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エピローグ -2-

 未来がクワンティコから戻ってきたのは夕方5時、すっかり辺りが暗くなってからだった。白木の小さな自宅横にあるガレージに、代車として貸与されたシルバーのフィエスタを入れてから後部座席に回る。そこからコートと赤い大きなリボンのついたポインセチアの鉢を引っ張り出し、玄関ポーチの方に向き直ると、木製の柵に巻きつけたささやかなクリスマス用のライトが静かに光っているのが見えた。

 最近外出するときは杉田と2人でこの車に乗ることが多いが、彼は決して自分で運転しようとはしなくなり、後部座席に頭を突っ込むようなこともない。

 彼がソフィーとアンドリューに拉致されたのが運転中で、途中縛られて後部座席に寝かされたことの後遺症なのだ。杉田の車が未来の車とともに証拠品として押収されているのも、不幸中の幸いだったと考えるべきだろう。車が手元に戻ってきたとしても、お互いにもう2度と乗るつもりはなかった。

 未来は寒さに身震いしながらポーチまで小走りに行き、一度玄関のベルを鳴らしてから防犯装置をアンロックしてドアの鍵を開けた。いきなりドア付近でがちゃがちゃと音を鳴らさないのも、物音に対して過敏になっている杉田に対する配慮である。

 玄関のドアをくぐっても、未来を迎えたのは外と同じ暗闇であった。

 リビングに明かりはついておらず、冷え切った室内の空気にも動きがない。恐らく、杉田は一日寝室とトイレの間を行き来するだけだったのだろう。

 温かさがないリビングに未来が漏らした溜息が虚しく響き、直後に蛍光灯の明かりが灯される。濃い色の影がフローリングの床に落ちると、未来が抱えているポインセチアの赤と緑が眩しく感じられた。

 適当な大きさの皿を探して、ビニールのラッピングがついたままの鉢をダイニングテーブルに置き、冷蔵庫を覗く。案の定、同居人の昼食用として用意しておいた白身魚の照り焼きや酢の物が、手をつけた様子もなくそのまま残されていた。

 小さな棘が胸に刺さった気がしていた。

 杉田の辛い気持ちは理解できるが、周囲の人間も傷つき疲れているのは同じなのだ。

 特に未来は犯人と対決しており、ジャクソンが駆けつけるのがあと数秒遅ければ胴体をちぎられて殺される寸前の状態だった。また、ソフィーとのカーチェイスの際には車が横転し、並みの人間なら死んでいてもおかしくないぐらいの事故を起こしながらも、杉田のもとに駆けつけて彼を救った。

 それを杉田が一言も労ってくれないのには、正直腹を立てたくなる。

 勿論、彼が今まともな精神状態でないことをわかった上でのことだ。

 が、日常のごく些細なことに対しても怒りを覚えたその後、未来は自分自身に対して必ず激しい嫌悪の感情を感じる頻度が日に日に高くなってきていた。

 被害者である杉田に見返りを求めるなどどうかしているとわかっているのに、どうしても感情がそれを許そうとしないのだ。

 自分はそんなに浅ましい人間ではないと必死に否定しても、消せない負の感情がそこに存在する。

 そのことが、彼女の精神を擦り減らしていた。

 が、未来は冷蔵庫を閉めた後に強く首を横に振って、内側にへばりつく泥のような黒い思いを振り払ってから寝室へと向かった。

 ドアの前に立って深く呼吸し身体の余分な力を抜いてから、軽くノックする。

「先生、起きてる?」

 返事がなかったため声をかけるが、やはり反応はない。

 脱いだコートを腕にかけた未来がそっとドアを開けて中に入ると、壁際がほの明るくなっているのがわかった。暖かい色の光を放つスタンドの明かりはついていて、その側でぼんやりとベッドに半身を起こすパジャマ姿の杉田がいるのが見える。

「ごめんね。もうちょっと早く戻るつもりだったんだけど、遅くなっちゃって」

 明るい調子を作った未来がコートをハンガーにかけながら話しかけるが、若い医師はこれと言った反応を示さない。

 眼鏡もかけずに宙を見つめっぱなしの杉田は、自宅に戻ってもずっとこんな様子だった。

 救出されてからもやつれた印象が変わっていないと言うより、状態が悪化したのではないかと疑うことの方が多い。もともと肉付きの薄い顔は一層頬骨が目立つようになり、肌の色も赤みが薄くなってきた気さえするのだ。

「この部屋、寒くなかった?何だったら、毛布を新しいのにするからさ、寒いと思ったら言ってね」

 しかしそれもここ数日の寒さのせいだと思うことにして、未来は彼を気遣う言葉を口にし続ける。寒いと言えば、杉田がスエット地のパジャマの上に何も羽織っていないことに、未来は今更ながらに気づいた。

「ほら、このままじゃ身体を冷やしちゃうから」

 穏やかな笑顔で、未来が自分のベッドにあったガウンを取ろうとした時である。

 彼女の方は見ず、杉田が口を開いた。

「未来」

「なに?」

 昨日一昨日から殆ど声も出さなかった杉田の方から、言葉を発してくれた。

 そのことに嬉々とした未来が無邪気にベッドに上がって、彼の隣まで行って顔を寄せる。

「僕は、どうして生きてるんだろう」

 続いた彼の無機質な音声に乗った言葉で、未来の動きが止まった。

 細く息を飲む音が、杉田の耳元で上がる。

「僕なんて、あのまま殺されれば良かったのかも知れない。こんな風に、ただ何もできずに生きているだけの自分なんか、いない方がいいんじゃないかって言う気がするんだ」

 馬鹿なことを考えるな。

 未来は瞬間的にそう怒鳴り返したかったが、過呼吸になるほど息を吸い込んで耐えた。

 彼の、誰よりも大切な杉田の言うことを頭ごなしに否定するということは、彼と言う人間そのものを否定することだと受け取られる危険性が非常に高い。故に、今は最もやってはならないことなのだ。

 けれど。

 けれど、私のことも少しは考えて欲しい。

 普段なら迷いなく口にする言葉を、彼女は精神力を振り絞って自らの中に留めねばならなかった。赤と黒の極色彩にまみれた頭の片隅で、自分の感情を替わりに表に出せる方法を探るが、そんなものはどこにもないと悟るのに必要な時間は、ほんの数秒もあれば足りた。 

「……そんな……」

 結局やっとの思いで未来が出したのは、平凡な一言だけだった。

「だって、そうだろう?こんな、汚れた身で……生きてる価値なんかないよ、僕は」

 虚ろな瞳を隠そうともしない杉田が唇を動かす度に、心臓が切り刻まれるような鋭い痛みをもたらしてくる。未来が杉田を助けたことが、本当はとんでもない過ちであったのだという事実を突きつけられた気さえした。

 彼を助けることが救いになるのだと固く信じて今日まで来たのに、それが根底から覆されるような態度だった。

 そんなことはない、生きていればいいこともきっとある。

 だが、所詮痛みを知らぬ者から投げつけられる励ましなど、今の杉田に届くわけがない。

 やはり未来ができるのは平凡な言葉を発することと、彼を抱きしめることだけだ。

 彼女は若き医師の半身に両腕を回し、彼の存在全てを両腕に引き受けるつもりで受け止めようとした。

「駄目だよ、そんな風に考えたら。お願いだから、そんなこと言わないで」

 自分がFBI捜査官などではなく、日頃から誰かを助ける看護師のような仕事に就いていたなら、もっと言いようがあったのかも知れない。彼女は自分の貧しい語彙が悔しく、情けなかった。

「優しいんだね、未来は。けど……僕は、それが辛いんだよ」

 しかし杉田の虚空を見つめる瞳は、大切であった筈の未来を「自分以外の他人」としてしか映していない。

 少なくとも、彼女はそう感じ取っていた。

 心に灰色の霧が出て、希望と言う太陽の光を遮り、急激に温度を下げていくかのようだった。

「僕は自分がいることで、誰かに迷惑をかけたくないんだ。すぐに立ち直る勇気もないし、だからと言って自殺する勇気もない。僕がこんなに落ち込んだままじゃ、未来だって嫌になるだろう?お互いにとって、いい影響は何もないんだよ。何とか、楽になれる方法を考えたいんだけど……」

 いくら杉田から否定の言葉が続いても、未来にそれを認めるつもりはない。

 一方で明確に否定し返す術も見つけられない彼女は、ただ首を横に振り続けるばかりだった。

 杉田は同じ男にレイプされた、性犯罪被害者だ。

 同じ立場に立ったことがない自分では、彼の気持ちを本心からわかってやることができない。いくら彼のことを尊重し、大切に思っているのだと口で言ったとしても、そこに込めた本当の思いが伝わることはないと思っていいだろう。

 だからと言って下手に同調し、あなたの辛い気持ちはわかる、だから頑張って生きていこう、などという安易でお決まりの台詞もとても言えなかった。同じ犯罪に巻き込まれた身だから、同じように生命の危機に直面したからと言っても、捜査官と純粋な被害者とでは天と地ほどの違いがあるのだ。

 何と言えばいい?

 どうすれば、彼に生きる希望を再び与えることができるのか?

 それとも、もう彼と共に歩んでいくという望みを諦める道しか残されていないのか?

 もどかしさと自らに対する怒りで、未来の語調がつい荒くなった。

「やめてよ!先生は悪くないよ。何も悪くないのに、どうして……どうしてそんなこと考えなきゃならないの?」

 杉田の艶が落ちた黒髪に顔を埋め、呟いた未来の声が揺れる。自分に憤っても何の解決にもならないとわかっていながら、感情を止めることはできなかった。

「でも、もう消えたいんだよ……この世界から。何もかもが辛いんだ、本当に」

 苦しげに返してきた杉田の言葉はどんどん弱くなっていき、最後は消えに入りそうな涙声となっていた。

 肌色のすぐれない彼の手が、唇を噛んで身を震わせる未来の背中をそっと撫でる。

「ごめん、未来。僕が弱い男だから、君までこんな辛い思いをさせて。本当に、ごめんね」

「謝らないで。強くなんかなくたっていい。先生は悪くないよ、悪くないんだから!」

 未来が杉田を抱きしめる腕に力を込めると、堪えていた涙が彼女の白い頬を伝い落ちていく。杉田の着ているスエットの肩が、たちまち涙で濡れていった。

 そのまま薄暗い寝室で2人の泣き声が重なったのが、どれぐらいの間かは定かではない。

 未来が寝室をそっと後にしたのは、深夜も近くなった夜22時を回ってからだった。

 お互いに涙を流して気持ちをある程度収めてから、杉田には枕元に置いてあった精神安定剤と睡眠薬を飲ませてベッドに寝かせたのだ。未来は彼が眠りに落ちるまでずっと手を握っていたが、泣き濡れた頬と目は赤く腫れ上がったままだった。

 未来は普通ならもうとっくに夕食を済ませている時間帯だったが、食欲は全くない。

 彼女はクワンティコから帰ってきたジーンズとニット姿のままふらふらとリビングまで来ると、カウチに腰を下ろした。

「やだよ……どうすればいいの。誰か、教えてよ……!」

 半ば倒れるようにソファーにどすんと身体を落とした未来が両手で顔を覆うと、その隙間から涙の雫が溢れた。

 血を吐くような呻きを一人漏らしても、胸を刺す痛みは去ることを知らず、彼女の全身をじわじわと蝕んでくる。

 今はまだ信用できる性犯罪被害者のアフターケアを担う病院を探しているところだったが、果たしてそんな悠長なことをしていていいのだろうか。

 今の杉田は最低限の用事を除いて殆ど外出できないし、自分が受けた暴力のことに向き合えるようにならなければケアセンターに通っても意味がないとはわかっているが、うかうかしていて手遅れになることが一番の懸念であった。

 もし未来が仕事から帰ってきて、杉田が自殺していたら。

 物干し用のロープで首を吊っていたり、未来のグロックで頭を撃ち抜いていたり、キッチンに置いてある包丁やナイフで首の動脈を切っていたら。

 最悪の想像は何回も彼女の頭をもたげ、その度に首を振って打ち消そうとしたが、今まで仕事で見てきた死体の鮮烈なイメージは簡単に消えるものではない。

 杉田を失うなど、考えられなかった。

 自分ひとりが残されたらどうなるかなど、考えたくもないのだ。

 どうして非難されるべきではない被害者が、自らのことを責めなければならないのだろうか?責められるべきは犯人である筈なのに。死ぬほど辛い目に遭わされた者が、責任など負っているわけではないのに。

『生きてる価値なんかないよ、僕は』

『僕は自分がいることで、誰かに迷惑をかけたくないんだ』

『僕が弱い男だから、君までこんな辛い思いをさせて。本当に、ごめんね』

「……あれ?」

 杉田と交わした先の会話を思い返すうち、未来はそこで驚いて顔を上げた。

 自分が悪いわけではないのに、感情を向ける場所欲しさで全ての責任を自分が負っている、悪いのは全部自分だと思い込む。

 それと同じ状況に、思い当たったのだ。

 去年まだ日本にいて、旧型のサイボーグと戦っていた頃のことである。

 生きている価値がない。

 誰にも迷惑をかけたくない。

 自分が弱いから、誰かに辛い思いをさせている。

 先に杉田の言ったことは全て、嘗ての未来が思っていたことそのままだ。1年前の自分自身の姿が今、杉田の中にあったのである。

「同じなんだ、あの時の私と」

 呟いた未来の中に、杉田によって救いを得た事件の記憶がまざまざと蘇ってきた。

 自分が悪いとだけ考えていた未来は、純粋に心配し気遣ってくれていた杉田と幾度もすれ違い、最終的に彼を銃で撃ち殺害しかけるという歪んだ行動に及んだ。その時は周囲のことなど考える余裕がなく、自分を壊すことしか助かる術はないと、頑なに信じていた。

 事情は違えど、自分が世界の全てから拒絶されている、誰も自分のことをわかってくれないと感じる孤独と絶望感は、嘗て自分がいだいたものと同じだ。

 あの時の未来を救ってくれたのは、杉田の「全てを赦す」という言葉と優しさだった。

 だとすれば、杉田が昔の自分に与えてくれたものと、今現在の彼が求めているものも同じではないのだろうか。

 誰かに、そのままの自分と言う存在を認めて欲しいという願い。

 全てを許して受け入れて欲しいという望み。

 自分の存在が許されていると感じること、生きていける場所があると実感することができれば、彼も助かるのではないか。そして今それができるのは、多分故郷から遠く離れたこの地において、彼と一番近い場所で信頼関係を築き、愛情を感じ合っていた未来だけなのではないか。

 確かに未来は、杉田に死んで欲しくないと一番強く思っている人間だろう。

 死という運命に逆らえなくなるまで、許される限りずっと側にいたいとも願っている。

 が、客観的に見ればそれは自分が杉田に寄りかかり、彼という存在を自分のために欲しがっているだけのエゴだとも言える。

 しかしそうではない、と彼女は沸き上がってきた疑念を真っ向から否定できた。

 違う。

 自分が望んでいるのは、そんなことではないのだ。

 杉田が生きることを許されており、存在そのものに価値があるのだと、彼自身が感じること。

 彼が決して一人ではなく、背中を支える仲間がいつも共にあること。

 そして、彼の存在そのものを認めて理解しようとする者がいること。

 恐らく杉田が無意識下で望んでいる全てがすぐ側にあるということを、伝えたい。

 感謝などしなくてもいい、ただ感じて欲しいだけだ。

 少なくとも自分を救ってくれた時の杉田はそう願っていただろうし、未来自身も自らの存在を見つけることで、それ以上破壊的にならずに済んだのだ。

 問題は、どうすればそれを伝えられるかということだった。

「あの時は……」 

 未来は今の杉田を過去の自身に置き換え、必死に記憶を探り始めた。

 自分が杉田に向かって弾丸を放った瞬間の光景を心の隅から引っ張り出すと、嫌悪感に吐き気がこみ上げてくる。正直に言えば思い出したくもない出来事だったが、愛する男の将来には代えられない。

 あの時、杉田は自らの命を危険に晒して文字通り身体ごとぶつかってきてくれた。

 それが未来を理解しようとする強い想いを示した彼の姿勢であり、一番強く未来の本質に訴えてきた手段だったのだ。

 相手のことをわかろうとしているのに、間にある見えない壁を越えられない。頭が沸騰しそうなもどかしさは、きっと彼も感じていたに違いないだろう。

 今になって杉田の気持ちが痛いほどにわかるなど、質の悪すぎる嫌味である。自嘲気味の笑いを浮かべると、未来は溜息を漏らして顔を上げた。

 考え疲れてリビングの中でふらついた視界に、ふと色合いの鮮やかな何かが入ってくる。瑞々しい赤と緑が眩しいそれは、エマからクリスマスプレゼントにともらったポインセチアの鉢植えだった。

 今までの杉田なら、きっと弾けそうな笑顔を満面に咲かせて喜んでいただろう。

 そう言えば、彼がアメリカに来てから一番楽しそうにしていたのは、花や植物に触れているときだった。

 が、未来はと言えば、何が面白いのかもわからずつまらなそうに彼の様子を眺めていただけだ。

 彼が充実した時間を過ごそうとしていたのに、そこに興味を持とうという気持ちが未来になかった。だからこそ彼は共通の話題を持っていたソフィーと気が合うと感じ、彼女の世話を焼きたくなったのだ。

 そう。

 今までの未来に足りなかったのは、日常の些細なことにも喜びを見いだし、杉田と分かち合うことだったのだ。

 それも当然だった。

 今にして思えば自分はいつも彼に求めて、何かしても同じだけの見返りを要求するばかりだった。そんな傲慢な考え方では、気づけなくて当たり前だ。

 愛する者の姿を本当に知ろうとしていなかったのは、自分の方だったのだ。

 愕然とした未来がカウチから立ち上がると、今まで完全に存在すら忘れていた、部屋の随所に置かれた観葉植物の緑が視界のあちこちに飛び込んでくる。

 どれも水やりがされておらず、葉先が茶色くなっているものが多い。

 これは皮肉にも、今現在2人が置かれた状況そのものを表しているといっても良かった。

 ふらりとダイニングテーブルに近づいた未来が、乾いた室内で唯一生き生きとしているポインセチアの赤い葉の先をそっと撫でる。

「……何で、こんな簡単なことに今まで気づかなかったんだろう」

 彼女が呟いた一言は後悔と悲しみを感じさせる色を帯びていたが、決して負の感情しか込められていないそれではなかった。


 杉田が夢も見ない眠りの底から這い上がってきたのは、意識を失ってから何時間後のことになったのだろうか。身体は十分過ぎるほど休んでいるのに頭は重く、意識もまだ夢の中にあるようで、瞼を開けるのが億劫だった。

 それでも遮光カーテンの隙間から漏れてくる光が気になるのは、生き物としての本能なのだろう。うつ伏せになって毛布の中から手を伸ばし、白木のサイドテーブルに据えられた電波式目覚まし時計を掴み上げると、12月8日の午前11時過ぎであることがわかった。

 カーテンの向こうに日差しが降っているのがわかったのは、雨戸がいつの間にか開けられていたせいだった。これは未来の癖で、休みの日は朝日を窓から見るために雨戸を開けて、カーテンだけを閉めておくのだ。

 しかしその彼女は隣のベッドにおらず、乱れた毛布やシーツからも温もりが失せている。

 未来はまだ自宅療養期間中の筈で、さほど早く起きる必要などない筈だった。なのに、何故黙ってどこかに行ったのだろう?

 まだ薬の影響が完全に抜けていない杉田では、その程度しか考えられない。

 だが、表から微かに聴覚を刺激してきた音が冷たい風で頭の中の靄を吹き飛ばした。

 何か固いものを土の地面に差し入れ、掘り返す音が聞こえてきたのだ。自分も趣味の園芸でしょっちゅうまき散らしている、いつもの雑音である。

 途端に、家具しか置いていないはずの寝室に土の香りが満ちた気がした。

 無論杉田の錯覚だったが、おかげで一気に目が覚めていた。ために、しごく当然の疑問が頭をもたげてくる。

 一体誰が、何をしているというのか?

 地面を掘る強盗など聞いたことがないし、この昼日中に犯行を試みるなど考えづらい。必要以上に警戒する必要はないが、やはり杉田は不審そうにカーテンを開け、窓の外を覗いた。

 窓から数フィートも離れていない場所に、忙しく動き回る小さな背中があった。

 分厚いジャケットとデニムに身を包み、庭に作られている狭い花壇に思い切りスコップを突き刺し、掘り返しては土の塊をほぐすことを繰り返している。その合間に表面に転がり出てくる大小の石を、摘み上げて傍らに放り投げていた。

 まだ午前中の寒い屋外で白い息を吐き散らしているのは、未来であった。

 彼女が手入れしているのは庭の一角を簡単に煉瓦で囲った、前の住人が作ったであろう花壇の残骸と思しき場所だ。随分長い間土をならしているようで、生え放題だった雑草は全て取り除かれ、代わりに黒々とした土が露出している。

 未来は時折手に息をかけてこすり、温めながら、不慣れな手つきで黙々と土の手入れを続けている。その前に地面に這いつくばって雑草もむしっていたのだろう。ジーンズの膝下はかなり汚れているようだった。

 花壇の外側には、地下室に置いてあったファーマーズマーケットのロゴが入った買い物袋が置いてあるのが見える。これは確か事件前に買出しに行ったまま、一部手をつけられずに置きっぱなしになっていたものだ。

 まさか、それを未来が花壇に植えようとしているのだろうか?

 第一彼女は園芸に全く興味がなく、話に乗ってくる素振りすら殆ど見せたことがない。どういう風の吹き回しなのだろう。

 が、やる気になっていることは事実のようで、時折空気を含ませた土に足を取られて転びそうになっているのに、作業を中断させようともしない。しかしその懸命な姿も、この程度の作業など朝飯前の杉田にとっては、危なっかしく見えることこの上なかった。

 それにあの元花壇は、もともと彼が手入れしようと思っていた場所でもある。

 杉田は身につけていたスエットを脱ぎ捨てると、数日ぶりにタートルネックのニットに袖を通してデニムパンツを穿いた。そのどれも未来が新しいものを買っておいてくれたらしく、私服を入れてあるチェストの一番上にしまってあったものである。

 身なりを整えた彼がリビングまで出たその時、見覚えのないポインセチアの鉢がダイニングテーブルの上に置いてあることに気づいた。習慣で土の表面に指先で触ってみると、適度な湿り気が感じられる。

 そしてあちこちに置いてある観葉植物も、しおれかけた葉が見られはしたが、どれも水をやったばかりのようだった。自宅にある植物は全て杉田が世話をしており、病院から戻ってから彼自身は一度も水やりをした覚えがないというのに。

 未来が代わりにやってくれたのだ。

 彼がリビングに置いた5つの鉢の全てを確認して驚きを顔に浮かばせたところで、玄関のドアが開いて未来が入ってきた。その正面にいた杉田が顔を上げると、丁度目を合わせる格好となる。

「未来……庭で何してたんだ?」

「何って……その」

「もしかして、花壇の手入れしてた?君が?」

 未来は困ったように視線を逸らして答えない。

 杉田が純粋に驚いて質問する一方で、未来の表情はばつが悪そうだった。言葉に詰まった彼女が汚れた手で頬を掻くと、その跡に泥が頬にこすりつけられていく。

「だってさ、買いっぱなしで放り出してた球根がもったいないじゃない。それに、先生があんなに楽しそうに買い物してたから」

「え?」

 未来の顔が汚れたことを指摘しようとした杉田の言葉が、再び驚きで止まる。

「先生が大事にしてるものは、私も大事にしたいんだもん」

 拗ねたように言ってから未来は顔を上げたが、今度は迫力のある視線を向けてきた。

「先生だって、春に花が咲くのを楽しみにしてたんでしょ?」

 彼女の真剣さに圧された杉田は、無言で頷くしかない。

 しかし、次に続けられた未来の口調は再び困っているのと、拗ねた色が半々になっていた。

「でも……チューリップを植えてから結構経ってるのに、まだ芽が出てないんだよね。ここ何日か寒かったし、家の中に入れたほうがいいのかな」

 もじもじと言う未来に、杉田は思わず吹き出していた。

「そんなに早く芽は出ないよ。チューリップは植えてから暫く寒さに当てないといけないし、発芽はまだまだ先なんだ。3月くらいになるんじゃないかな」

「え、そうなの?」

 素っ頓狂な声を上げる未来に、杉田は笑いを堪えながら頷いた。

 彼女は多分、アサガオやヒマワリと同じようなつもりでいたのだ。小学校の授業の一環で一度はチューリップも栽培しているはずだったが、そんなことはもう忘れてしまったのだろう。

「それにほら、顔が汚れてるよ。土のついた手で触るから」

 一度笑ったら心が軽くなったのか、杉田が未来の頬を指差す。彼は戻ってきて以来いつになく饒舌になっているようだった。

「あ、でも、ほら。まだ途中だからさ。後で顔洗うし」

 未来は言いつつも慌てて服の袖で乱暴に頬を拭ったが、袖にも泥がついていたらしく、余計に顔が汚れてしまっている。同居人の子どもっぽい反応と仕草に微笑を残したまま、杉田は応えた。

「あとは僕がやるから、未来は先に顔を洗ってくるといいよ」

「じゃあさ、私が手入れしたところを見てよ。そうすれば安心だから」

 言うが早いか、未来は嬉しそうに笑うと小走りに杉田の背中に回った。上半身を軽く押された杉田は玄関ドアのすぐ横に置いてあったスニーカーに足を突っ込むと、促されるままにポーチへと出た。

 未来が開けた木のドアの隙間からさっと外気が流れ込んできた次の瞬間、視界いっぱいに白い光が満ちる。

 杉田の目の前に広がったのは、事件前は見慣れていた我が家の素朴な庭の光景だった。

 日当たりがいいポーチは寒くはあるが風はなく、からりと晴れ上がった冬晴れの空は美しく澄んでいた。

 冬を迎えたヴァージニアの空気は昼でも冷たく乾き、若き医師の白っぽい手や顔の肌を冷やりと刺してくる。杉田はここ何日かぶりで直接拝んだ太陽光に、眩しそうに目を細めて身震いもしたが、不快そうな表情は浮かべていない。

 眼鏡の奥の視線が早くも花壇に向けられてるのを見て、未来も彼に倣うことにした。

 未来が掘り起こしかけた花壇は一面が黒々とした土に覆われており、幾度もスコップを使って盛り直しているのが一目でわかるくらいだった。多少やり過ぎのようにも見えるが、彼女は全く園芸の知識がないのだから無理もない。

 しかし杉田が驚いたのは、花壇の横に腐葉土と球根の入った紙袋の他、硬質赤玉土やバーミキュライト、パーライトなど一般的に必要とされる材料が揃っていることだった。少なくとも、彼がこれを買っておいた覚えはないのだ。

「ああ、それはさっきお隣のヒルマンさんからもらったの。ここで作業してたら、これを土に混ぜるといいよって言ってくれて。いい人だよね」

 土のことに気づいた杉田に、未来が補足する。彼はその隣に重ねてある大小のシャベルや大きなスコップを見比べて、まだ驚いているようだった。

「これ、ずっと一人でやってたのか?」

「うん。まあ、これくらいはどってことないし。力仕事なら、お手のものだから」

 杉田の問いに照れ臭そうにして答えた未来だったが、彼女は花や植物のことなど全く興味も持たなかったし、杉田があれこれ語っていてもつまらなそうに聞いているだけだったのだ。

「でも、どうしてこんなことをいきなりやろうと思ったんだ?」

「それは……さっきも言ったじゃない。先生が大事にしてるものは、私も大事にしたいの。それに、自分で園芸をやってみたら、先生のことをもっと理解できるようになるかなって」

 素直に質問を投げかけてくる同居人に、未来はまた拗ねたようにそっぽを向いてしまった。

 思わず、花壇を眺めていた杉田の視線が未来の方へと向き直る。

 好きだとか一緒にいたいとか、恋人たちが当たり前に使う類の表現は、未来が口にするのを日常的によく耳にしていた。

 だが、考えようによってはこれらは相手の都合を考えない、ひどく一方的な感情でもある。

 言ってみれば自分から要求する一方で、幼い子どもが心のままに親兄弟に向けるようなものによく似ていると言える。

 反対に、相手のことを理解するというのは、口で言うほど易しいことではない。

 世界中で別離と言う結末を選択するカップルの殆どがそれを達成できないからであり、理解しようと本人が努力しているつもりでも、客観的には自分の感情を相手にぶつけているに過ぎなかったりする。

 今まで求めていたばかりの未来の考え方が変わっているらしいことが、杉田には一番意外だった。

 そして、彼女が自分の好きなものを知ろうとしてくれていることが、動きの鈍った心の底から純粋な喜びを思い出させてくれるようだった。

「ありがとう。けど、寒かっただろう?手もこんなに冷たくなって」

 未来の頬と手が真っ赤になっていることに今更ながらに気づいた杉田が、思わず彼女の顔や指先に手を伸ばして言った。

 杉田に比べて小振りの手が、吹き渡る寒風と比べても遜色ないくらいに冷えている。軍手もせずに冷え切った鉄のスコップを握り、土をいじっていたのだ。悪くすれば、霜焼けになりかねない。

 感覚も麻痺しているだろう一回りは小さな手を温めようと、杉田は未来の手を両手で包み込むようにして握った。

「大丈夫だよ。今、先生の手があったかいから。それに先生だって、毎年冬場にやってることなんでしょ?」

 自分の手に土がつくのも厭わず手を握ってくる杉田に、未来は照れ笑いを浮かべている。温もりを感じる彼の手を振りほどこうとは考えていないようで、未来はそのまま裸の花壇に視線を移した。

「今はまだ寂しいけど、春にはきっとたくさんの花でいっぱいにするんだからね。種も球根も、たくさんあるんだし」

 決意表明するように、未来の口調には力が込められている。その言葉が示す通り、花壇の脇に置いた袋には、春に花を咲かせるスイセンやヒヤシンス、フクジュソウの球根や種がまだたくさん残っていた。

「……でも、花でいっぱいにするのは、先生と一緒にやりたいんだ」

 未来は杉田の方を向いてはいない。

 しかし、声ははっきりと杉田の耳に届いていた。

 未来と一緒に土をいじるなど、彼は今まで想像もしていなかった。が、不思議なことに、今は隣で佇む彼女が一生懸命に草を取ったり、笑顔で水やりをしたり、咲き誇った花を嬉しさに輝く瞳で見つめる様子を自然に思い描くことができる。

 自分の中に浮かび上がる未来の姿に、驚くほど違和感がない。

 きっと自分は、誰かと一緒に植物を育てていくことをずっと望んでいたからだ。

 日差しの中で小さな生命が伸びゆくのを見守る喜びを、心の中に陽が差すような穏やかな気持ちを分かち合いたかったのだ。

 そこに手を差し伸べてくれる存在を、やっと手に入れた。

 言葉にすることがなかった想いをわかろうとしてくれる誰かが、歩み寄ってきてくれたのだ。

「私、先生のこと好きだよ。何もかも全部。だから、一緒に生きていきたいの。これからずっと」

「……え」

 しかし未来の次に続いた言葉は、春の温かさを感じていた杉田の内面に放り込まれるには、あまりに突然過ぎた。

 その趣旨を理解できず聞き返してしまった彼に、恐らく罪はないだろう。

「もう、何度も言わせないでよ。先生のことが、何があっても丸ごと好きだって言ってるの!だから支えていきたいし、花壇だって一緒に作りたいんだってば!」

 自然に素直な想いをタイミングまで考慮せずに言ってしまったのか、未来はやけになったように口調を荒げて視線を逸らす。

 しまった、と表情で語る杉田はしかし、彼女の手は握ったままだった。ここで手を振りほどいてはますます未来の口許がへの字に曲がるだけだろうし、それ以前にこの小さな手が自分の手の中にあることが嬉しく、離したくはなかったのだ。

 おろおろと視線を泳がせているうちに、再び互いの黒い瞳が結ばれる。

 未来の頬は今まで以上に赤くなっていたが、表情は穏やかな笑顔を湛えていた。

「……愛してるよ、先生」

 低く呟いた未来の声が、白い息とともに空間をかすかに震わせた。

 杉田を見上げてくる大きな瞳は、答えを求めていなかった。

 私が何もかも、全部受け止める。

 だから一緒に歩いていこう。

 私が支えていくから。先生は一人じゃないから。生きていていいんだよ。

 彼女が向けてきた静かで優しい微笑みは、様々な想いを秘めていた。

 ともに生きていこう。

 そう言ってくれた未来は今自分が一番欲しがっているものを、自分がここに存在することの喜びを与えてくれたのだ。

 杉田の瞳が熱くなり、視界がぼんやりと曇りかける。

「……ありがとう……」

 涙が零れ落ちる前に、彼は未来の肩を力いっぱい抱き寄せていた。

「僕も……君を、愛してるよ」

 杉田は自身でも聞き取れないくらいに小さく、掠れた声で囁いたが、腕の中にいる未来が確かに頷いたのがわかった。

 頬に感じる未来の髪の感触がこころよい。

 そして薄く開けた杉田の瞳には、ポーチに並んだチューリップの鉢の横にちょこんと置かれたストロベリーフィールドの苗が映り込んでいた。

 未来が杉田に送ろうとしたもう一つのメッセージが、そこにあった。

 ストロベリーフィールドの花言葉--変わらぬ愛を永遠に。



                                       -完-

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