ベルリンの火口(Operation STREET THERMAL)#01-前編【場所:ベルリン中心区(広場〜救護所】
核抑止が生まれなかった世界線――ベルリンの「一日目」を、記者一人称で記録します(軽度の暴力・催涙描写あり
路面電車が、鳴らしたはずの警鐘を飲み込み、軌道の上で凍った。運転手は帽子のつばを指でつまみ、前方に張られた木馬と鉄条網を見つめている。車内にたまっていた暖気が一度に吐き出され、朝の白い息と混じり合った。
私は窓に額を寄せ、検問の札を読み取る。字は濃いのに、意味が薄い。誰のための停止で、誰のための通行なのか、書いた本人も分かっていない顔だ。革の鞄の底からくたびれた記者証を抜き、端を裂く。顔が二つに割れた。合わせ直して折りたたみ、ポケットに押し込む。名乗れば通れる時代は昨日の夕方で終わった。
検問札の下に小さな掲示が増えていた。〈携行品は卓上へ/質問は三問以内/答えは短く〉。短い答えは覚えられる。覚えられるものだけが、あとで争いになる。私は鞄の口を狭くし、紙と鉛筆だけを上に置いた。
ストラップが肩に貼りつく。今日はまだシャッターを切っていない。
降車のベルは鳴らず、人影は雪のように静かに歩き出す。私もついて下り、線路の砂利を踏んだ。靴底に小さな石がはまり、歩くたびに異音が鳴る。その音まで誰かに数えられている気がして、靴をいったん脱いで石を取り除いた。足指に触れる金属の冷たさ。朝は、いつもより正直だ。
広場の角に、黒パン配給の列が延びている。最後尾に並ぶと、前の老女が振り返った。細い肩、羊毛のショールに粉が降りている。彼女は袋の口を開け、崩れた端切れを私の手に載せた。
「あなた、朝ご飯は?」
「いま、もらえたところ」
私は嘘をついた。端切れは硬く、でも温かかった。歯で割ると粉の香りが立つ。匂いを覚えておく。配給の粉は、どの倉から来たのか。匂いの相は、言葉より鈍らない。
列の壁に紙が一枚貼られる。〈本日の粉:倉庫B-3〉。倉庫番号は嘘をつかない。番号は倉の温度と鍵の数を連れてくる。私は〈B-3=やや粗〉と小さく記す。
列の途中で、小競り合いが起きた。順番を飛ばした青年に、兵の手が伸びる。言い争いの音程が上がり、群衆の胸の高さを風が渡る。金属の蓋が開き、噴き出したのは薄黄の霧だった。目が痛むほどではない、しかし喉の奥に酸のささくれが刺さる。涙は出ない。鼻腔の奥に、レモンの皮を焦がしたような匂いが残る。私はそれをメモ帳に書く。〈催涙。薄い。旧式〉
霧が抜けると、広報車が広場の縁を回り込んだ。スピーカーの口が、魚のように開いたり閉じたりする。文句はいつも通り、単語だけが新しい。「安全」「保護」「協力」。言葉は丁寧で、命令口調の角をきれいに落としている。角が落ちたぶん、刺さる面積が広がっていた。隣の少年が紙袋を抱きしめたまま、口だけ動かして同じ言葉を繰り返す。声は出ていない。音のない復唱は、祈りに似ている。
正午の少し前、空の色が変わった。太陽を覆うほどではないが、影の輪郭がわずかに揺れる。見上げると、幅広の翼が一枚、係留索に揺られ、動いているのに動かない。監視機は街全体を横切る一本の線で、線であることを誇示していた。通り過ぎるあいだ、広場のざわめきは薄くなり、戻ると少し低く沈んだ。
鳩が二棟分の屋根を渡って、影が一枚分だけ遅れて動いた。時計台の針が一分ほど止まり、また進む。止まった一分は、誰のものでもない。私はそれを〈貸出中〉と書いておく。
私は救護所へ回った。バス会社の待合室を借りた即席の場所だ。長椅子の背もたれに包帯が吊るされ、熱湯の入ったポットが小さく鳴る。紙コップの表面に水滴が輪を描く。そこに鉛筆を立て、芯の先を指で探る。折れていた。ナイフの刃を寝かせ、削り直す。尖った先端を見て安心する自分に驚く。武器ではない。これは測量に使う針だ。街の深さを測るための。
救護所の隅で、パンの端切れをまた半分にした。午前中の霧の匂いがまだ鼻腔に残っている。そこにポットの湯気が混じる。湯気は甘く、霧は苦い。甘さが勝つ時、街は続く。苦さが勝つ時、街は止まる——そんな勘定をしながら、私は壁に視線を移した。掲示板用のベニヤ板。ポスターを剝がした跡がまだ新しい。ここだ、と分かる。
「壁新聞をやるよ」
白衣の若い女が顔を上げた。袖口に鉛筆の粉がついている。「ハンナ、糊あるよ」
「誰に頼まれて?」
「誰にも。見たことを書いて、見た人に渡すだけ」
「読む人はいる?」
「読む人は、いつも足りない。だから、足りないぶんは貼る」
彼女は笑い、糊の入った鉢を差し出す。私は頷き、掲示板の寸法を目で測る。見出し用に太い線、本文用に細い線。字は、よく見えるが邪魔をしない大きさで。
版面のきまりを決める。左肩に見出し、右肩に日付。中段は〈水/食/通行〉の三項目、下段に小さな依頼欄。温度計のように同じ順で積むと、読み手の脈が落ち着く。
夕方、最初の銃声が来た。遠い。けれど、街の骨に響く。救護所の入り口に人が集まり、誰かが靴を脱ぎ捨て、誰かが名を呼んだ。名は返ってこない。私は鉛筆を握り直す。指に汗がにじみ、芯が少し滑った。〈初発。距離あり。単発〉と書く。単語は冷たい。冷たい言葉しか、熱を長く持たない。
日が沈むと、路面電車の架線が薄く光り、空の端に帯状の暗さが増える。監視機は音を潜め、代わってタイヤの太い車が街角を曲がる。広報車だ。音量は少し下がり、文句は同じ。私は耳を塞がず、聞こえたことをそのまま置く。後で拾い上げるために。
夜半、救護所の外で、男たちが囁いた。「72時間」。言葉はすぐほどけて、また結ばれる。誰が言い始めたのか分からない。根のない噂は、根のある樹の影に住む。私は鉛筆を紙から離し、窓の外を見た。広場の片隅で、老女がベンチに腰を下ろし、袋から最後の端切れを取り出している。彼女はそれを二度、三度と指で撫で、四等分してから、隣の見知らぬ二人に渡した。人が分け合う光景は、広報車より大きな声を持つ。
私はベニヤ板の上に、見出しを書いた。〈街の温度〉。その下に、小さく付け加える。〈一日目〉。紙を貼るたび、糊の水が手のひらに張りつく。指紋が一瞬だけ浮かび、すぐ消えた。消えるものは、書けば残る。残すために、私は今夜も起きている。
読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。
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次回:二日目/“導線”の先、最初の検閲(明日 19時半頃 JST 公開予定)。
それでは、またベルリンの「二日目」で。