見えないドアの先で
あの出来事から数日が経った。
放課後の帰り道、あの駐車場の前を何度も通ったが、音楽は二度と流れなかった。
それでも、私は前よりも少しだけ、世界を見つめる目が変わっていた。
街の音、夕焼けの色、人の声。
すべてが、なにかを語りかけてくるように感じられた。
ある日、図書館の帰り道、見慣れない小道にふと足が向いた。
ふだんなら通らない、住宅と住宅の間の狭い道。
でもその日は、なぜか「こっちへ」と誰かに背中を押されたような気がした。
その奥に、古い一軒家があった。
塀の向こうから、音が聞こえてくる。
──ピアノの音。
誰かが弾いている。だけど、曲が途中で何度も止まる。
迷いながらも門をくぐり、扉の前に立った。
インターホンは壊れていた。代わりに、ドアに小さく手書きの札がかかっている。
「心で鳴らす音は、届いていますか?」
読むだけで、胸が熱くなった。
ノックをしようか迷ったとき、扉が静かに開いた。
そこにいたのは、白髪の老婦人。やさしい目をしていた。
「……あなた、あの日の音を聞いたのね?」
ドキリとした。何も言っていないのに、どうして。
「音には、耳じゃなく、心で気づくものがあるの。あなたはそれを受け取った」
老婦人は私を中に招き入れ、少し古びたアップライトピアノの前に座らせた。
「音楽は、時間を超えて記憶を届けるのよ。
誰かが忘れた想い、誰かが諦めかけた願い、
全部、この中に残っている」
私は震える指で、鍵盤を押した。
音はかすれたようでいて、確かに響いた。
──その音は、心のどこかに届いていた。
まるで、私の中にある“見えないドア”をノックしてくれたように。
老婦人は静かに言った。
「あなたには、音を“受け取る力”がある。
これからも、たくさんの見えない扉に出会うでしょう。
開くかどうかは、あなた次第よ」
私は深くうなずいた。
きっとまた、どこかで音が導いてくれる気がした。
それは嵐の歌かもしれないし、
誰かの涙の音かもしれない。
でも私はもう、見えない扉の前で、
立ち止まることを怖れない。