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マスカット警戒線(The Watchline of Muscat) #08-3

深夜のマトラ港に「座礁」を名乗る影。

怒号ではなく手順――青灯・タグ(=タグボート)・掲示板で“救い方”を選びます。

線は拒むためでなく、誰もが歩ける幅を残すために引く。そんな一話です。

【場所:オマーン・マトラ港 時間:1961-06-22 01:40 UTC】

 夜が深まるほど、港は小さく賢くなる。大きな声は壁にぶつかり、跳ね返って誰かの背を押してしまうから、囁きで十分なことだけが残る。

 私は掲示板の下で記帳簿を膝に、最後のはしけが戻るのを待っていた。青灯の輪の中で、ジャラールが指で3つ数え、親指で海の方を指す。〈30分で戻る〉の合図だ。


 そのとき、湾口の奥、黒に溶けかけた影が1つ、白線の外側に寄ってきた。灯火は落としているが、舷側の板が新しい。匂いでわかる。木の若い匂いは、潮より手前で鼻に届く。

 「係留は今夜は締め切りです」私は影に向けて言った。「明朝、日の出から順番に」

 長い間があって、渋紙を揉むような声が返る。「機関が悪い。入れないと座礁する」

 よくある前置きだ。座礁は魔法の言葉。誰も無視できない。


 鐘を打ち、タグを呼ぶ。少年たちが布に手をかけ、青い輪がもう1つ、静かに息をするみたいに増えた。タグの老いぼれが咳払いのように黒煙を吐き、そろそろと影に近づく。舷を擦らないよう、白いフェンダーを2つ追加する。


 近づけば、もっと匂いが混ざる。油の質、帆布の粉、縄の脂。私は鼻の奥で数字に置き換える。古い港で覚えたやり方だ。

 影は「座礁」を名乗った。タグを出す。青灯を増やす。結びは粗い。仮繋留は2時間、潮が返れば離す。「救援」は臨検の器に入れて戻せ――港は順番で動く。


 桟橋の陰から、白い靴の男がひょいと顔を出した。今度は白い靴に薄い塩の粉が浮いている。

 「偽装だな」と男は声を落とした。「中身は砂か、あるいは噂」

 「どちらにせよ、器が要る」と私は言った。「砂は袋に。噂は紙に」


 臨時の記録用紙を広げる。船名、理由、時間、責任の名――線を引き、欄を埋める。

 影の上から、2人の男が縄梯子を伝って降りてきた。黄帽ではない。帽子は持たない。持ち物は薄い鞄だけ。

 「保税倉庫を見たい」と片方が言う。

 「保税は明朝。夜は港湾庁の鍵。今は港の物資が先――冷蔵、粉乳、灯油。順番は崩れない」


 男は笑顔を作る。夜の笑顔は、光が足りないぶん、歯の白さだけが浮く。

 「では、せめて冷蔵庫の温度を」

 「温度は巡回票にある。横ばい。扉は閉じている。」


 遠く、沖の方で短い光が3度。だが、港の耳はもう驚かない。記入→係留→離岸――紙の手順が骨になる。

 タグが戻り、舷梯を上げる。仮の係留は終わり、影は白線の外で潮を待つ。


 港に夜の底ができた。人影は薄く、仕事は細く残る。掲示板にもう1枚、紙を足す。〈夜間の仮繋留:記入→係留→離岸〉。矢印は3つ。

 やがて影の2人は諦めて戻り、縄梯子を上がって闇に消えた。船体の板がわずかに軋む音だけが残る。

 「ファティマ」ジャラールが紙束を抱えて走ってくる。「漂流物の報告。湾口の北」

 「機雷?」

「木の根だ。けれど、噂としては十分」


 私は放送を最小の音で入れる。〈漂流物あり。見かけても触らない。笛1・鐘2で避け、青灯の下で待つ〉。言葉は水。噂は砂。もう1度、器に流し込む。

 「英艦から信号」ジャラールが続ける。「アルディス灯で『確認した、問題なし。臨検線維持』」

 私は海に向かって手を上げた。夜の礼儀として、それ以上の光は求めない。


 青灯が2つ、風でふくらみ、しぼむ。私は掲示板の端に、小さく日の出の時刻を書いた。

 白い靴の男が帰り際、こちらを振り返った。「明日の番号は?」

 「100から。昨日の終わりが99」

 「始まりは明るく、だな」

 「影も長く」と私は言った。「待つ人が、気を変えないように」


 やがて港は、ほんとうの静かさに近づく。氷室の唸りと、湾外のうねり。紙の角が重なり合う乾いた音。

 私は帳面を閉じ、指先の粉乳の白を払う。夜の匂いは、砂と塩と、ほんの少しの甘さ。

 短波がまた砂を撫で、遠い海の名が、今度はゆっくりと沈むように届く。龍門。

 私は紙の余白に2度、その字を書き、濃さを揃える。字は線。線は器。器の底で、まだ形のない嵐が、じっとしている。


 明け方の少し手前、丘の影が1段階薄くなる。港の鳥が、1声だけ試す。

 私は電源を1段上げ、青灯を1つ消す。

 朝が来れば、新しい列、新しい番号、新しい影の作り方。変わらないのは、線の意味だ。線は誰かを拒むためではなく、誰もが歩ける幅を残すために引く。

 それを港は、毎日、思い出す。


読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。

今回は「座礁」の口実に対し、仮繋留と“器”で受ける実務を芯に据えました。

タグ=タグボート、アルディス灯(手信号用ランプ)など用語の補足や、時刻=UTC・距離/速度の表記気づきがあればコメントでぜひ。

面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)で応援を。

次回は夜明け――番号100の朝と、白い靴の男の“馴染み方”。

更新は、明日 12:00 頃(JST)に公開予定。

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