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蜘蛛の巣 -20-

 北部ヴァージニアではなりえない低温に晒された身体は重く、手足の先にまだ痺れは残っている。

 それでも未来は精神と肉体を必死に鞭打ち、白い息を散らして走っていた。

 徐々に体温は戻りつつあるようだったが、それでもまだ歯の根が合わず、震えも止まらない。彼女は体温調節機能を最大限に働かせ、同時に地面を蹴る足の筋肉も意識しながら、全身に暖まった血液を巡らせる努力をした。

 倉庫の洗剤が積まれた棚の間を突っ切り、キウィが詰まった箱の群れを横切り、トイレットペーパーの山をすり抜けながら、未来は杉田の元へと急ぐ。距離にすれば数百ヤードもないのに、障害物と寒さの影響で全力疾走することが叶わない。サイボーグの脚力を以てすれば一瞬で走破できるだけに、歯がゆさは苛立ちとともに限界に達しようとしていた。

 ジャクソンに杉田のことを指摘されて以来、感じたくもない嫌な予感が未来の神経を刺激しっぱなしになっている。本来理屈に合わないことは無視できる性分だったが、今回はそうもいかなかった。

 心情的に愛する男を放っておきたくないというのは勿論だったが、戦闘訓練を受けたことがない杉田が緊急時に的確な行動を取れるのか、それが一番の心配の種だったのだ。

 自分やジャクソンは、制圧後の捕虜の扱いや窮地に立たされた敵の行動について心得ているが、杉田は一般市民だ。武器を持っているとは言え、射撃訓練も1度しかやったことがない彼を、凶悪犯と長時間2人きりにしておくのは危険だった。

 ましてやソフィーは良心を持たない特殊な人間であり、追い詰められたら何をするかわかったものではない。

 胸の中で抑え切れなくなりそうな不安を、未来はグロックのグリップを握る両手に込めた。

 が、現実は非情であった。

 息を弾ませながら倉庫の出口に辿り着いた未来を出迎えたのは、どしゃぶりの大きな雨粒を反射させるまばゆいヘッドライトの光だった。しかもそれはこちらに向かって来ると見せかけて、くるりと反回転して逆の方向を照らし出したのである。

 反射的に立ち止まった未来が夜明け前の暗闇に目を凝らすと、肉体の主の意志を汲んだシステムが黒い瞳に自動で赤外線フィルターを下ろす。昼間と同じ明るい視界に捉えられたのは、ソフィーの車であるフュージョンであった。

 顔までは判別できないが、前の座席に黒い人影が二つあることまではわかる。

 それが意味することを、未来は瞬時に悟っていた。嫌な予感が現実のものとなってしまったのだ。

「止まれ!従わなければ撃つ!」

 倉庫から走り出た未来は、無駄とは思いつつも激しい風雨に逆らって警告し、グロックを構えた。案の定、銀色のフュージョンはエンジン音を響かせてスピードを上げにかかっている。

 やむなく、フュージョンの後輪を狙ってグロックのトリガーを立て続けに絞った。連続した破裂音が小さな手元で上がり、銃口から散る火花が一瞬、周囲を光の中に切り取っていく。

 しかし、全ての弾丸は狙いを外して闇の中へと吸い込まれていった。

 グロックのような小型の拳銃の射程はせいぜい55ヤード(約50メートル)程度である上、距離が離れれば命中精度は極端に下がる。その上、標的は乱暴な運転で走り去る車のタイヤだ。どんな射撃の名手であろうと、一発で撃ち抜くのは不可能だ。

 フュージョンは大粒の雨を撥ね飛ばしながらシャフトを軋ませ、暗闇の中へと滑っていく。アメリカ車にしてはコンパクトな車体が右に急ハンドルを切ると、瞬く間に狭い道路へと入っていった。

「畜生、逃がすもんか!」

 吐き捨てた若き女性捜査官は背中に手を回し、銃をジーンズのウエストに挟んで雨の中へと走り出した。そのまま砂利の広がる荒れた私道を突っ切り、トレーラーハウスのドアを蹴破って、先までいたベッドルームの中へと駆け込んでいく。

 誰もいない部屋にざっと視線を巡らせて状態を把握したが、血の跡もなければ硝煙の臭いもない。恐らくソフィーが銃を奪った上で杉田を脅し、運転させているのだろう。

 幸いにして、未来のフォードがすぐ側に停めてあることは判明している。アンディとソフィーは彼女の車を見つかりにくい場所に処分するつもりで、この敷地内に持ってきたのだ。エンジンキーはどこかに必ずある筈だった。

 未来の瞳が忙しなくベッドのサイドテーブルの上やデスクの上を飛び、デスクの鍵がかかった引き出しを力任せに引っ張って強引に開ける。

 高く軽い音を響かせて最初の引き出しの鍵が壊れたところで、運よくエンジンキーが見つかった。シルバーのプレートがついている見慣れたキーを浅い引き出しからひっ掴み、ワックスが剥げたフローリングの床をやかましく踏み鳴らして、トレーラーハウスの玄関へ取って返す。

 木のドアをくぐって再び真っ暗な中に走り出ると、冬の冷たい雨粒が激しく顔を叩いてくる。未来は額から伝う雨の滴に目を細めつつ、先に見つけた自分の車を目指して倉庫の脇に開いた細いスペースに急いだ。

 濡れそぼったダークブルーのフォードは、助手席側の窓を砕かれた無惨な姿のままでそこにあった。逸る気持ちを抑えて運転席に回ってロックを解除し、シートベルトを締めてからエンジンキーを回す。

 命を吹き込まれたフォードから低い唸りが上がり、メーターやナビシステムが点灯して、車内がぼんやりとした光に照らし出された。燃料計が0を指していないこと、現在地がウォーソーで、暫く一方通行の道が続いていることだけを確認すると、未来はハンドルとギヤに手を置いた。

 一旦ギアをバックに入れて車体を倉庫の脇から出し、片手で鋭くハンドルを切って方向を変えると、再びギアを変えてフュージョンが消えた道路へ向かい、クラッチを繋ぐ。

 急加速でタイヤが上げた悲鳴が割れた窓から大きく聞こえ、雨は冷えた風とともに助手席に降り込んできた。助手席のシートには未来が叩き割った窓ガラスの細かい破片が散乱しているが、今がまだ深夜で他の車が殆ど通っていなさそうなのはありがたい。

 未来が運転するフォードは倉庫とトレーラーハウスがあった敷地から走り出すと、スピードを上げて右方向へと向かった。ナビによると、車が通れる幅の道路は暫く分岐がなく、一本道で続いているらしい。この分なら、何とか追いつけそうだった。

 この車に乗る時は、杉田の黒いシボレーが前を走っていることが多かった。彼の安全運転は快適な速度に欠けるきらいはあったが、安心して彼の後ろ姿を眺めていたことが思い出される。

「……先生、待ってて。必ず助けるから」

 呟いた未来は、スピードメーターが時速44マイル(時速約70キロ)を指しているのを視界の隅に留め、更にギヤを変えて深くアクセルを踏み込んだ。寒風が割れた窓から車内に流れ込んで未来の体温を奪おうとするが、先の冷凍庫よりは遙かにましだ。

 ウォーソーの整備が甘い道路はアスファルトがでこぼこで道路を照らすライトも少なく、頼みはヘッドライトと自らの視力のみだ。ソフィーと杉田が乗っているフュージョンはかなり速度を出しているらしく、一本道なのになかなかテールランプが見えてこなかった。

「サイボーグの私の目から、逃げられるとでも思ってるわけ!」

 ハンドルを握る未来は、日本語でこぼしてから瞳を前方に凝らした。暗視フィルターがおろされた視界に更にズームがかかり、雨降りの闇夜を鋭く貫いていく。何度か調整しつつまっすぐな道路の先へ先へと焦点を合わせていくと、ようやく赤いランプがぽつんと浮かび上がっているのを捉えることができた。

 数少ないライトに時折照らされる車体は白っぽい光を反射し、アメリカ車にしては丸い特徴あるフォルムを浮かび上がらせている。流石に誰が乗っているかまでは確認できなかったが、フュージョンはアメリカ全土で流通している数がそう多くはない。ソフィーの車に間違いはないだろう。

 未来はちらりと視線を下にやり、ナビシステムのマップ画面があと5マイル程度で360号線に合流する地図を示していることを確認した。

 360号線はリッチモンド方面へ向かう道路で、幅が広く交通量も多いハイウェイだ。それだけに走りやすく、夜中でも他の車両が通行している可能性が高い。更に雨で見通しが悪い上に路面もスリップしやすいとあっては、一歩間違えば追跡中に複数車両を巻き込んだ大事故につながりかねない。なるべくなら、その手前でソフィーの逃走を食い止めねばならなかった。

 彼女はそう決めると、今一度ギヤチェンジをかけて速度の上乗せにかかった。急加速のため相応の重力がかかり、背中がシートに押しつけられる。スピードメーターが時速60マイル(時速約96キロ)に達すると、おんぼろの車体は細かい縦揺れを増したように思える。

 舌を噛みそうになるのを数十秒は堪えた頃、未来は前方の闇の中でモンスターの眼光のように赤く滲むテールランプを、ズーム機能を使わずに発見できた。

 しかし今現在開いている距離を考えると、360号線でのカーチェイスは避けられそうもなかった。操る車両がスピーカーと取り外し式の回転灯、通信スキャナーを備えた覆面パトカーでないことが、今になって悔やまれる。こうなった以上は、覚悟を決めて行くしかない。

 未来が改めてハンドルを握り直した時、テールランプが左側に流れていった。ソフィーのフュージョンが360号線に入ったのだ。未来も少しだけ速度を落として緩やかに左へ曲がり、狭い道路からハイウェイへと滑り出る。

 夜中でも明るいオレンジ色のライトに照らされただだっ広い空間が、目の前に開けた。幸い、前方の見える範囲にフュージョン以外の車はいない。ここはハイウェイとは言っても郊外の道路で車道には中央分離帯もなく、周囲に広がる荒野を隔てる厚い防音壁もないような場所だ。これなら、ある程度派手にやっても被害は少なくて済むだろう。

 FBI捜査官の養成機関であるFBIアカデミーでは、このような状況も想定してドライビングテクニックのカリキュラムを組んでいる。彼女は頭の隅で教官の叱咤を聞きながらハンドルを切り、クラッチを繋ぎ換え、アクセルを踏んだ。

 雨で濡れた路面はスリップを誘い、いつもと違う走りの感触がハンドルとペダルを操る手足の動きに戸惑いと緊張を与える。だが、未来の鍛え上げられた運転技術は、巧みに車体を安定したスピードに乗せ続けた。

 おんぼろの車が比較的新しいそれに猛然と追いすがって、じりじりと距離を詰めていく。先まではビーズくらいにしか見えていなかったフュージョンのテールランプは、どんどん大きくなっていった。

 未来が操る車体は先刻より激しく揺れ、窓の滴を拭うワイパーががたつき、年老いたエンジンが低い叫びを上げているのが聞こえてくる。スピードメーターに視線を送る余裕も、そろそろ残っていなかった。

 それでも、追跡を諦めるわけにはいかなかった。

 ここでソフィーに振り切られたらおしまいなのだ。連続殺人犯という自分の正体を知っている杉田のことを、彼女が生かしておく筈がない。何としても追いつき、逃走を止めねばならない。

 未来は一旦解いたズームを、再度目標である赤き光に向けた。瞳の倍率を上げると、雨粒を纏って夜のハイウェイを疾走する銀の車体の輪郭がはっきりと浮かんでくる。

 その丸みを帯びた形の右側面に、不意に小さな突起が突き出たかと思った時である。

 濁った音とともにエンジンとは別の衝撃が加えられ、車が縦に跳ねた気がした。瞬間、数え切れないほどの白い線が放射状に広がり、フロントガラスの大半を白く覆い尽くす。

「くっそ……あの女、こんな所で撃ってきたっての!」

 未来は悪態をつくと、横目でフロントガラスの真ん中から走ってきた亀裂を見やった。

 網目がごく細かい蜘蛛の巣を思わせるひび割れの中心に小さな穴が穿たれ、もともと悪い視界を余計に劣悪なものにしていた。

 走行中の車から拳銃を発砲して目標に命中させるのは、素人にはかなり難しい。恐らく、乱射されたうちの一発が命中しただけだろう。

 しかし、未来に撃ち返すつもりはなかった。いくら夜中で交通量は少ないとは言え、他の車も通る幹線道路で運転しながら反撃するような危険を犯すわけにはいかないのだ。ソフィーはそれを知っていて、鉛弾を浴びせてきたのだろう。

 それに、ソフィーの車を運転しているのは杉田だ。

 未来が迂闊に手を出してこないことなど、初めから計算づくでいたに違いない。

 どこまでも汚い女だ!

 鋭い舌打ちで煮えくり返りそうな腹をごまかすと、黒髪の女性捜査官はシートの上で背をかがめた。フロントガラス上部から伸びる亀裂に邪魔されて、前方の確認が困難になってきたのだ。周囲のことをまるで考えない犯罪者の厄介さは筆舌に尽くし難い、とこういう時に痛感する。

 それでも、ようやくここまで追い詰めたのだ。

 何があっても、数時間前まで友人だと思い込まされていた女を逃がす訳にはいかない。

 ソフィーとアンディはサイコパス同士が手を組んだ、珍しいケースの犯罪者である。互いに庇い合う気持ちをまるで持たない彼らに法の鉄槌を下すには、二人同時に捕まえなくては意味がない。

 そして何があろうとも、杉田を無事に救い出さねばならない。そうでなければ今まで協力してくれたCVCの仲間や、日本で彼の無事の一報を待つ生沢とリューに、どの面を下げて会えるというのか。

 法執行官という立場が邪魔するせいで、未来は躊躇なくアンディとソフィーを撃ち殺す覚悟があっても、それができないでいることが悔しかった。今までの彼女は、敵対する者に心底から殺意を抱いたことはなかったが、今回ばかりは強い憎しみを感じずにはいられない。 

 今が雨に祟られていなければ、きっとドアポケットに放り込んであるグロックを引っ張り出し、グリップをフロントガラスに叩きつけていただろう。胸の内に鬱積した暗い怒りをぶつけて、且つ視界も晴らすのに丁度いいからだ。

 一発の銃弾を喰らったことで、詰まっていた両者の間に横たわっていた空間はまた少し広がっているようだった。360号線はリッチモンドまで大きな分岐はないが、一般道に下りる枝道は数多くある。検問も行ってないらしい今、ソフィーの車を見失うことだけは絶対に避けねばならない。

 未来が確認のために瞳のズームを絞る。

 その視点の中心に捉えられた赤いテールランプが、不意にかき消えた。

「わあっ!」

 凍りついた表情の未来から叫びが漏れ、反射的に動いた腕が鋭くハンドルを右に切った。

 一点を拡大したことによって狭まった視界は、枝道からハイウェイに上がってきたトラックが割り込んできたことを、即時に肉体の持主へ伝えられなかったのだ。

 急に前輪の角度を変えられた車体は、物理法則に全く逆らえない。

 雨で滑りやすくなった路面はゴムのタイヤに掴まれることがなく、空回りする車輪があらぬ方向へと進む不測の力へと乗せられていく。必死にハンドルにしがみつく未来を腹に収めたまま、おんぼろフォードはアスファルトが敷かれた道から逸れた。

 ぎりぎりのところで大型トラックとの衝突を免れはしたものの、殆ど黒に見える彼女の車は頼りなげにハイウェイを囲う有刺鉄線のフェンスを突き破り、冬の荒野へと突っ込んでいく。制御を取り戻せない車体が水分を含んだ土を削り取り、枯れた草を乱暴に刈り取って、遂には片輪を泥に取られて半面を浮き上がらせた。

「あ、ひっくり返っちゃったわ。あの子の車」

 その様子を目にして、含み笑いをしている人物がいた。

 360号線を走り続けるフュージョンの助手席から身を乗り出し、後方を眺めているソフィーだ。車外に出した顔は風になぶられる赤毛に包まれており、雨に濡れた毛先を頬に張りつかせている。

「今撃ったのが、運良く当たったみたいね。これでもう逃げ切れるわ」

 彼女は半身を引いてパワーウインドウを閉めながら、まだ手にしていたベレッタを確かめている。ふと視線を感じて顔を上げると、運転している杉田と視線が重なった。

「やだ、危ないじゃないの。ちゃんと前を見て運転してちょうだい」

 こちらを呆然とした様子で見つめている杉田は、まるで前方に注意を払っていない。

 しかし、ソフィーが不快感を露にしてベレッタの銃口を向けても、彼は言うことを聞くつもりがないようだった。

「前を見なさいよ。私たちまで事故に遭ったらどうするの?」

 トリガーに白い指をかけると、眼鏡の青年は無機質な動きで前に向き直った。寒さのせいなのかハンドルにかけた手は白くなり、小刻みに震えているように見える。

「それで未来を撃ったのか」

 手ばかりではなく肩も震わせている彼の口から、掠れた一言がこぼれる。殆ど聞き取れないくらいに声が含まれていない、不安定に続いた吐息のような呟きであった。

「ええ。窓に一発当たったし、車は道路の外で横転したわ。ひょっとしたら死んでるかもね。もう、追っては来られないわよ。安心したわ」

 追跡を振り切ったことで上機嫌になったソフィーは、あえて聞き返すことはしないが、言い終わらないうちに杉田が囁きを重ねてきた。

「……よく……」

 今度は何を言っているのかはっきりとわからない。英語かどうか判別できない調子があったため、ソフィーは怪訝そうな顔で杉田の方へ顔を寄せた。

「え、何?聞こえないんだけど」

「よくも、やってくれたな!」

 日本語の怒号がフュージョンの車内に響き、突如として横からの重力が襲いかかった。

 外を直線で流れていたオレンジ色のライトの光が歪み、窓をまっすぐ伝っていた雨の筋が歪な方向に走り、車体から強引に振り払われる形となった雨粒が飛沫となって空中に飛び散る。

 車は斜めに路面を滑りながら進んだかと思うと後輪部分が勢いに負けて振られ、全体が大きく回転した。

 ブレーキから高く、耳をつんざくような高音が上がり、車内でソフィーが上げた悲鳴をかき消していく。

 激昂した杉田が一気にハンドルを切り、タイヤが鋭角どころでは済まない角度に突然変えられたのである。制御を失った車体は先のフォードと同じように針金の脆い柵を突き抜け、スピンしながら真っ暗な草むらへと振り落とされた。

 ちぎれた枯れ草や撥ね飛ばした泥を纏い、フュージョンは地を削り闇の中へと乱暴に突進していく。深い轍の跡を枯れた大地に数十ヤードは無秩序に刻んでから、やっとのことで車体は慣性の力から開放された。

 銀色に光っていたボディが僅かな間に泥で汚され、無様な姿となり草の上で動きを止める。

 普通ならありえない力に翻弄された車のシートで、ソフィーはぐったりと身体を沈ませていた。

 口から内臓が飛び出ると思うくらいの暴力に晒されたのである。シートベルトがあったとは言え、乱暴な運転に慣れていない身体への肉体的ダメージは計り知れなかった。怪我こそなかったが、全身を思い切り振り回された衝撃は耐え難く、嘔吐寸前になるくらいに胃のむかつきが酷い。

 めちゃくちゃな方向から加えられた重力と数度のスピンで、思考も完全に停止している。

 今はとにかく外へ出て、新鮮な空気に当りたかった。

 彼女は呻き声を漏らしつつ額を流れる冷や汗を拭うと、震える手でシートベルトを外してドアを開けた。

 力を入れられなくなった上半身をドアにもたせかけていたため、腰から上が車外へと倒れ出る。

 身体を引きずるように車から這い出ると濡れた枯れ草が身体にまとわりつき、雨粒が一斉に顔に落ちてきた。

 冷たい雫に、鮮やかな緑のカラーコンタクトをつけた目を細める。倒れ伏した身体は何とか起こすことができたが、まだ頭はふらついていて、側に何があるのかもよく見えない。

 ソフィーは視点の安定を図ろうと辺りを見回してから、ゆっくりと頭を上げた。

 そこに、見慣れた黒光りする金属が飛び込んできた。

 丸く小さなそれは、自分が持っている筈のベレッタの銃口であった。

 数歩離れた場所、彼女の頭よりもやや高い位置であろうか。何故、そんなところにベレッタがあるのだろう。

 今しがたの事故が一時的な記憶の混乱を引き起こし、ソフィーは首を傾げるしかなかった。

 しかし暗闇にベレッタを構えている人物の姿が見え、それが彼女に全てを繋がせた。

 自分に銃口を向けているのは、隣で運転していた杉田だったのだ。

「マサト、何してるの?」

 彼は銃を構えてはいても、撃つことができない人間だ。

 だからソフィーは、こくんと小首を傾げて無邪気に問い返した。

「それ、私のよ。貴方が持っててもしょうがないでしょ。返して」

 ソフィーがふらふらと立ち上がってから手を差し出しても、杉田は動こうとしない。声を媚びでほころばせて、今一度彼女は手を振って催促した。

「どうしたの?返すわよね?」 

 それでも、気弱な筈の青年は黙ったままだ。

 従うこと以外の選択肢を彼に与えていないソフィーは、そこで初めてまともに黒い瞳と正面から向き合った。

 雨の滴がついた眼鏡の奥にある目は、見慣れている筈の怯えた小動物を連想させる印象にない。

 純粋な敵意と怒りに満ち、許さざるものを全て排除する目だ。

 常に誰かを許し、何かを攻撃することを今までに思いつくことがなかったからこそ、最後に行き着くことができる邪気なき殺意。

 それは自分以外の誰かを想う心を持たないソフィーにさえ、本能的な恐怖を呼び起こさせた。

「ちょっと……マサト、やだ。そんな顔しないでよ」

 黙っていたら、心臓に冷たい手が伸びてきたような気さえした。

 初めて目にした杉田の異様な表情に圧されて半笑いになりながらも、ソフィーはまだ杉田に差し出した手を引こうとしない。

 ふと見ると、いつの間にか彼の持つベレッタの安全装置が外されていた。

 ごく自然に、長く細い指もトリガーに差し入れられている。

「やめてったら。こっちをそんな目で見ないで!」

 一向に言うことを聞かない、と言うより耳に入れようとしないと言った方が正しいだろうか。眉一つ動かさず、青ざめた唇を固く結んだ杉田の不気味な沈黙は、じわじわとソフィーの心を侵していた。

 暗く沈んだ黒い瞳に淀む怒りが、他の誰でもない自分だけに向けられている。

 その事実を、ようやく彼女は掴もうとしていた。

 彼が銃口を向けている者を許すつもりがないことを。

 命を奪うことを受け止めた上で、殺意を向けているということを。

 優しく微笑んでいた青年の冷たく動きがない表情こそが、言葉なくして語っているのだ。

「ね、ねえ。やめて、お願いだからやめて。マサトは優しいもの、私のお願いは聞いてくれるわよね?」

 今まで他者の命を、心を、欲望のままに蹂躙してきた女は、引きつった笑みを浮かべて杉田の慈悲にすがろうとする。

 が、彼にはこの哀れで、しかしこの上なく見苦しく媚びた命乞いの声など、遠くから聞こえてくる雑音程度にしか思えない。

「やめて……やめて。お願い、助けて。命だけは助けて。撃たないで!お願い、助けて!」

 詰まっていたソフィーの声が、次第に言葉を聞き取れない悲鳴に変化していく。

 生まれて初めて直面した生命の危機に絶望し、半狂乱で髪を振り乱している女の姿が晒されても、杉田の感情に波風は立たなかった。

 この赤毛女は、自分の愛する者に銃を何度も撃った。

 車が横転するような事故を起こさせた。

 それ以前に身体を縛り上げて殴りつけるような真似をして、人道的に許されない行いを重ねたのだ。

 許せない。

 許せる筈がない。

 この女の存在が、この世にあっていいわけがない。

 杉田の心は、それしか浮かんでこなかった。

 憎しみと怒りの極色彩に塗りつぶされた心が一言、声となって外に溢れ出た。

「許すものか……」

 彼の手の震えが止まる。泣き叫ぶソフィーの頭に向けられたベレッタの銃口の揺れも止まった。

 ごく自然に、杉田の人差し指は冷たい鉄のトリガーを引いていた。

 同時に、腕全体に強い反動が走る。

 これがソフィーの命を奪う行為だと、頭は嫌になるくらい機械的で冷静に受け入れていた。

 しかし。

 確かに発砲の衝撃を感じた彼の手から、ベレッタが消えた。

 手そのものは、まだグリップを握った形で宙を掴んでいる。そこにあるべき黒い無骨な金属の塊が、忽然とかき消えたのだ。

 今し方自分が下した決断のせいで、全てが現実ならざるものかのように、ぼんやりとしか知覚できない。焦点がずれた杉田の黒い瞳は、空になっている右手からソフィーへと着地点を変えた。

 すると、ソフィーまでもが消えていた。

 うるさく喚いていた赤毛女の姿は、そこに立っていなかったのだ。

 代わりに、ハイウェイのライトを受ける黒っぽい別の影が同じ場所にうずくまっている。

 突如として現れた新たな人影が歪に見えるのは、地面に膝をついて、腕に抱えた赤い髪の女を地面に横たえようとしているからだった。

「……先生」

 そこから、ひどく懐かしい声がした気がする。

 突然ここに割って入ってきた声の主は、ソフィーらしい人物を地面に置いてから立ち上がった。

 濡れた身体が小さく、細く、髪は黒く見える。

「み……」

 意識せずに呼ぼうとして、声が詰まった。

 名前の途中までを耳にした人物が、ゆっくりと顔を上げた。

 横に下げていた片手を胸まで上げ、そこに握っていた黒いものを両手に持つ格好となる。

 彼女は、左手に掴んでいたベレッタの撃鉄を慎重に戻していた。

 上がりかかった撃鉄が小さな手に深く食い込んで、ひどい傷を作っているように見える。雨に混ざった鮮血が流れ出し、白い肌を毒々しく彩っていた。

 ベレッタの安全装置がかちりと音を立ててセットされ、彼女の手が背中に回される。ジーンズのウエストにベレッタを差し入れたのだろう。

 水に濡れた草を踏む足音が更に近づき、杉田の目前で止まった。

 汚れ、びしょ濡れの服を肌に張りつけ、寒さに凍え、暴力に耐えた、少女のような姿のFBI捜査官。

 疾風の如く駆けつけた彼女が、発砲寸前となったベレッタの撃鉄の間に手を差し入れて発射を食い止め、杉田の手から銃身をもぎ取ったのだ。

 そして喚き続けていたソフィーに当て身を喰らわせて、意識を奪ったのである。

 先にハイウェイから外れて横転した車からすぐさま脱出し、走って後を追いかけて来なければ、こんな芸当は不可能だ。医者である杉田に武器を持たせて誰かの命を奪わせたくないという強い想いが、彼女に人間離れした行動を取らせたに違いない。

 いくらサイボーグとは言っても、デリケートな女性の身であるのに。

 目に見える怪我はしているように見えないが、車が横転した際に身体を打ちつけた激痛はあっただろうに。

 自分のことは構わずに駆けつけてくれ、撃鉄が手を鈍く裂く苦痛も意に介さなかったのだ。

 その彼女が、大きな瞳を見開いたままで黙っている。

 瞼の縁に涙を溜めた未来は何も言わずに頷き、杉田へゆっくりと両手を広げて見せた。

 ふらりと、冷たい水滴を纏った若き医師が前に踏み出した。

 彼の痩せた身体が、膝を折って未来の肩へ倒れ込んでいく。しかし、その背中はしっかりと細い腕が受け止めていた。

「もう大丈夫だよ。大丈夫だから……」

 精一杯の優しさを湛えた囁きが、耳元から杉田の中に忍び込む。

 最早立つ気力もない身は、未来が支えてくれていた。

 誰よりも会いたいと願った愛しき者の息遣いも、顔を寄せた髪から感じるかすかな匂いも、冷たい服の下から伝わる温もりも、全てが懐かしい。

 夜明け前、ハイウェイの光もろくに届かない荒れた大地で抱き合う二人の身に、パトカーのサイレンが遠くから響き始めていた。

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