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西太の布陣(The Western Pacific Line)#05-2

海の“列”と病院の“導線”を重ねました。

斜めに裂いた布、床の矢印、在庫表の赤——小さな手当ての積み重ねが、朝へ届く力になります。

#05-2「白い廊下の夜」【場所:横須賀(病院) 時間:1961-03-31 19:00(JST)】



 19:00。横須賀病院。港の喧噪から離れた白い廊下に、雨の匂いだけが薄く入り込む。山田由紀は器具棚から包帯とテーピングを抱えると、処置室の明かりを一段上げた。

「打撲、甲板で滑って転倒。膝をひねっています」

「冷水で10分、圧迫は+1目盛きつめ。――動かさないで」

 指は止まらない。紙コップの湯を渡すと、湯気が上がり、匂いがわずかに緩む。窓の外では、港の影が雨に滲んでいた。


 20:20。物品庫。由紀は棚を見上げ、在庫表に赤鉛筆を入れる。ガーゼ、包帯、消毒綿――数字は“列を太く”したいのに、細るばかりだ。

「包帯が足りない」

 自分に言い聞かせるように口にして、彼女はハサミを取った。

「ガーゼを――斜めに裂けば帯になる」

 布が音を立てて割れ、白い三角がいくつも生まれる。斜めの裂け目は強い。斜角は盾になる。彼女は角を整え、束ねた。


 21:05。産科の前で、若い母親が毛布を抱えて立っている。

「明かり、少しまぶしいですか」

「いえ……ここなら起きていても叱られないから」

 由紀は頷き、毛布の端を折り返す。紙片に名前を書き、白い矢印の先――非常口へ続く目印に、同じ字で“小”と添えた。小さい歩幅で、と自分に言うように。


 22:00。配膳室。湯気の立つスープが並び、食器に雨の音が柔らかく響く。炊事の女性が言った。

「夜勤は甘いものがいるよ」

「ありがとう。——06:00まで、長いけれど」

 由紀は角砂糖をポケットに滑らせ、処置に戻る。


 22:40。物品庫。包帯の束がさらに減る。

「三角巾、あと二束。伸縮包帯は半束」

 彼女はもう一度、布を斜めに裂いた。斜角の帯は、思ったより扱いやすい。指先に力が戻る。


 23:10。夜間搬送の打ち合わせ室。壁の時計が湿気で曇り、秒針の音が太く聞こえる。若い下士官が帽子を握りしめ、言葉を探した。

「妹が……那覇で」

「06:00までに、ここを空にします」

 由紀は自分にも聞こえるように言った。宣言は誓いに変わる。紙札に赤鉛筆で“搬”と書き、端をホチキスで留める。紙の角は、鋭いほど頼もしい。


 23:50。救急ベッド横。甲板で滑った水兵の膝を、冷却パックで冷やし、包帯で固定する。

「冷たすぎたら言って」

「大丈夫っす……船も、すぐ出るんで」

 笑いのあとに、短い沈黙が落ちる。沈黙の重さは、彼女の手のひらの温度で量れる気がした。


 翌00:30。薄暗い廊下を、台車が静かに滑る。由紀は白い矢印のテープをもう一度なぞり、はがれかけた角を指で押さえた。矢印は、掃海の白線みたいだ、とふと思う。海の線は船を守り、廊下の線は人を導く。どちらも、夜に描かれる線だ。


 01:05。倉庫脇。補給係が木箱を降ろす。

「生食(生理食塩水)と消毒、あと輸血瓶が少し」

「ありがとう。こっちは包帯を自作中」

 由紀は笑って見せる。補給係も笑う。笑い方には種類があり、いまのは“帰ってきてほしい笑い”だと分かる。


 02:10。暗いエレベーターホール。母子搬送のルートを、由紀はもう一度ひとりで辿る。ストレッチャーの脚の折り畳みは指先で確かめ、扉の噛み合わせは膝で押して調べる。体温計のトレーを“列を太く”並べ替え、取り落としを防ぐ。

 壁の掲示板には、古い避難図が色褪せて貼られている。曲がり角の記号が窓に見えた。ここを曲がれば、外に出る。ここを抜ければ、朝に出る。窓は、ここにもある。


 02:55。階段室。外靴の人間が泥を運び込んでしまうのを防ぐため、彼女は古い床マットを斜めに敷き直した。斜角は、やっぱり盾になる。足音は鈍くなり、転倒の危険が減る。


 03:20。仮眠室の前で、若い看護助手が目をこする。

「あと、どのくらいですか」

「もうすぐ。——04:30には指示が来る。その前に一口、何か入れて」

 由紀は角砂糖を分け、紙コップの湯に落とした。甘さは、弱さではない。続けるための燃料だ。


 04:10。廊下の端の観音扉がわずかに鳴り、雨音が一瞬だけ強くなる。由紀は窓辺に歩み、袖口で曇ったガラスを拭った。沖に、黒い列が見える。斜めを向いた盾の列。

「06:00までは、泣かない」

 小さな声で決める。決めることは、守ることの半分だ。彼女は最後のテープ端を押さえ、深く息をした。朝は、すでに病院の内側から始まっている。


読了ありがとうございます。幻彗(gensui)です。

撃つ前に待つ準備を、病院側の作法で描きました。

感想欄では「現場の手触り/比喩の効き」「表記ゆれ(時刻・単位)」の気づきを頂けると助かります。

面白ければブクマ&評価(☆☆☆☆☆)が次回「出港と前進サイト対処」の密度を上げる燃料になります。次回、列は海へ、矢印は朝へ。

更新は明日13:00頃(JST)に公開予定。

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