夜明け作戦・暗号の部屋 (Dawn’s Needle in the Static)#11-3
#11-3は確定と配備の章。JJYで秒を合わせ、電離層の帯と副網交替の癖を突合。
一度きりの欺瞞を前提に、H-Hour=05:12(TST)を全線へ通達します。
円の中央の点に針を合わせる、紙と規則の“運用記(全三話)”の第3話。
【場所:上瀬谷「Room-D」→ 横須賀 → 台北・松山分室 時間:1961-07-03 TST 12:10–22:15/JST 13:10–23:40】
午後の紙は、午前より重い。上瀬谷では、H-Hour確定電が戻るまでのあいだ、誰も紙束の高さを口にしない。口にすれば崩れる山が、戦場にはある。
13:10(JST)。海図の余白で、電離層の計算が鉛筆の細線で進む。短波の標準周波数局JJYに同調し、1秒ティックで腕時計を合わせる。太陽高度の表を引き、緯度差の微小なずれを窓幅に折り込む。鳳凰の初動が外縁に触る時刻、台南の港内で曳船のエンジンが温まる時刻、前進P-15の臨時サイトが警戒電の再接続をする時刻――3つの針を同じ鍵穴に集める。
「副網の監督者が交替に入るのは?」
「推定で、日の出+30分。昨日も一昨日も」
対訳班の若い下士官が指を3本立てる。資料の端に、同じ癖の鉛筆跡が重なる。規則と癖は別物だが、規則を運ぶのは人の癖だ。
15:40(JST)。横須賀。赤鉛筆で丸を二重にする。情報幕僚の1人が「1度限り」をもう1度だけ言う。言葉は繰り返すほど薄くなるが、この言葉だけは薄くならない。
マクレーンは丸の中央に小さな点を打った。「点を見失うな。円は大きく見えるが、点は小さい」
台北は昼下がりの背伸びの時間。15:05(TST)。松山分室の梁に光が走る。林 静華は学童受け入れの時刻変更をもう1枚の紙に転記して、端を揃えた。戦場は紙の端で秩序を保つ。
「上瀬谷より:副網の監督者交替が遅れ傾向。明朝、鍵穴は+1–2分広がる可能性あり」
短い文。短い呼吸。扇風機の羽根が同じ速度で回り続けることの安堵。
夕刻、上瀬谷に1度だけ逆風が吹く。〈朱雀-3〉の訓令が、珍しく前倒しの予告を流したのだ。「夜明け帯の試験送信を以後差し控える」。針の差込口を塞ぐ意図か、単なる保身か。
「窓が消える?」と誰かが言い、別の誰かが首を振る。
エリザベスは地図を壁から少しだけ剥がし、裏の画鋲穴を眺める。「穴は表で塞げる。でも、裏に穴は残る」
電離層は命令に従わない。周波数表は命令で変わる。2つが重なる場所は、必ず薄くなる。予告の文言は、逆に時刻の帯を示す灯りになった。
18:20(JST)。那覇の中継から、整備明けの報。P-2Vは再び耳を澄ませる準備に入る。厚木のEC-121は夜間機の搭乗員がブリーフィング室で幾度目かの真方位の読み替えをしている。
「南のうねりは1–2。風は北東10kt」
気象の1行が、作戦書の余白に添えられる。自然は作戦書の端にしか書けないが、端は紙全体を反らせる。
19:05(TST)。台北で、松山分室に夜の匂いが入る。窓の外で湯気、屋台の音。林は机の隅の鉛筆屑を払い、扇風機を1段弱めた。
「今夜の監視は、交替後も連続記録。副網の再接続を待つ」
彼女はそうタイプし、紙を送る。言い終えたあとの静けさは短く、すぐに紙送りの機械音が戻る。
20:10(JST)。上瀬谷。最後の突合を前に、エリザベスはペンではなく消しゴムを手に取る。余計な線を消す。多い線は強そうに見えるが、針は多い線の上では滑る。
机の端で、鉛筆の芯が最短になった。紙やすりの粉が少し舞い、誰かが窓を指2本ぶん開ける。夜風が入る。
「H-Hour確定電、受領。鳳凰計画班、全艦隊に時刻伝達開始」
短い声が室内を1周する。拍手も歓声もない。紙は紙で、時刻は時刻だ。
21:40(JST)。横須賀のブリーフィング室では、赤鉛筆の丸の外側に、さらに薄い鉛筆の楕円が描かれる。余裕帯。誰も言葉にしないが、「もし」のための逃げ道は必要だ。
マクレーンは机を指で2度叩き、場を解いた。「明朝、誰かが寝坊する。敵か、味方か。どちらでもよい。時刻は起きている」
22:15(TST)。台北。松山分室に、沿岸保安の旧式送信機の癖のあるハム音がかすかに戻る。副網隊付の下士官が、きっと紙を取り換えたのだ。呼吸が変わる。
林は1拍置いて受信紙の余白に丸を1つ描いた。丸の中に、何も書かない。何も書かない丸は、誰にでも読める。
23:05(JST)。上瀬谷。灯りを半分落とす。「Room-D」は夜の深さに合わせて音を減らす。テレタイプの紙送りだけが一定で、鉛筆の音は時折止む。
エリザベスは報告書の末尾に3行を打つ。
〈H-Hour=05:12(TST)。欺瞞電注入は最短・1回。副網交替は夜明け+30前後、末尾1桁の更新癖を継続確認〉
タイプバーが紙を叩くたび、机の下の木が小さく鳴る。木が鳴る音は、鉄より長く残る。
23:40(JST)。退室前、エリザベスは壁の世界地図の端をなで、画鋲の頭を押し込み直す。紙がぴんと張り、糸がわずかに震える。
紅茶は完全に冷え、鉛筆の芯はもう挟めないほど短い。彼女は芯を掌に包み、制服の小さなポケットに入れた。
「明朝、針を入れるのは私たちじゃない」
独り言は小さく、けれど確かだった。「でも、針穴はここで開けた」
上瀬谷の窓の黒は、東の端でわずかに薄い。地図の鍵穴に、まだ何も通っていない。海は見えないが、海図の上ではすでに風が吹いている。時刻は人の声より静かに進み、紙は人の足音より遠くへ届く。
読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。
確定回は余計な線を消す工程に重心を置きました。JJY同期、電離層の窓、副網交替+末尾桁の癖――これらが揃って05:12(TST)。
表記(TST主/JST併記・単位間の半角スペース)や用語(H-Hour、JJY、DF)の気づきはコメントでぜひ。
面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)で応援を。次章は05:12、紙の穴を通る矢へ。
次回更新は、明後日 10/1 12:00 頃(JST)に公開予定。




