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プロローグ(Shadow Without Fire) 前編

はじめまして、幻彗(gensui)です。

映画『空母いぶき』に触発され、「艦と艦が正面からぶつかる艦隊戦」を見たい――その妄想から生まれた戦記です。読みやすさ重視の短いプロローグから始めます。

感想・ブクマ、めちゃ励みになります!


 私は神である。名は無い。人が私に与える名は時代ごとに変わるから、どれも借り物だ。ただ、針と秤と記録を好む者として覚えてくれればよい。私は干渉しない。秤の傾きを記すだけだ。だが、稀に傾きの理由を知る者が必要になる。そのとき私は、名も持たぬまま、頁をめくる手を止めない。

 世界は、原子の火を知らない。火の名は薄い霧のように噂されたが、扉は最初から少しずつ閉じられていった。

 19世紀末——溶剤と紙の匂いが混じる小部屋で、研究日誌は火を吸い、数式は煤にほどけた。報告書には因果の芯が欠け、残ったのは「注意喚起」の回覧だけ。

 20世紀初め——出勤前の若い理論家は一通の手紙を握っていた。切手はまだ乾いていない。だが路面電車の金属音が通りを裂き、彼は鞄ごと消えた。手紙は投函されなかった。誰にも届かない図が、封筒の中で日の目を見ることはなかった。

 1930年代——地下室では、針が跳ねるより先に人だけが止まった。遺族の静かな怒りが研究室の鍵穴へ鉛を流し、委員会は危険物の指定を拡張し、予算は「未解決の安全性」を理由に回収された。

 こうして鍵は失われ、扉だけが残った。触れられぬまま、蝶番だけが冷えた。私はここを〈無核世界〉とだけ名づける。


 大陸の言語から、いくつかの言い回しが消えた。目に見えぬ輝きを測る語は「化学的異常」に言い換えられ、曝された痕は「不適切取扱」と簿記に飲み込まれた。教科書は余白を広げ、そこに注意と誓約を増やした。若者は危うい火の可能性ではなく、天候と輸送と衛生に厚みを与える術を先に学ぶことになる。

 抑止は別の道具に割り振られる。軍律は天候を読む学に厚みを持ち、風配図は砲術と同格になった。化学弾頭は「開けぬ函」として倉庫に眠り、その前に置かれるのは白布と赤い判である。使わずに見せ、見せて退かせる——士官学校の最初の黒板に書かれる作法だ。勝つより負けない。負けないまま、相手の計算を摩耗させる。境界は紙と印で引き直され、検査は互いの喉元を撫でて去る。

 海の現場は、もっと素朴だ。甲板の風は頬を刺し、舌に霧の冷たさが乗る。甲板員の手袋は潮で硬く、乾いた塩が布に白粉のように残る。整列、合図、発艦。曳索が鳴り、車輪が白線を越える。示すこと、引かせること、耐えること—3つの歯車が主砲塔より重い。

 港の市場では白布が回廊の合図となり、教師は避難路をチョークで描く。看護所には薬品の苦味と呼気の湿りが混じり、港務所では判が乾いた音を打つ。暮らしは重い。重いものは戦術の隙間から落ちやすい。人は手の届く刃と旗で均衡を繕う。扉は閉じたまま、均衡だけが往復する。

 もし扉が開いていれば、恐怖は簡潔で、均衡は脆かったかもしれない。ここでは、恐怖は手数で、均衡は多数の手で支えられる。重く、遅く、しかし確かである。私は針の振れを見守り、日付の欄に小さな印を置く。

 扉の前で人々は別の秩序を積む。保険会社は条項を厚くし、港湾労働者は誓約書に名前を書き、工廠の掲示板には「未点火物質の取り扱い心得」が増え続ける。研究助成は測量と疫学に流れ、兵学校の廊下には風向儀と潮汐表が掲げられた。火は無いが、手順は増える。増えた手順が、安全という名の壁になる。

 1959年、ベルリン。曇天の監視線が街の上空で交わる。無線は乾いた子音を弾き、翻訳の一拍が遅れる。観測塔の上、睫毛に雨の粒が止まる。観測員は瞬く。ほんの一度。——その一度が、時代を一分だけ早送りするクリックになる。

ご読了ありがとうございます。後編(プロローグ#2)は明日18時に投稿予定。

設定集にてこの作品に込めた思いを同時公開中。シリーズ登録してあるので行けるはず。

そちらも見てね。

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