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マスカット警戒線(The Watchline of Muscat) #08-2

夜半のマトラ港は、声より「手順」がものを言います。

青灯・白線・番号札――“紙と印”で混乱を砕き、30nm外の示威を横目に港を回す一話。

遠い名「龍門」が、紙の舟でこちらへ寄ってきます。

【場所:オマーン・マトラ港 時間:1961-06-21 22:10 UTC】



 夜の港は、耳と匂いだけで動く生き物だ。私は無線室の戸口によりかかり、ジャラールの指がダイヤルを行き来するのを見ていた。雑音の波の向こうで、言葉が拾い上げを待っている。


「港内一斉放送、入れる?」

「入れます。周波数は3。音量は半分」

「じゃあ、合図のあとで」


 鐘を1度、笛を2度。港の空気がそちらに引かれ、ざわめきがひと呼吸ぶん止まる。私は短く話した。配給の順番、水と油の列の分離、青灯の下で動けば安全だということ。噂は砂、言葉は水。水で固めれば、足は沈まない。


 放送が終わると、港の奥の陰から数人の男が現れた。白い服に新しい帯、靴は泥の色をしていない。

 「責任者は?」

 「ここです」と私は答える。

 男はうなずき、声の角度を慎重に選ぶみたいに口を開いた。「外の値が上がる。次便から粉乳は3倍だ。いまのうちに枠を抑えたい。現金はある」


 桟橋の木が、わずかに鳴った。聞いている耳が増える音だ。私は男の靴先を見た。新しい革は、港の塩でまだ白く粉を吹いていない。

 「枠は番号札で決まります」と私は言った。「番号札は朝いちで配る。今日の分は、今日の番号の人に渡す」


 男は肩をすくめ、周りに聞かせるように息を漏らした。「順番もいいけどね、戦争っていうのはね、待ってくれない」

 言い方が上手い。角度のある声。列の端で、誰かが小さく頷いた。

 私は倉庫の扉を半分開け、懐中電灯で棚の札を照らす。受け入れ、出庫、残数――欄に打ち、印を置く。

 「見えますか。今日の残りはこれだけ。明日の入港予定は、ここ。臨検があっても、3日ぶんは出せる」


 男の視線が、光の輪を何度か撫でた。買い占めるには、数字が邪魔をする。数字は器だ。器の縁を越えて、言葉はあふれにくくなる。

 彼は笑って、拍子木のように掌を鳴らした。「商売の提案だよ。怒らないでくれ」

 「怒っていません」と私は言った。「でも、番号は曲げない」


 彼らが影に消えると、港はまた耳に戻った。遠く、沖の黒い向こうで、2度、光が走る。高い空気を切る音は来ない。示威の空砲だ。沿岸のボートが、線の外側で自分の居場所を示している。

 「撃ってる!」と誰かが叫び、波紋のように声が広がる。

 笛を1度、鐘を2度。避難ではなく、作業一時停止の合図。青灯の下に人を集め、桟橋の先に空間をつくる。空間は緩衝材だ。ぶつかる前に、息を吸える。


 沿岸警備のカッターが1隻、遅れて帰ってきた。うねりが高く、舷が古い防舷材を叩く音が骨に響く。

 「遅くなった!」船首に立つ若い隊員が叫ぶ。「外は騒がしい。青灯をもう1列」

 私は頷き、少年たちに布を配る。青い布は海の闇に馴染む。光は漏れ、導線だけを描く。


 「お母さんがいない」と少女が私の袖を引いた。手には粉乳の番号札。紙の端が汗でふやけている。

 「番号、見せて」

 「713」

 私は紙に穴を開け、少女の手に戻す。「700番台の人は、この白線の内側。お母さんはすぐ見つかる。白い扉の前で待っていよう」


 探すのはジャラールが早い。彼は放送用のマイクを切り、港の影を縫うように走る。ほどなくして、少女よりも小さな弟の手を引いた母親を連れて戻ってきた。

 「ありがとう」母親の声は砂糖水みたいに薄いが、甘い。

 「順番は守れましたね」と私は言う。少女は胸を張った。紙札の穴が、月の欠けたみたいに小さく光る。


 沖の闇は、相変わらず音を見せない。光は2度で止まり、誰も近づいてこない。示威は、示威で終わるほうがいい。

 私は臨検官の黄帽に向けて腕を上げた。はしけが滑る。タグの泡が静かに広がり、薄くちぎれて消える。

 「30nmの外です」とジャラールが息を整えながら言った。「英語もアラビア語も、そう言ってた」

 「じゃあ、港は港を続けよう」


 夜半、風向きが変わった。丘の上から、乾いた砂の匂いが降りてくる。倉庫の扉をもう1段閉め、鍵を2つ掛ける。氷室の圧縮機はまだ唸っている。氷は半分、でも半分は残った。

 「明日の紙、書く?」とジャラール。

 「いま書く」

 私は掲示板の白紙の端に、細い字で並べた。配給の時刻、番号の開始、列の分け方。港内ラジオの周波数。鐘1・笛2=動く/笛1・鐘2=止まる。

 最後に、空いた1行に小さく書く。〈龍門の件、続報待ち〉。遠い海の名は、港の紙に置くと急に現実を帯びる。紙は小舟だ。遠い言葉をのせて、波打ち際まで連れてきてくれる。


 終電みたいな時間に、白い靴の男がもう1度来た。今度は1人だ。

 「数字は便利だな」と彼は掲示板を眺めて言った。「数字は怒られない。誰の味方でもない顔をしている」

 「数字は港の味方です」と私は答えた。「港は順番でできているから」

彼は口の端を上げ、肩をすくめた。「じゃあ、明日また来るよ。番号を取りに」

 「朝から並ぶといい。影を長くしておく」


 彼は笑って、今度は拍子木を打たなかった。足音は石畳にやさしく、港に馴染もうとしている。

 私は電源を1度、落とす。港の音はさらに薄くなり、遠くの波だけが残る。

 海は、黙って境界を引き直す。引き直された線の上を、私たちは明日も歩く。


 短波が小さく鳴り、砂に書いた文字のような声がまた現れた。

 龍門――さっきよりはっきり。吹き寄せられたみたいに、耳の浅瀬に転がってくる。

私はペン先で、その2文字をもう1度なぞる。線の外の嵐は、やがてこちらの影にも形を与える。影は、先に用意しておくものだ。


読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。

今回は、示威の“音なき圧”に対し「順番」で受け流す実務を核にしました。

タグ(=タグボート)や青灯(遮光布ランプ)など用語の補足・表記の気づき(時刻=UTC、距離=nm)があればコメントでぜひ。

面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)が次話 #08-3 の密度アップの燃料になります。

次回は“救援”と“座礁”が開ける抜け道へ。更新は、明日 12:00 頃(JST)に公開予定。

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