夜明け作戦・暗号の部屋 (Dawn’s Needle in the Static)#11-1
舞台は上瀬谷「Room-D」。
EC-121とP-2V、DFと対訳で夜明け帯の“綻び”を読む。
台北・松山分室と横須賀が同期する、紙と規則と眠気の三話連作・第1話。
【場所:上瀬谷「Room-D」→ 横須賀 → 台北・松山分室 時間:1961-07-03 TST 05:00–06:10/JST 06:00–07:10】
紙コップの紅茶は、冷えた指より先に喉を洗った。上瀬谷の「Room-D」は夜勤と早番の境目で、人の声がいちど凪になる。壁一面の世界地図には糸と画鋲が刺さり、糸は夜のうちに伸びたり縮んだりする。エリザベスは鉛筆の芯を紙やすりで整え、前夜のログに斜線を引いた。
〈朱雀-3〉の主網が、日の出の15分前から15分後まで、まるで息を止めるように沈黙する――3晩続けての癖だ。理由は1つではない。電離層の境目で8MHz帯が跳ね、管制の周波数表は一斉更新、さらに現場は切替試験で回線を落とす。3つが同じ窓に重なると、文書通りの軍は逆に無音になる。
「EC-121、上がりました」
厚木からの声が入る。電界強度の曲線が端末の紙に黒く昇り、東シナ海北縁の空に長い針が立つ。那覇のP-2Vは、真方位185–205°に受信点を散らしてDFをとると言ってきた。夜明けの海は、地図の上では静かだが、電波だけがざわつく。
「5分前」
エリザベスは腕時計を横目に、前夜の誤送信を指でなぞる。副網〈棗-6〉が旧周波数で1度だけ声を出した。5桁群の頭語が、日付の桁と噛み合っていない。手順書の更新を夜のうちに済ませなかったか、済ませたが輪番の下士官が古い紙を掴んだか。どちらでも良い。齟齬は、どこからか必ず漏れる。
05:22(TST)。無音。
丸い紙盤の針がまわり、テレタイプは白い紙を送り続けるだけになる。厚木のEC-121は上層を舐め、P-2Vは海霧の棚の下端すれすれで耳を澄ます。海自の対訳班は方言の副音を拾い、漁業通話の中から軍の癖を分ける。室内は鉛筆と紙やすりの匂い、それに木の匂いが混ざっている。
05:36(TST)。1つ、つまずく音。
〈棗-6〉が、旧周波数で数群だけ滑り込ませた。呼出符号の末尾が、昨日のままになっている。頭語の「7」が「8」に直っていない。紙をめくる音が、敵の卓上の向こうで遅れたのだ。エリザベスは1行だけ赤鉛筆で囲み、横に「手順逸脱/副網」と書く。齟齬の1秒後、沿岸保安通話のなかで「柳江八号」という言葉が跳ねた。民間の舌で、軍の歯切れを隠すときにだけ出る固有の抑揚。
「柳江、八号……」
対訳班が語尾の鼻母音を指摘する。福建の河名から取る命名の癖。兵站の船だ。
DFの三角形が地図に乗る。真方位196°/距離245nm、次が201°/213nm。澎湖の北、外洋側に点が生まれ、それが南南西へ緩く流れる。電波は消え、また点く。消えるとき、誰かがコードブックの頁をめくる。点くとき、誰かが同じ挨拶を短く言い直す。
「日の出+12分(05:12〈TST〉)」
エリザベスは時計を見て、紙の端に数字を書いた。日課表の切替、周波数表の反映、訓令の読み直し。規則で固められた軍ほど、切替直後は脆い。全員が正しいことを同時にやるから、同じ所に隙ができる。
「H-Hour仮設定、05:12(TST)」
室内の空気がわずかに動いた。厚木からの曲線が穏やかになり、P-2Vは「南の海霧、流速2kt」と添えてくる。2ktの霧は、誰にも命令できない味方だ。
横須賀の地図は大きく、赤鉛筆の跡が人の顔に見える。ブリーフィング室でマクレーンは黙って耳を傾け、最後に「誰も死ぬ必要のないやり方があるなら、そこから探せ」と短く言った。彼の声は、分厚い木の卓を通して鈍く響く。鳳凰作戦の計画班は、紙の上の針を海図に移し、05:12の円に最短の矢印を描いた。
台北の朝は1時間遅い。松山分室の扇風機はまだ眠そうに回り、窓の外でバスがエンジンをかける。林 静華が送ってきた民生の報告が机の端に積まれていて、紙の重みが都市の呼吸を伝える。無線は静かで、静けさは街の音で満たされる。ここでも夜勤と早番の間は、声が凪ぐ。
「欺瞞電注入は最短文、漁業通話に混ぜる」
エリザベスは台北宛の草案に、そう1行だけ書いた。長い言葉は武器にならない。短い言葉が、相手の短い手順と衝突したときにだけ、綻びは形になる。
〈柳江八号〉の名を使わない。名は敵のもので、こちらは音だけを借りる。周波数の切替窓で、声は薄く、内容は更に薄く。針は紙を破らず、布だけをすくう。
夜が引き、上瀬谷の窓の縁が白む。凍った空気がほどけると、紙コップの紅茶はもう冷たく、鉛筆の芯は短くなっている。エリザベスは最後に、机の角で芯をもう1度だけ削り、H-Hourの数字に二重線を引いた。
05:12(TST)。
夜明けは敵にも味方にも同じだが、手順は軍ごとに違う。違いがあるかぎり、針はそこに入る。
送電のベルが鳴り、紙は電線の中に細くなって滑っていく。上瀬谷の「Room-D」はまたざわめきを取り戻し、誰かが新しい紙をテレタイプに差し込む。厚木のEC-121は周回を終えにかかり、那覇のP-2Vは真方位190°の雲の下に戻り始める。横須賀のブリーフィング室では、赤鉛筆の円が太くなり、台北の分室では扇風機の回転が少しだけ速くなる。
夜明けの綻びは短い。けれど短さは、準備の長さで補える。紙と鉛筆と規則と眠気。戦いに必要なものは、それだけでは足りないが、それなしには始まらない。エリザベスは腕時計を外し、短く息を吐いた。窓の外で鳥が1声だけ鳴き、電波は、またすぐに混み合い始めた。
読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。
#11-1は癖×手順×対時刻で鍵穴を見つける回。
〈棗-6〉の手順逸脱、「柳江」の抑揚、DF三角の収束――05:12(TST)へ。
用語は初出だけ軽く補足します(DF=方位測定、JJY=標準電波)。
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次回更新は、明日 00:00 頃(JST)に公開予定。




