マスカット警戒線(The Watchline of Muscat) #08-4
夜明け。掲示と番号、青灯と白線――“紙と印”で救援と臨検を接続します。
線は拒むためでなく、誰もが歩ける幅を残すために引く。
次の嵐の名は「龍門」。港は先に影を用意します。
【場所:オマーン・マトラ港 時間:1961-06-22 03:10 UTC】
夜明けの少し前、港は紙のように薄くなる。音も匂いも輪郭だけを残し、指で破けそうだ。私は電源を1段上げ、青灯を1つ畳んだ。掲示板の白紙はまだ冷たく、ペン先はよく滑る。
〈本日:番号100開始。粉乳=2缶上限/保健札優先。水列=左、油列=右。青灯の下を歩くこと〉。
最後に小さく、〈龍門 続報待ち〉と添えた。遠い2文字は、港の朝を少し固くする。
第1声は鳥ではなく、配電盤だった。金属が短く唸り、氷室の圧縮機が仕事を思い出す。
少年たちが青い布を巻き取り、影の位置を朝の角度に合わせて張り直す。影は列を落ち着かせる。朝は影が足りないから、先に用意しておく。
日が上がると同時に、白い靴の男が現れた。今度は靴に塩の粉がなじんでいる。
「番号だ」と彼は笑って言った。「朝の空気のうちに取る」
「100から」と私は札の束を差し出す。「影の長いあいだに並ぶのが港の流儀」
彼は101を受け取り、掌で2度弾いた。「今日は買い占めじゃない。家のほうも腹が減る」
列が整いはじめたとき、湾口から低い警笛が届いた。昨夜の影――新しい板の匂いの船だ。仮繋留を解き、白線の外で潮を待っているはずが、舫いを引いて1歩、港に寄る。
「係留は終了」と私は合図の旗を上げる。「臨検は外で」
舷側から声。「救援物資がある。港内に置くだけ」
救援という言葉は、座礁と同じくらい、強い。だが器がなければ、強い水は足元を崩す。
「紙を」と私は言う。「目録、送り状、発地の印。器に入っている救援だけが救援です」
やがて、薄い鞄から折り目の甘い紙が出た。文字は急いでいる。印は濃いが、日付が合わない。
「外で臨検、港で受領。順番を変えない」
私は白線の手前に机を置き、板を渡す。板は橋だが、線は線のままにする。
「2番桟橋は空けてあります」と私は続ける。「臨検済みの証書と一緒に戻れば、港は速い」
船は唸り、舫いを少し緩めた。潮が返る時刻を紙の端で確かめる。数字は味方だ。
白い靴の男が肩で笑い、「救援も順番待ちか」と呟く。
「順番を待てる救援が、いちばん長く続く」と私は答える。
彼は頷き、列の末尾に指で小さな影を作った。待つ人の背中が、少しだけ楽になる。
市場側から小走りの足音。ジャラールが掲示板を叩かず、指でそっと示す。〈短波:北の海、名の反復〉。
「龍門?」
彼は頷いた。「さっきより濃い。座標や艦の名は出ない。ただ、線の話をする声が多い」
そのとき、列の中程で声が跳ねた。水列と油列が交錯したのだ。紙札の番号の前で、肩が触れ、言葉が角を持つ。
鐘を1度、笛を2度。私は影を1枚、白線の中央に落とす。影は緩衝材。息が入る隙を作る。
「番号を見せて」と私は言う。「水は左、油は右。子どもと年寄りは青灯の下」
白い靴の男が、黙って手を上げた。101の札を人差し指で掲げ、見本のようにゆっくり動く。列が真似をする。真似は早い。怒りより早い。
朝の光が強くなり、氷室の扉の金具が熱を持ち始めた。私は巡回票の温度欄に小さな丸を足す。
「ファティマ」魚屋が顔を出す。「今日は持ちがいい。順番が効いた」
「順番は氷の味方」と私は笑う。
外洋から信号。英艦の灯が短く2度。アルディス灯で〈臨検線維持〉。
「港は港を続ける」と私は掲示板の上から言い、紙の角をもう1度撫でた。紙は小舟。言葉を乗せ、波に負けないようにする。
午前の終わり、仮繋留の船が外へ引かれていく。昨夜の2人が舷側に立ち、こちらを見ている。
白い靴の男が小さく手を振った。
「臨検のあとで」と私は口の形だけで返す。声は要らない。順番のある言葉は、音量を必要としない。
配給の最後の札が紙束から離れたとき、港の空気が少し軽くなった。私は青灯を半分畳み、日陰の位置を午後用にずらす。
掲示板の端に、もう1枚の紙を足す。〈港内ラジオ:周波数3。正時に短報〉。噂は水で固める。器を増やして、こぼれる場所を減らす。
ジャラールが耳を叩き、こちらに2歩、早く寄る。
「東の風が強くなる。砂が来る前に、洗濯物を中へ」
「放送に入れて」と私は言う。「それと、龍門は?」
彼は息を整えた。「名だけが濃くなる。名だけが、線みたいに太る」
午後の最初の船が、臨検を終えて戻ってきた。紙は整っている。印は濃く、日付は今日。
「救援は受領、倉庫は2番。魚屋を先に、病院を次に。子どもの家は3番目」
板の橋を渡りながら、私は順番を唱える。唱えると、港の骨が鳴って、よく通る。
荷が落ち、影が移り、列が短くなる。少年たちが青い布を畳みながら競争して、布の端で笑う。
白い靴の男が帰り際、掲示板に目をやった。
「龍門」と彼は言った。「港の紙にも、遠い名が書かれる」
「遠い名は近い順番を変える」と私は答える。「だから、先に影を用意する」
夕刻、港はもう1度、薄くなる。灯火制限の合図が鳴り、青灯が戻る。
私は最後の紙に、細い字で1行書き足した。〈龍門 前夜〉。
掲示の末尾に、さらに1行だけ加える。《龍門:出港針路030°以東は要通告》。紙は小舟だ。遠い名を載せ、次へ渡す――板で刻んだ規律は、遠い盾を三層にする。
読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。
#08は「撃たずに保つ秩序」を軸に、港の呼吸=手順で外洋の圧に向き合いました。番号札・掲示・青灯――“紙と印”が盾になる運用です。
表記(時刻=UTC、方位=3桁+°、距離=nm)や用語(アルディス灯=手信号ランプ、タグ=タグボート)で気づきがあればコメントでぜひ。
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#09は沖縄に場所が移ります。次回は大規模な海戦になる予定。私もChatGPTも面白くなるように頑張っています。
次回更新は、明後日 9/18 00:00 頃(JST)に公開予定。




