわからない少年兵が運び込まれる。肩から腹へ斜めの黒い擦過傷。熱と塩で赤く膨れている。

「所属は?」港湾警備の男。

「感情を挟む余裕はないわ。黄。洗って、包んで、痛みを見て。それから身元」

ファティマが短く説明し、男は肩をすくめて退く。少年の瞼が震え、自分の言葉を探すが、音にはならない。

「痛みは10段階で?」

私は指で1から10までを示す。少年は4と5の間で迷い、4に触れる。

「立派。4は、歩ける強さ」


夜は、音で進む。布を裂く音、金属盆の触れ合い、遠い汽笛。私は時計を見ず、手順だけを見る。ABC(Airway/Breathing/Circulation)。出血が止まれば次は痛み。痛みが落ちれば次は不安。順番を乱すと手が震える。震えれば糸が躍る。

「輸血、交差は?」

「Oが1本、Aが1本」

「Oを優先。体重を見て半量から」

言いながら、自分の血液型を思い出す。学生の頃、ノートの表紙に大きく書いた。災害派遣で最初に問われるのは自分の血で、次に他人の血だ。


深夜、第二の波。片脚の深い切創。担架の布は乾いて硬い。ブノワが断端の洗浄を指示し、私は止血帯を緩め、血が戻る瞬間を睨む。戻しすぎると出過ぎる。

「あなた、名前は?」

「サリム」

「サリム、いいわ。少し眠る。目を開けたら痛みの数字を教えて」

局麻の準備をしながら、ファティマの指のインクに気づく。今日、配給所で名簿を書いたのだ。

「弟は、まだ戻りません。港の外。タグボートに乗ってます」

私は針を示す。

「終わったら、名簿をもう1度見よう」


短い砲声が遠くで重なる。天井が低く唸る。回復室の老船員が祈り、見習いの少女がそっと真似をする。

私は国籍を指で数える。日本、フランス、イギリス、オマーン、アメリカ、属さない旗。紙では別々でも、包帯の白は同じ厚みで同じ速度で血を吸う。

少年兵の包帯を替え、彼の掌に小さく数字を書く。1—10。

「朝になったら、もう1度。4のままなら、歩こう」


外の風向きが変わり、海の低い音が入る。伝令が扉を押し開け、フランス語の早口。

「夜明け、通峡。医療段列は…」

私は言葉を拾い、並べ直す。海峡、夜明け、通過、負傷者、搬入。

「手術室を1面、空に」

ブノワが短く言い、ハミドが頷く。ボンベのバルブを1つ閉め、私はトレーを整える。ハサミ、鉗子、縫合糸。

灯油の火が少し高くなり、また落ちる。潮の匂いが濃くなる。

汽笛が1度だけ長く鳴る。外気が震え、壁の地図の端がめくれる。

手袋を外し、掌の汗を見る。白い粉のような塩が指に残る。

「朝になったら、また始めよう」

眠らない夜を見渡す。


読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。

本話は規範で混乱を抑える医療現場(札の色・動線・ABC)を主軸にしました。

表記や運用の気づき(トリアージの台詞、在庫ログの出し方、停電復旧の描写など)をぜひコメントで。面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)で応援を。

次話#15-後編は00:05 潮の反転→第三陣→夜明け直前の受け入れ準備へ。

次回更新は、明日 12:00 頃(JST)に公開予定。

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