ベルリンの火口(Operation STREET THERMAL)#01-後編【場所:ベルリン中心区(広場〜救護所)】
核のない第三次大戦、ベルリン〈二日目〉。
記者一人称で、検問強化と通行証の波、そして“街の温度”を記録します(軽度の暴力・群衆制圧ガス描写あり)。
明け方、救護所の床は白く冷え、湯気の立たない息が灯りの輪を曇らせた。私は掲示板の余白に、小さく〈二日目〉の欄を作り、鉛筆で薄い罫を引く。導線に沿って歩くと、市場の角で足が止まった。ラジオ店の前、金属のシャッターが半分だけ開き、その隙間から砂利のような音が漏れている。十人ばかりが耳を寄せ、誰もが無言で頷く。何かが「決まりつつある」時の頷きだった。
聞こえた単語は断片だけれど、街の輪郭を押し直す力を持っていた。〈検問強化〉〈臨時通行帯〉〈自宅退避〉。誰かがため息をついた。ため息は言語の外にあるのに、もっとも共通の意味に達する。
広場に戻ると、配給の列は昨日より短い。代わりに、列の脇に背の高い看板が立っていた。〈通行証の再発行はこちら〉。矢印が、昨日のパンと同じくらい堂々としている。私は矢印の根元に立ち、紙の匂いを嗅いだ。新しい。夜のうちに刷られたインクの香りが、冷気の中でまだ生きている。掲示板に〈通行証:今朝刷りたて。紙厚薄い〉と書き足す。
午前のうちに二度、薄い霧が出た。涙は出ない、けれど、泣いている人に見える。霧が引くと、舗道にチョークの線が残った。子どもたちが水の出る蛇口と救護所への矢印を描いている。矢印は上手で、誰が見ても分かる。私はその一本の端に自分の矢印を繋ぎ、〈壁新聞はこちら〉と加えた。子どもが振り向く。「字、きれいだね」と言われる。私は笑い、チョークを返す。チョークは柔らかい。柔らかいものは消えるが、消えるまでの時間が誰かの助けになる。
正午、救護所に運ばれてきたのは、転んだ膝だけでなく、言葉を失った人々だった。彼らは喉の奥で何かを回し、出てこない音を両手でさぐっている。白衣のレーナが言う。「話さなくていい」と。話さなくていいという言葉が、話す以上に人を救うことを、私は初めて見た。私はメモに〈沈黙の処置〉と記す。言い換えれば、街の声帯に休息を与える術だ。
午後、憲兵が二人、救護所の前を通った。腕章の縁が磨かれ、靴は泥を払っている。ひとりが立ち止まり、掲示板を読んだ。彼はポケットから布を取り出し、私に差し出す。「これで、霧を少しマシにできる。濡らしてから」と、彼は短く言った。私は受け取り、礼を言う。彼はうなずくだけで去った。うなずきは「分かった」の最短形だ。私は布を折り畳み、筆記具と一緒に鞄へ入れる。文字と布は、どちらも繊維でできている。
夕刻、最初の真正の連射が来た。遠くない。空気が三度小さく跳ね、四度目に沈む。沈み方で距離が分かる。救護所の扉が開き、担架がふたつ出る。誰も走らない。走らない動きこそ早い。私は掲示板に〈多発。間隔短い。方向、西〉と書く。書きながら、鉛筆の芯を折った。芯は折れ、かわりに線の濃さが増す。濃い線は人を励まさないが、人を迷わせない。
夜、宣伝車は速度を落とし、音量をさらに下げた。車体の側面に新しい紙が貼られている。〈協力者募集〉。文字の角が、ほんの少し鋭くなっていた。角が鋭くなると、人はそこに目を引かれる。私は耳を澄まし、目を細める。耳と目は同じくらい疲れる。疲れをそのまま記録に移す。〈疲労、街全体で共有〉。
広場の端で、朝の老女に再び会った。彼女は空になった袋を畳み、胸の前で抱えた。袋は中身がなくても、形を崩さぬように作られている。彼女は私を見ると微笑み、唇だけを動かした。「読むよ」と。声は出ていなかったが、意味は十分だった。私はうなずき、掲示板の端に小さな紙片を増やした。〈失せ物〉〈人探し〉〈水の出る家〉。細い釘で留める。釘の頭は、夜でも見えるように光った。
深夜近く、空の音程が昨日と変わった。監視機の線が薄くなり、代わって低い風鳴りが長く尾を引く。風かもしれない、機械かもしれない。名前のない音に、人はそれぞれの恐れをあてがう。私は窓枠に肘を置き、その音がどの建物で反射し、どの路地で消えるのかを確かめた。音は北東から、広場を跨ぎ、救護所の屋根で一度ほどけ、また結ばれた。結び目は、地図でいえば交差点の上に相当する。私はその交差点に印をつけ、明日の朝、見に行くと決める。
その時、救護所の扉が軋んだ。入ってきたのは、昼に見た少年だった。抱えていた紙袋の形が違う。袋の中には、紙がいっぱい詰まっている。彼は掲示板の前で立ち止まり、私に差し出した。手書きの紙が束になっている。読み上げる必要はない。紙はそれぞれ、誰かの小さな世界の中心だった。〈母を探しています〉〈この犬を見ませんでしたか〉〈血液型Bの方〉。私はそれらを順に貼った。少年はずっと、袋の口を両手で押さえていた。押さえることで、自分の中の何かも崩れずに済むのだろう。
日付が変わる頃、救護所の奥でラジオが小さく鳴った。砂利の音に、初めて笛のような音が混ざった。サイレンではない。けれど、サイレンの卵のような、輪郭のはっきりしない高音だ。誰かが顔を上げる。誰もが黙った。沈黙は合図になる。私は掲示板の〈二日目〉の欄の末尾に一本の線を引き、余白を開けた。余白は臆病ではない。余白は受け入れるためにある。
外に出る。夜気はさらに薄く、吐く息はもう見えない。広場の真ん中で足を止め、私は耳を澄ます。音はさっきより近い。風鳴りの内側に、鉄のものが擦れる音が混じる。履帯かもしれない。私はすぐに断言しない。断言は、翌日の朝に譲る。けれど、明日の朝は、今日と同じではないと分かる。分かることを、書く。
救護所へ戻り、掲示板の見出しの下に小さく書き添える。〈三日目の入り口〉。その一文は、扉の蝶番に似ている。音は空から、蝶番は壁から。どちらも開け閉めの音を持ち、どちらも街の骨に触れる。私は鉛筆を置き、布を水で濡らし、畳んで机に置いた。明日の霧に備えて。
寝台で目を閉じる。眠りは浅いが、浅い眠りにも底はある。その底に、昨日の老女の手の温度が残っている。温度は数字にできるが、数字にした瞬間、指から滑る。滑らせないために、私は文字にする。文字は温度を直接に運ばないが、温度の通り道を作る。通り道を残せば、誰かがそこを通る。そう信じる人間を、昔から「記者」と呼んだ。
遠くで、縄のような音が一瞬強くなり、すぐ消えた。私は目を開け、掲示板の余白を見た。余白は静かで、準備ができていた。
夜明け前、広場の上で光が一度だけ割れた。稲妻ではない。信号のような、短い閃き。私は起き上がり、鉛筆を取る。〈二日目 終〉。すぐ下に、〈三日目 開〉と書き、日付を入れる。扉が、音を立てて動き出すのが分かった。私はそれを、見たこととして、書く。
読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。
ベルリン編は本話で終幕。テーマは「矢印/沈黙/繊維(布と文字)/余白」。
一度書き上げたのですが、もっと良くするため推敲中。
次章は2日後の19時半頃に開始予定
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それでは、次章で。