湾岸の夕凪 — 桟橋前の夜間ミニ海戦(Skirmish at the Jetty) #10-前編
舞台は再びマスカット湾。
灯を落とし、白線を砂で消し、逆照で輪郭を起こす夜。
潜入・即席ロケット・高速艇に対し、紙と印と手順で“細い戦”を回します。
北ではTRIDENTが動く。ここでは桟橋が呼吸します。
【場所:マスカット湾・外桟橋前 時間:1961-07-02 23:10 UTC】
港は闇に沈められている。標識灯は落とされ、クレーンの骨組みには黒布が掛かり、桟橋の白線は砂で消された。潮は満ち、足もとに寄せる水が板を舐めるたび、オイルと塩の匂いが上がる。
ファティマは帳場に据えた木箱に肘をつき、包帯と消毒瓶を三角灯の陰に並べた。灯りは小さい。ここでは、照らすことが罪になる。
「静かにして。息まで小さく」
医療班の少女に囁いたとき、港務の男が駆け込んだ。手を横に振って声を殺す仕草。外海を指す。黒い海の上に、弱い光がひとつ。漁灯のようだが、ここで夜の漁は許されていない。
桟橋先端の詰所が、合図の汽笛を短1・長1で鳴らす。探照灯は使わない。代わりに海面だけを斜めに掃く“逆照”が始まる。光の刃が暗い水面を撫で、波の頂に白が立つ。逆光になれば、闇は輪郭を持つ。
ボートが2隻、音もなく滑り出た。艫に据えた12.7mmの銃身が海面の高さに沈む。引き金が切られると、水切りの音が連続で跳ね、斜めに走る弾が波を叩いて低い舷側を探る。撃つたび、遠い光が揺れた。
「来る」
聴音箱を抱えた少年が、濡れた胸までの箱から耳を離し、顔だけで頷く。微細な泡立ちが2つ分、港口に伸びているのだという。潜りか、曳航か。ファティマは帳場横の木箱を蹴って開け、石鹸水の袋と蛍光染料の小袋を取り出した。
「投げるよ!」
作業班の男たちが、糸で括った袋を風下へ投げる。波間で袋が割れ、白い雲がふわりと広がる。そこに、人の形が浮いた。粘着布の黒が胸の上で鈍く光る。潜入だ。縄が飛び、海から引き上げられた影は歯を鳴らして罵ったが、粘着布は剥がれない。爆薬は湿っている。運がこちらにある夜も、ある。
そのとき、空が割れた。港外、方位110°の上空で星が弾ける。英海軍のフリゲートが4.5インチ星弾を放った。光は敵そのものを照らすためではない。逆光の背に輪郭を浮かべるための星だ。星雲の下で、2隻のダウが帆を畳み、エンジンだけで押し出しているのが見える。舷側に据えられた見慣れない金属の架台――即席のロケットだ。
ボートの銃が火を噴き、波の上に跳ねる火花がダウの舷を噛む。舵が外れ、1隻は浅瀬に腹を擦って斜めに止まる。もう1隻は頑なに針路を維持した。
桟橋の裏で、小さな叫び。ファティマは振り向いて駆け寄る。額に擦り傷を作った少年が、泣くのをこらえて唇を噛んでいた。
「大丈夫。痛いのは、ちゃんと生きてる証拠」
消毒を手早く済ませ、砂糖菓子を半分に割って渡す。少年はうなずき、聴音箱へ戻った。泣き声は、音を呼ぶ。
湾奥から鈍い3発。遅れて落ちる、砂のような破片。迫撃だ。港務所の電話が躍り、英艦の測角係が息を詰めて答える。星がもう1度咲き、その向こうに砂丘の影に置かれた小さな迫撃架が白く浮いた。2射。爆ぜる閃光。丘の闇は、ただの闇に戻る。
今度は速い音。水を裂く尾が2筋、港の外縁に並んだ。高速艇だ。曳船がすかさず“浅水回避線”へ逃げ込む。浅瀬の帯は、軽い船を守る港の知恵。桟橋北面に残る旧式の40mmが曳航波頭を刻むように撃ち込み、片方の艇が急に腹を見せた。転覆。もう片方は浅瀬に足を取られ、推進器を空回しさせながら泥の上で止まる。
闇は壊れたが、夜は壊れない。星の殻がゆっくり落ち、火の粉が水に消える。荷役の手が自然に動き始め、覆いのクレーンが身じろぐ。ファティマは帳場に戻り、回収された粘着爆雷の外装を覗いた。水に濡れても読める油性の細字――〈鷹-27〉と手で書かれている。
「番号?」
港務の男が眉をひそめる。
「印。台船サイトの便で見たのと同じ手書き」
暗号班へ、と男が言う。ファティマはうなずき、包帯の箱を閉めた。息をついた瞬間、遠い外海で赤い火柱が立つ。小さく、しかし長く燃える光。沖を南下中だと通報のあった損傷艇――ミサイル艇が、自ら火を放ったのだろう。ここで撃つ武器は持たず、残す秘密を持っていた。離脱は叶わず、証拠だけが海に沈む。
波が戻ってくる。静かに、しかし確かに。チャイの鍋が温め直され、カルダモンの匂いが広がる。ファティマは紙コップを並べ、砂糖を落として、手を温める作業員に渡していく。どの指にも黒い油が染みついている。女たちの手も同じ色だ。
「もう1船、入る」
汽笛が短く2度鳴り、曳船が桟橋の腹に身を擦り付ける。係留索が投げられ、黒い影が音を飲み込むように寄ってくる。船腹の白い識別記号は泥で読めない。だが、積み荷の匂いは正確だ。乾いた穀物、鉄、少し甘い缶詰。必要なものが必要なときに届く――戦いの夜に、これほど豪奢な勝利はない。
係留は完了した。時計は日付をまたいで久しい。港の闇は相変わらず深いが、耳が闇に慣れ、目が音を覚えた。ファティマは帳場から立ち、桟橋の先端まで歩く。足もとで、海が息をしている。遠くで、犬が1度だけ吠えた。
「終わった?」
背後で少女が訊く。
「今夜のぶんは」
ファティマは振り返らずに答えた。今夜のぶんは、ここで止まっただけ。次の夜にまた始まる。桟橋の床板に、誰かがチョークで書いた数字が白く浮き、足跡で少し擦れている。入港3、出港2。破片雨、軽傷4。未起爆1、回収済み。鷹-27。文字は、波でも消えない。
彼女は手の中の紙を確かめ、爆雷の外装を布に包んで胸に抱えた。港の奥で無線室の薄灯りが点る。暗号の部屋では、誰かがこの夜の印をほかの夜の印と並べるだろう。線はやがて地図になり、地図はやがて針路になる。
朝はまだ遠い。だが、東の空には夜より少し薄い色が混じっている気がした。ファティマはそれを見ない。見ると名づけてしまうからだ。ここでは、名は音を呼ぶ。音は夜を連れてくる。彼女は足もとだけを見て、次の包帯の箱を開いた。次の夜へ備えるために。
読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。
#10-前編は“逆照”と星弾で視界を作り、聴音箱/浅水回避線/蛍光染料で受ける実務回です。〈鷹-27〉の手書き印は、台船列へ繋がる“鍵穴”。
表記(UTC/現地+04:00/JST)や用語(逆照=海面斜照、三角灯=遮光ランプ)で気づきがあればコメントでぜひ。
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後編では“印”が線になり、線が針路に変わります。
次回更新は、明日 00:00 頃(JST)に公開予定。




