那覇の小さな手(Little Hands) #04-前編
1960年・那覇港、配給と避難が交錯する岸壁で“列を太く”保つため、番号札と白線、そして小さな手で動線を束ねます。
【場所:那覇港・壺屋 時間:1960-07-15 10:30 JST】
港の笛は朝より鋭い。昼に近づくほど短く尖る。仲村美佐子は軍手を片方だけはめ、もう片方はポケットに押し込み、白線の内側を走った。片手に持った紙コップの水が、音も立てずに揺れる。荷役の動線と民間の動線が交錯し、怒号と合図の笛が1度に鳴る。白線を越える足が、列を乱す。
「荷役は右。民は白線の左。列は2列、太く保て!」
声が港の鉄に跳ね返って耳へ戻る。列の熱が手に移る。焦りは温度になる。彼女は白線の外に飛び出した乳母車を両手で持ち上げ、列の内側へ戻した。持ち主の若い母親は「すみません」を3回続けて言ってから、乳母車の幌を強く握りしめる。幌に落ちた塩の粉が、指の跡で小さな筋になった。
揚陸艦(LST)のランプが下り、鉄の舌が波気を舐める。トラックが1台ずつ、慎重に腹から生まれるみたいに下りてくる。泥が板を伝って落ちる。荷台の幌の影から、小さな手が1度だけ伸びて、すぐに引っ込んだ。誰の手かまでは見えない。
東江は汗で湿った白い腕章を直しながら、マイクなしで告げる。
「配給所は壺屋の道路側に。水と握り飯、先着1人ずつです」
声はまっすぐではなく、空気の中で何度か折れ曲がるが、折れた角がかえって記憶に刺さった。
11時過ぎ、配給所の列が2重螺旋みたいに絡みはじめた。白線の上に立つと、列の濃淡が見える。濃いところは息が詰まり、薄いところは不安げに揺れている。美佐子は薄いところに立って肩で風を塞ぎ、濃いところへは声を投げた。
「番号札、いまからこの板に書くから、順番は板の数字で。重ね取りは手に鉛筆で印をつけます」
彼女は段ボールに大きく「1」と書き、次に「2」を書いた。鉛筆の芯が汗で柔らかくなる。東江がうなずく。
「それで行きましょう。手の甲に1本線——配給済です」
列の前で年配の男が、腕を高く振って割り込もうとした。ダボシャツの胸に「軍属」と古い文字が見える。MPの2人が目を合わせる。乱暴に押し返す代わりに、東江は板を男に渡した。
「あなたが『30』を書いて。きれいに、大きく。あなたの字で列が進む」
板には今、29までが並んでいる。ここに書かれた数字が配給の順番を示し、手の甲の線と合わせて受領の証拠になる。書くという行為が“順番を与える”ことにもなるため、当人に任せれば無用な衝突を避けられるのだ。
男は戸惑い、黙って数字を書いた。線がふるえたが、十分に読める。列の前方で、ため息が1つ、笑いに変わった。
名札を作る机は、折れた脚を縄で結わえて使っている。迷子の札は、紐が表情を持つ。固く結べば首を締め、緩く結べば落ちる。結び目に性格が出る。美佐子は紐の先に人差し指を添えて引き、力がほどける手の感触を確かめた。
少年は人だかりの隙間で、誰かの手を探すみたいに背伸びした。
「お名前は?」
少年は首を小さく横に振った。目は、列の向こう側——たぶん、手を探している。彼の視線の高さに合わせてしゃがむと、潮と泥の匂いが近くなる。
「じゃあ、仮の札ね。きょうは『手』って書く。ずっと手を探していたから」
段ボールに「手」と大きく書き、紐を通す。彼は自分の胸の文字を見つめ、指先を握り、開いた。握る=待つ。開く=探す。きっと彼の中ではそういう辞書ができている。
壺屋から借りた大きな水瓶が、軽トラの荷台で互いに小さく鳴り合う。昼に近づくほど、水の味は塩気を帯び、握り飯の海苔は柔らかくなる。壺屋の通りは土の匂いがして、細い路地に釉薬の光が残る。欠けた壺を指で撫でる陶工は、欠けを確かめてから頷いた。
「欠けてても水は入るさあ。使えるさあ」
相槌が土の上に置かれ、音ではなく手のひらに落ちる。陶工の孫が、空の壺の底を叩いて「ぽん」と鳴らし、笑った。美佐子も笑って、壺の耳を持ち上げた。耳、という言葉が水瓶にあるのは、昔から人が水の声を聞こうとしたからだ。
13時ちょうど、空襲警報。港全体が1度だけ固まり、影が1つ、港の外を通り過ぎる。音の芯は来ない。風だけが硬くなる。子どもは音が来ないことに怯える。音があれば泣く理由が1つ増える。音がなければ、理由は目の前の大人の顔に移る。
「こっちへ。屋根の下で、数を数えよう」
小学校教員の新垣翔が、子どもたちを庇いながら簡易の防空教室を作る。黒板の代わりに道路標識の裏に白墨で丸を書き、丸の中に点を打つ。点を10まで打ち、次に10を2つ並べ、3つ並べる。指では足りない数を、貝殻で補う。名のない少年「手」が、貝殻を1枚ずつ並べる。彼は11を初めて言葉にした。11は、指より1つ多い音だ。
「11、12……」
「うまいさ。数は怖くないよ。数えればいつか終わる」
新垣はそう言ったが、港の外にある数は終わらない。沖の見えない方角で、何かが増えていく音がする。遠い錨鎖のこすれる金属の音かもしれないし、鳥の群れが折り返すときの風の重さかもしれない。どちらにせよ、数は大きくなる方へ流れる。
14時過ぎ、病院行きの車が不足する。衛生兵が担架の角で汗を拭い、腕の筋を固くしている。壺屋の陶工が軽トラの荷台を叩いた。
「まだ運べる。壺はこのまま、荷台の隅へ寄せて」
陶工の孫が縄をよじり、壺と担架を同じ方向に結わえる。荷が動くたびに、壺が「こつ」と短く鳴る。曲がり角で大きく揺れたとき、1つの壺の口縁が割れた。破片が日光を受け、海の方へ小さく跳ねた。誰も叱らず、誰かが拍手した。
読了ありがとうございます、幻彗(gensui)です。
今日の核は「列を太く/順番を可視化し、手で秩序を作る」。
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次回:04-後編――夕刻の那覇で“手”がつながり、影が線に変わるまで。更新は明日、19:30頃(JST)に公開予定。