マスカット警戒線(The Watchline of Muscat) #08-1
オマーン・マトラ港の一日。
配給と臨検が交錯する港を、怒号ではなく「順番」で回すファティマの視点から描きます。
青い灯と白い線、その外にある約束――“線”の物語です。
【場所:オマーン・マトラ港 時間:1961-06-21 13:30 UTC】
粉乳の列と、灯油の列が、白い石灰の線を挟んで向き合っていた。6月の港は、鍋の底のように熱い。マトラの丘の石壁が昼の火をためこんで、夕方になっても冷める気配がない。
私は列の端を歩き、番号札の束を片手で扇ぎながら、もう片方の手で声を張った。
「粉乳は2缶まで。赤ちゃんのいる家は保健札を見せて。灯油の列は向こう、白い線を越えないで」
声を荒げると、言葉はすぐに角を持つ。だから深く吸って、丸く吐く。港の仕事は、息の形で決まる。
掲示板の新しい紙は、まだ糊が乾いていない。〈本日より配給時刻を再編します〉。紙の端から風が入り込み、はためくたびに列がざわついた。買い占めの噂は、市場の天幕を通り抜け、石畳の隙間まで満たしていく。噂は水みたいだ。器がなければ、足元までこぼれる。
氷室の男が駆けてきた。「ファティマ、圧縮機が駄目だ。止めなきゃ溶ける」。
私は頷いて、倉庫鍵の束を渡す。「扉を半分だけ開けて、氷は小割りに。行列に配って、魚屋から先にね。腐らせると喧嘩になるから」
鐘が鳴った。薄い真鍮の音。灯火制限の訓練を知らせる合図だ。影が伸びはじめ、港の灯りが1つ、また1つ、青い布で覆われていく。海は視力を失ったみたいに平たくなり、代わりに匂いが濃くなる。燻した縄、古い油、練乳の甘さ、汗。私の世界は、鼻孔と耳朶でできている。
「青灯、点け方が違う」。桟橋で少年が背伸びして、ランプに布を掛け直した。布の隙間から漏れる楕円の光が、白線の上に素直に落ちる。
「よくできました」。言うと、少年は胸を張った。靴の踵が石畳を叩く音が、港の脈拍みたいに規則正しく響く。
短波がざらついて、英語とアラビア語の声が交互に流れた。〈外洋30nmに臨検線〉。私はメモの端に「30nm」と書き、丸で囲む。丸は器だ。器があれば、水はこぼれない。
「ファティマさん」。臨検官が4人、黄色い帽子を手にして立っていた。暑さに顔が緩んでいるが、目は固い。
「黄帽は、控えの倉庫で水を飲んでから。はしけは2番桟橋、タグがつくのは20分後。鐘は1度・笛は2度で『動く』。笛1・鐘2で『止まる』。青灯は道だけを見せる。合図が出たら出ます」
言うべきことは、短く、順を追って。順番があれば、誰も押し合わない。
背中で市場のざわめきが揺れた。粉乳の列が膨らみ、白い線を越えかける。私は白線と列の間に立った。
「ここに影を作ります」。青い布を張ると、人はそこに集まる。影は人を落ち着かせる。影があれば、怒りは少し遅れてやってくる。
夕方の礼拝前、港の水甕に空が落ちた。指を浸して額に触れる。水は温い。
「ファティマ、ニュースだ」。無線室のジャラールが走ってきた。額に汗の線を3本引いている。
「どこの海?」
「北。彼らは『線』が好きだ。線の話ばかりする」
線。陸にも海にも、線はいつもある。見える線と、見えない線。港には、港の線がある。外洋30nm、臨検線。桟橋の白線、列の境界。影の縁。
私は短波を耳にあて、単語をすくう。すくったものは、器に入れる。器の底に、意味が沈殿するまで待つ。焦ると、濁る。
日が落ちる前に、小火があった。市場の天幕の端。灯油の匂いと乾いた帆布が、鋭い舌を出した。
「水の列、こっちへ」。私は白線を一時的に曲げ、消防の動線を拓く。線は道具だ。引き直せる線は、良い線だ。
桶が回り、炎が吸い込まれ、残ったのは黒い縁だけ。拍手は起きない。起きないほうが良い。日常は、拍手に向かない。
夜が来る。電源は段階的に薄くなり、港は耳だけを残す。
第1船団が動き出した。灯りは消され、青い点が3つ、ゆっくりと湾口へ歩いていく。はしけが臨検官を載せ、タグが静かな泡を曳く。
私は桟橋の先で、息を詰めた。波は見えないが、足裏でわかる。海が重くなると、古い木が低く鳴る。
「お母さん、あれはどこへ行くの?」
少女の指が、闇の中の点を追う。
「線の外へ」と、母親が答える。「線の外には、別の約束があるのよ」
約束。外の線の約束は、私には届かない。届かないものは、手を出さない。港は届く範囲を守る。
私は臨検官の黄帽が闇に吸い込まれていくのを見送った。彼らの背に貼り付いているのは、緊張ではなく、順番だった。順番がある限り、人は動ける。
戻る途中、氷室の前を通る。氷は半分、涙みたいに濡れている。私はスコップで角を1つ起こし、桶に落とした。冷たい音。
「魚屋へ先に」と言ってあったせいか、魚の列は短い。代わりに、練乳を求める母親たちの目が光っている。
「2缶まで。赤ちゃんの――」
「はい、見せます」。母親の手の中で、薄い紙が少し震えている。
夜の真ん中で、短波がぷつりと切り替わった。異国の地名が、砂に書いた文字のように消えかけながら現れる。私は音のかけらを拾って、胸のポケットに入れる。
龍門――。聞き取れたのは、その2文字だけだ。
海はひとつだ。でも、風は違う。こっちの風と、そっちの風。港の風は、今日も塩と油の匂いを運ぶ。遠い風は、たぶん鉄と雨の匂いだろう。
23時。最後の青灯が湾口で小さく瞬き、消えた。私は電源のレバーをもう1段落とし、港の音量をさらに絞る。
静けさの底で、海だけが生きている。
私は息を整え、明日の紙を思い浮かべる。新しい順番、新しい線。港は、明日のために今日を並べ直す。
「ファティマ」。ジャラールが、暗闇の廊下から囁く。「東の海で、嵐が立つそうだ」
私は頷いた。嵐の影が、壁の石目に浮かぶ。
線の外の話は、いつも遠くて、いつも近い。私は掲示板の白紙を指で撫で、そこに2文字を書く準備をする。
――龍門。
読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。
今回は「撃たずに保つ秩序」を核に、港の呼吸と“線”の使い方を追いました。
距離(nm)・時刻(UTC)・用語(青灯=遮光布ランプ)など表記の気づきがあればコメントでぜひ。
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次回は「介入者」との駆け引きへ。更新は、明日 12:00 頃(JST)に公開予定。




