プロローグ(Shadow Without Fire) 後編
#1の続き、開戦前の緊張感をそのままどうぞ。
【場所:ベルリン/監視塔】
時刻は狂う。監視は、その狂いを補正しようと加速する。監視は都市の皮膚感覚である。係留索は風で鳴り、踊り場は靴底の鉄を震わせる。薄い雨がコールタールの匂いを立ち上らせ、管制卓の緑の光が脈を打つ。戦いはまだ始まっていない。けれど、始まらないための段取りが、すでに戦場の速度で回り出している。
【場所:北海/荒天海域】
鋼鉄の甲板がうねりで軋む。照明弾が昼の代わりに開き、白い影が荒天の幕に滲む。指揮官は沈黙を選び、通信士は余計な語を削る。示すこと、引かせること、耐えること——ここでは、それが主砲より確かな刃だ。艦隊防空は層で積む。遠い円に戦闘空中哨戒、中ほどに噛み合うミサイル、甲板際では砲口が方位線を先に切り取る。外海は巨大で、誤差は小さく保たれる。
【場所:東シナ海/沿岸回廊】
護衛艦は教範の頁を現場に合わせて折り、白布で民生の回廊を縁取る。物資は市場へ、避難は学校へ、情報は秒針へ。化学剤の封緘は多重の鍵に守られ、封紙の赤は冷たい。あるのに使わない。使わないために持つ。その矛盾を、人は規律で飼い慣らす。沿岸の喫茶は遮光カーテンを下ろし、砂糖壺には測りスプーンが一本多く差される。落ち着きを保つ合図は、どこでも小さく似ている。
【場所:ホルムズ海峡/夜の桟橋】
砂が風で刃になる。銃眼の鉄は熱く、唇に塩の粉が貼り付く。小さな雑貨店には乾電池と針金と祈りが並び、停泊許可の紙が束になる。中立は軽くない。航路の譲り合いは、時に睨み合いの裏返しで、夜の桟橋では手旗の影が三つ四つ交錯する。秤の皿は揺れるが、誰かの腹が鳴る音で現実の中心が戻る。暮らしの重さだ。
【場所:造船所/乾ドック】
工廠の灯は消えない。造船台に新しい肋骨が立ち、クレーンが薄霧を切る。設計は数値で語られ、締結はトルクで記される。資材の穴は現場の手で塞がれ、安全は許容差の範囲に宿る。艦隊が海にいるかぎり、岸は沈黙で伴走する。ここで重ね書きされる語は「維持」。進撃でも撤退でもなく、線を保つための技術だ。
【場所:ベルリン/監視塔】
私は時刻の列を整える。真実は複数だ。だが、時刻は一つである。誰にも改竄できない一列。扉はまだ閉じている。蝶番は冷えたまま、均衡だけが行き来する。世界はしばしば、重要な局面ほど半歩だけ傾く。半歩の傾きに、人は名前を与える。命名は作戦になる。
呼出符号が重なり、翻訳の一拍がまた遅れる。観測員の喉が乾き、イヤホンの雑音が歯に響く。睫毛に、ふた粒めの雨が止まる。鉛筆は芯を少し繰り出し、紙の端に時刻が一つ増える。——遅れの一拍が、作戦名に姿を変える。
私は記録者の背を見守る。彼女は見たことを書くつもりだ。検閲と良心の間で息を整え、カメラのストラップを指で払う。靴紐を確かめ、雨粒を拭い、シャッターの浅い遊びを指先で覚え直す。ポケットには予備のフィルムと折り畳んだ誓約書。責任は紙の重さに似ているが、紙より少し温かい。
最初の名を記す。ハンナ。火口に最も近い者の名である。彼女はまだ知らない。次の章で、彼女が書く「見たこと」が、いくつもの針をわずかに動かすことを。私は彼女の肩越しに、時計の秒針が定刻へ戻るのを見届ける。
私はここを〈無核世界〉とだけ呼ぶ。均衡は生活で支えられ、生活は音のない会議だ。私は円卓には座らない。ただ、議事録の余白に今日の日付を記す。
お読みいただきありがとうございます。
本章のキーワードは「扉」と「時刻」。欠けた“原子の火”の代わりに、世界は手数と規律で均衡を繕う――という土台を提示しました。
設定集にてこの作品に込めた思いを同時公開中。そちらも見てね。
そして最後に……アインシュタイン博士、すみません。
次回更新は、8/18 19時半頃の予定です。