龍門前夜(Eve of Dragon Gate)#06-1
計算では止まらない夜”を、偽装と沈黙で押し切る側の作法を書きました。チャフの帯、Komarの回頭、H-Hourへ向けた微調整。今回は短めです。
【場所:台湾海峡・南部正面(鵝鑾鼻沖〜高雄沖) 時間:1961-04-18 22:10 TST】
22:10。旗艦のCICは薄暗い。緑の円が回り、油膜を吸った布が機器の隙間に押し込まれている。張建国(艦隊司令)は耳を澄ませ、航海長の劉航が雲底の報告を繰り返すのを聞いた。壁の潮汐表に、劉が指先で+1目盛を入れる。
「雲底800ftから1,200ftへ上がる傾向。薄明は04:35。H-Hourは04:40が最良です、司令。」
張は短く頷いた。紙の上の計算は美しい。しかし、計算で砲弾は止まらない。
「針路198°、二列縦陣、間隔600ydを維持。無線は以後沈黙。」
言葉は低く落ち、CICの空気に沈む。通信士が送話器を離し、誰かの喉が鳴った。
艦は南からの長いうねりに身を任せ、艦首がゆっくり上下した。通路では給養係が鹹蛋——塩卵を割る。殻は捨てず、羅針盤の蓋に薄く敷くのが夜間当直の流儀だ。微かな硫黄の匂いが油の匂いを殺し、吐き気を遠ざける。
「主任、塩卵もう一つ。」砲側員が囁く。
「喰ったら眠くなるぞ。」
「眠い方が静かに持つ。」
笑いは出ない。笑うと胸のどこかの紐がほどけるから、皆そこを固く結わえている。
22:54。張が甲板に出ると、風は湿っていた。針路198°、灯火は極小。政治委員の陳玉蘭が襟を上げる。
「張大佐、陸に近づけば人民の目がある。『遅れた』という噂はすぐ広がる。」
「遅れない。」張は短く返し、双眼鏡を外す。「遅らせないために、黙っている。」
黒い海面を滑る低い影が二つ。Komarだ。規律正しい鼓動が波間に吸い込まれていく。前路の掃海艇が細い線を曳き、錨の爪で砂を撫でるように進む。
23:05。張がCICに戻ると、ヤーコフ顧問が机上の海図を指で叩いた。
「偽編隊は何時からだ。」
「01:00の雲の底でH-5を2機、2万ftで照明弾。01:20、別のH-5がロケット式チャフでこの線——方位030°方向に帯を引きます。」と劉。「沿岸砲は照準を外し、哨戒艇は帯に引き寄せられるはず。」
ヤーコフは唇を尖らせ、うなずきも反対もしない。
「良い。帯は長く引け。短い偽りは、すぐ真実を呼ぶ。」
張は時計を見る。23:10。H-Hourまで5時間半。機帆船の列が後方で揺れる。徴用の沿岸貨物は速度が合わず、列は時折呼吸のように伸び縮みした。
「沈国強は?」
「揚陸群の通信。仮桟橋へ先行の曳船2が準備完了、とのこと。」参謀が答える。
「よし。『龍門第一門、準備』とだけ送れ。」
参謀は頷き、紙片に書いた五文字を見てから伝令を走らせた。沈黙のまま命令は艦から艦へ手で渡る。手で渡せば、手の温度が伝わる。温度は恐れより重い。
23:18。見張りが報告した。
「右舷、方位128°、距離不明。漁灯らしき瞬光。」
張は双眼鏡を上げる。光は1、2、3、間。規則がある。
「漁灯ではない。哨戒の信号だ。」
CICの空気がわずかに硬くなる。劉が透明定規で方位線を引いた。
「128°で接近なら、われの二列の間を嗅ぐつもり。」
「Komar前進。方位245°で回頭、4.5nmを限界にチャフを展開して反転。砲戦は避けろ。」
命令は短い。余計な意味を孕まない。陳が息を吐く。
「撃たないのか。」
「撃つのは目的のためだ。」張が言う。「目的は上陸だ。哨戒艇を沈めても、岸は沈まない。」
23:25。沖合でKomar隊が白い線を一瞬尾に引き、すぐ夜が薄く濁った。ロケット式チャフが空に刺さり、海面へ崩れ、微細な金属が風に散る。レーダー画面の端に偽の帯が現れる。
「偽編隊、出現。」レーダー員が言った。
張は再び時計へ目を落とした。針は04:40へ向けて進む。艦の腹を遠いうねりが叩く。手段が目的を喰う夜が、この海には多すぎる。
遠く、H-5の黒い腹が雲の底へ滲み、照明弾の撚り糸が風で震えた。光はまだ落ちない。落ちるのはもう少し先、01:00——計算どおりなら。
読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。
手段が目的を喰わないように――この回は「撃たない判断」を芯に据えました。
用語の補足や表記の気づき(角度3桁・単位・時刻)をコメントで教えてください。
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更新は明日、12:10頃(JST)に公開予定。