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湾岸の夕凪 — 桟橋前の夜間ミニ海戦(Skirmish at the Jetty) #10-後編

#10-後編は、印→線→針路の回。

捕らえた潜入者、星弾の記録、〈鷹-27〉封筒が暗号室で地図になる。

逆照角や合図の更新、備品消耗の記載――“紙と印”で夜を明日に渡します。

【場所:マスカット湾・外桟橋前 時間:1961-07-02 23:30 UTC】

港務の帳場に戻ると、紙の上に湿った指の跡が増えていた。入港3、出港2。破片雨、軽傷4。未起爆1、回収済み。ファティマは〈鷹-27〉の紙を別の封筒に移し、封蝋の代わりに茶色いテープを十字に貼る。封の上に小さく夜の時刻を書き添える――「23:32」。あとで嘘が混ざらない。


捕らえた潜入者は港倉の陰に座らせた。服の肩口に古い補修跡が並ぶ。両手は布で縛り、口は塞いでいない。水を渡すと1度だけ飲み、目だけで周囲を計る。言葉は少ない。何かの名を短く呟いたが、仲間か舟かは聞き取れない。これ以上は訊かない。訊く役は別にいる。彼が来るまで、傷だけを抑える。


英艦から若い将校が来て、星弾の使用記録に署名を求めた。汗の跡が制服の襟に濃い。ファティマは帳場の端を空け、紙に押す木のスタンプを渡す。港の印は、いまや堂々たる署名より効く。夜は、印しか信じない。

「迫撃は?」と彼。

「沈黙。跡は砂に埋まる。朝に掘る」

彼は短くうなずき、封筒を示した。「それを暗号室へ」

「はい。濡らさないで運びます」


桟橋の奥で、女たちがロープを巻き直す。濡れた繊維が手のひらに張り付き、砂が肌を削る。指の節に白い粉が残るのは洗剤だ。潜入者に投げた袋の残り香が、まだ風に揺れている。すぐそばで、曳船の機関士がプロペラに絡んだ海草をほどきながら独り言。「浅瀬の線、もう少し外へ引くか」

港務の男が応える。「潮が変わる。線は動く。印を替える」


小さな祈りの時間が来た。誰も声には出さない。手を止め、各々の胸の中で短く言葉を並べる。負傷者は4。顔を裂いた者、指を潰した者、耳鳴りが消えない者。見送る者は今夜0――0という数字は、声に出さない。出すとほつれる。


ファティマは医療箱を背負い直し、封筒を懐に入れて港務所へ向かう。階段の踊り場の木箱には乾いた硬パンが詰まっていた。1つ取り、途中で子どもに押し付ける。子どもは両手で受け取り、胸に抱えた。袖口に蛍光の染みが、まだぼんやり光る。

「洗えば落ちる?」

「2〜3日で消える。夜の間は仲間に見つけてもらえる」


港務所の無線室は薄布1枚で廊下と隔てられている。布の向こうでは鉛筆が紙の上を走り、点と線が並ぶ音。封筒を渡すと、若い暗号兵が息を呑んで受け取った。指は黒いインクで汚れている。文机の隅に、以前の封筒が積まれていた。〈鷹-12〉、〈鷹-18〉、〈鷹-23〉。手書きの癖は似ている。斜めに立つ字。7の横棒が長い。彼らは同じ箱から紙とペンを取っているのだ。

「同じ手だ」と暗号兵。「台船の列とつながる」

「列は、地図になる?」

「多分。朝までに試す」


外へ出ると、港の匂いが入れ替わっていた。ディーゼル油とカルダモンの湯気に、缶詰の甘さが混じる。荷役は止まらない。布の内側でクレーンの影が動き、静かな鎖の音が等間隔で落ちる。ファティマは桟橋へ戻り、作業員にチャイを配る。紙コップの縁が柔らかくなり、指先が温まる。彼らは礼を言わない。次の動きで礼をする。ロープを通す。楔を打つ。足を踏ん張る。


夜半の波が1度だけ高くなり、沖の火の匂いが強くなる。自ら燃えた艇の灰が潮に乗って寄ってくる。黒い破片を掬い上げ、バケツに入れる。破片には番号がない。番号を消すのは向こうの仕事の終い。こちらは番号を書き続けるのが仕事だ。


港口の見張り台。警備ボートの艇長が短く報告する。「逆照の角度、005°上げた方がいい。波の肩を抜け」

港務の男が頷く。「明日は潮が早い。合図の汽笛、短2に変更」

合図の記録が黒板に書かれる。白い線が重なり、古い線を薄くしていく。誰かがチョークを折り、半分の欠片が板の隅で転がった。ファティマはそれを拾い、ポケットに入れる。細い線でも、線は線だ。


捕らえた男は、まだ座っている。目は眠気で滲み、肩が小さく震える。救急毛布をかけると、彼は1度だけ礼の仕草をした。敵かどうかは、いまは関係ない。寒さは誰にも冷たい。靴底は薄く、踵に釘が見えている。ファティマは釘は抜かず、毛布の裾をそっと踏んで止めた。逃げないためではなく、滑らないために。


曳船がもう1度、岸壁に腹を擦る。最後の荷が下り、ロープが解かれる。波は穏やかで、港外の海図では「凪」と書く程度の夜だ。夕凪というには遅いが、言葉は夜を跨いでも残る。誰かがぽつりと言う。「今夜は、勝ったな」

「勝ちというより、渡れた」と港務の男。「明日も渡る」


ファティマは帳場に戻り、最初の行の横に数字をひとつ足した。〈備品消耗:包帯 小×3/染料袋 ×2/石鹸水 ×1〉。数字の端に小さな星を描く。星は合図ではない。ただの印。星が増えるほど、誰かが生きて港を出ていった時間が増える。


東が薄くなる前の、気配が変わる。鳥の声はまだしない。風が角を曲がる。女たちが黒布に手を掛ける。幕は朝になっても掛かったままだが、端を少し上げてロープのたわみを確かめる。男たちはラインを緩め、甲板の水を流し、木箱を重ねて通路を作る。


無線室の布がめくれ、さきほどの暗号兵が走って出てきた。封筒から出した紙を掲げ、息を切らして言う。「線になった。湾の奥、台船の列が——南から16、北から11。〈鷹-27〉は真ん中だ。夜明けの風で入れ替わる」

港務の男が顔を上げる。ファティマは彼の目の中に、眠気と決意が同じ割合で揺れるのを見た。

「どこへ渡せばいい?」

「暗号の部屋へ。軍の波に載せる」


暗号の部屋。夜明け作戦。言葉が次の部屋の扉を開ける。

ファティマはうなずき、封筒の束を抱えた。無線室へ戻る途中、足もとが1度だけ躓く。床板の継ぎ目が少し盛り上がっている。彼女は歩を止め、爪で木のささくれを押し戻した。ひとつ直す。今夜のぶんとして。


外で汽笛が短く2度鳴る。港の合図は変わる。夜の印は朝の線へ変わる。線は針路になる。針路があれば、怖れは縮む。

ファティマは布の向こうに入った。紙の上で黒い鉛筆が走る音が増え、その上を無線の細い笛が撫でる。封筒を机に置き、肩で息をしながら、手の甲のインクを擦る。匂いは油と紙と人の汗。ここもまた、港だ。


外で海がもう1度、深く息をした。朝はまだ名づけない。名づけるのは、渡り終えたあとでいい。ここでは、名は音を呼ぶ。音は夜を呼ぶ。夜は、また来る。

だから彼女は、次の包帯の箱を開いた。次の船のために。次の夜のために。次の、朝のために。


読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。

後編は暗号・記録・合図で“渡れた夜”を次へ繋ぐ実務に寄せました。〈鷹-27〉の手書き癖が台船列の鍵穴となり、印→線→針路へ。

表記(UTC/現地+04:00/JST)や用語(逆照、浅水回避線、星弾)で気づきがあればコメントでぜひ。面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)で応援を。次章は“暗号通信”から始動します。

次回更新は、明後日 9/27 00:00 頃(JST)に公開予定。

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