蜘蛛の巣 -16-
ここが常温の部屋ならばきっと緊張から嫌な汗をかきまくっているだろうが、今は冷や汗など浮かべればたちまち凍りついて、余計に鳥肌を立てる羽目になるに違いない。そうなると、もう体温を上げているのか下げているのかわからなくなり、気にするのが馬鹿らしくなるのではないか。
場違いなことを考えながらも冷凍室の奥へ進む未来であったが、足跡が残らないコンクリートの床には、誰かが最近通ったような痕跡を見つけることは容易ではなかった。
緑色に塗られた床には細かい埃があるばかりで、霜などはついていない。この冷凍庫の温度管理が適正になされている証拠である。霜や氷柱がつく原因があるとすれば、余計な水分を含んだものがある場合だけだ。
そう思った矢先に大小の塊が2つ、向かいの壁際に置いてあるのが見えた。
今進んでいるのは冷凍室かなり奥に当たる場所で、両方とも薄暗い中に浮き上がっているのが確認できるくらいに白っぽい。大きさは、大きい方は未来の身長の倍以上の高さと幅がありそうだが、小さい方は大人2人で抱えられるくらいで、壁際の床の上にさりげなく置いてある印象だ。
未来はすぐにそこには近寄ろうとせず、まず瞳を凝らしてズームを絞った。
途端、強い痛みが身体の表面を襲ってくる。
凍った服の更に下にある皮膚が危うく凍気の餌食にされる寸前、未来は体温調節の機能にエネルギーを流すように意識した。
壁際にある物体は両方ともビニールシートで、小さい方はぴっちりと巻かれた工事用のそれであることまでは、一瞬のズームによって判明した。
しかし、そんなものが何故冷凍庫にあるのかが不可解だ。
未来の胸では不安がさざ波のように揺れる一方で、遂に決定的な証拠に辿り着いたのではないかという期待が同時に弾けた。
氷の服を挟んで棚に身を寄せ、肩の力を抜き、警戒を怠ることなく少しずつ中央の通路に近寄る。身を隠すものがない通路は全力で走り抜けてから、再び反対側の棚の陰に隠れた。
どきどきする胸を抑え、一番奥に転がっている霜だらけのビニールシートの塊に近づく。すると、白く見えたのは霜のせいで、実際は2つとも鮮やかなブルーであることがわかった。
未来はまず大きい方のビニールシートの塊の横へ行き、そっとシートの端を持ち上げた。
そこから姿を見せたのは、思った通り大きなタイヤと黄色に塗られた金属のボディだった。
外の倉庫にあったのよりも、やや大型の重機ロボットである。
倉庫内で使用するにしては大きめだが、トラックの荷台には十分乗せられる大きさだし、万一目撃されても何ら怪しまれることはないだろう。もう少しシートをめくらなければアームまでは確認できないが、気になるのは脇に置いてある小さなシートの包みの方だ。
床に置かれたシートの束に目をやると、何重にも簀巻きにされたシートがビニールの平たい紐で何カ所もきつく縛られたものであることがわかった。
慎重にシートの中に足先を突っ込んで端を広げてみたが、ぱらぱらと表面から霜が落ちるばかりで大して中を探れず、目にしみるブルーが白い氷の下から現れるばかりである。
未来は溜息をつくと、今度はシートを縛っているビニール紐に両手をかけた。なるべく指紋をつけたくはなかったが、この際四の五の言っていられない。彼女が力を込めて梱包用の頑丈な紐を左右に引くと、何百冊というペーパーバックの重さにも耐えられる紐の太い繊維の束があっさりと破壊され、弾け飛んだ。
同じ要領で、未来は次々と紐を切っていく。
最後に当たる4つ目の紐がちぎられたところで、ビニールシートががさりと音を立てて広がった。かなり小さく折り畳まれていたらしいシートになるべく触らないようにしながら、未来が異なる色をグリーンの床に広げていく。
乾いた、大きな折り目を何度か返したとき、不意に違う色が視界に捉えられた。
明るいブルーとの境目があまりにもくっきりした赤茶色の真円や楕円が、幾つも重なっている。無秩序に描かれた不気味な水玉模様は、大量の液体が一度に滴った跡であった。
その中には、水分の抜けきった肉の残骸や、かさかさに乾ききった黄色い脂肪のようなものもかなり大量に混ざっていた。髪の毛が絡んだ人間の頭皮らしきごみも、ぺちゃんこになってシートにへばりついている。
更にシートを広げてみると、色の濃淡はあれど、ほぼ全面が赤褐色に汚れているようだった。
顔を近づけて、臭いを確かめてみる。すると血と肉の忘れ得ない腐臭がかすかに、しかしはっきりと未来の鼻の奥を刺激した。
息を止めて、胃からせり上がってきた嘔吐感を堪える。
間違いない。
アンディとソフィーはこのビニールシートを広げ、その上で被害者の死体を解体していたのだ。ここにこびりついている血痕や組織片は乾いており、DNAの保存状態は極めて良好な筈である。鑑定を進めれば、被害者の中の誰がここで死体を傷つけられたのかということや、どのような姿勢で身体を引き裂かれたのかなど、身の毛もよだつ事実を全て明らかにできるだろう。
やっと、アンディとソフィーに被害者が直接結びつく証拠を掴むに至ったのだ。
しかしその達成感に浸る間もなく、未来は鋭く顔を上げていた。
普通の人間並にしか働かない今の聴力に、冷却ファンが立てる風の音以外の物音が後ろから上がったのが、はっきりと捉えられたからだ。
本能が教えてくれた警告のまま大きく飛び退いた未来がいた場所に、何かが落ちかかってきた。
いや。
落ちてきたように見えたのは、先に調べたロボットが覆いのシートごと、両アームを叩きつけてくる様だったのだ。強化スチールのアームがコンクリートの床に激突し、耳の痛くなるような金属の悲鳴が嫌というほど鼓膜を震わせる。
すぐそばにあったロボットに乗っているのは、アンディに違いない。
やはり彼は、未来を逃げられない状況に追い込んだ上で殺すつもりでいたのだ。
最初の不意打ちをうまく避けた未来は、ある程度予測していた戦闘に突入したことで、精神と肉体を一気に臨戦態勢へと切り替えた。
身体を流れる血という血がかっと熱を帯び、手足で待ち構えていた筋肉に注がれると、全身の感覚までが研ぎ澄まされる気さえする。
「ようやく、真打ちのお出ましってわけ!」
冷凍室内にこだまする衝突音の残響に呟きを重ね、未来はいつでも発砲できるよう握りしめていたホーネットの安全装置を弾いた。ある程度離れてからロボットの方を振り返り、改めてその全貌を確認する。
ビニールシートの覆いを三本指のアームで器用に毟り取るロボットは、高さが4メートル、2本のアームの長さが6メートル弱程度というところだろうか。足に当たる部分は6本のタイヤが取り付けられており、これのおかげで素早く走れ、平らな場所ならその場で360度の旋回も可能というのが特徴だ。
がっしりとしたタイヤで組まれた下半身の上に操縦者が乗り込む胴体部分があり、その更に上には、各種のセンサーやカメラが搭載された半円型の小さな頭が乗っている。胴体以下に比べて小さめの頭に丸い複数の目があるような顔、不釣り合いに長いアームは、ちぐはぐでユーモラスな印象だ。
それだけに、悪意を向けられた場合にもたらされる不気味さが倍増するのは皮肉だった。
「よく避けられたな。さすがはFBIってとこか」
外部スピーカーを通して発せられた男の声がロボットから響き、ロボット内部の映像が空中に映し出された。
そこには、オレンジ色の分厚い防寒着のフードまで被り、操縦席に座るアンディの姿があった。
彼は全米を騒がせ続けてきた殺人鬼だ。このロボットを使って犯行を重ねていたのなら、操縦にもかなり長けていると見ていい。
マイナス24度の低温でも電気で問題なく稼動するということは、このロボットは寒冷環境専用の作業ロボットなのだろう。常温稼働型のそれとは違って電池が特殊仕様のため、全体の設計も異なっている。
厄介なのは操縦席が鋼の板と部品で囲まれた閉鎖型で、動力部も操縦席の下になっている点である。動きを停止させるには何とか側面のロックされたドアをこじ開け、アンディを引きずり出すしかない。
しかし、手持ちの武器は破壊力の全くないホーネットのみだ。
それでも何とか戦いようはあると未来は自らに言い聞かせ、両手でホーネットを構え直した。
「往生際が悪い奴だね。大人しくしないと、あんたの身の安全は保証しないよ」
まっすぐにロボットのカメラへ銃口を向けて警告した未来に、形がないスクリーンに大写しにされたアンディが冷たい嘲笑を浴びせた。
「安心しな。そっちの身の安全なんか、最初からねえんだよ」
と、彼の平たい像が空中からかき消えると同時に、横合いから鋼の巨大な手が未来目掛けて殴りかかってきた。すんでのところで身を投げ出し、床に転がってその一撃から逃れた未来は、ロボットの手の内側が全て黒くなっているのに気がついた。
厚いゴム素材が、掌に当たる部分を覆っているためだ。このせいで、引き裂かれた被害者の身体はアームに掴まれても塗膜片がつかなかったのだ。
それにこのアームは、市販されている同型のロボットよりもかなり長い。一般のロボットには、有機体を掴むと停止する緊急回避システムが組み込まれているが、恐らくそれも解除されているのだろう。死体の解体という目的に合わせて、違法に手が加えられていることは間違いない。
未来は中央通路の手前まで全力で走り抜けると、振り返ってロボットにホーネットを3発撃った。45口径の拳銃が連続で吠え、爆発した火薬が凍りついた空気を叩き、特徴的な破裂音を撒き散らす。
黒き銃口から吐き出された弾丸は、恐ろしい勢いで迫り来るロボットの顔に狙いたがわず全て命中した。が、衝突時に平たく潰れるようなゴム弾では、金属製の顔に傷一つ与えられていない。
やはり駄目か、と床に転がる薬夾を後目に、未来が鋭く舌打ちを漏らす。
ホーネットは非致死性兵器であることが売りの拳銃で、だからこそのCVC専用装備なのだ。生物に対してなら極めて有効でも、機械にはまるで歯が立たない。
「何だそりゃ、FBIはいつからおもちゃの銃で遊ぶようになったんだ?」
迫るロボットのスピーカーから、再びアンディが笑った。
ロボットの足は車輪だけに、バランスさえ崩さなければ人の足より遙かに速く走ることができる。たちまち追いついて中央通路まで出てきたロボットは、ブレーキをかけながら手近なコンテナを掴み上げた。恐ろしい勢いで、石のように凍りついた真空パック肉が入ったプラスチックコンテナが投げつけられてくる。
未来が小さなつぶてをばら撒きながら飛んできたコンテナを横に跳んで避けた先に、次のコンテナが叩きつけられた。ロボットは手当たり次第に辺りのものを投擲してくるが、長いアームで放り投げられた際、遠心力がプラスされるプラスチックコンテナの威力は馬鹿にできない。
目標を捉えることなく次々と床に衝突し、ばらばらに破壊されるコンテナをかいくぐり、未来がロボットへと疾走する。最適な距離を計算した小柄な身体が鋭くブレーキをかけ、金属製の巨体の正面で向き合った瞬間、彼女は再びホーネットの弾丸をロボットの顔面に撃ち込んだ。
ゴム弾は、ロボットの目に当るカメラのレンズから僅かに横に逸れて命中した。
視界がなくなれば、いかに強力なパワーを誇るロボットとて役には立たなくなる。
ホーネットが破壊力に劣る銃とは言え、至近距離で急所に撃ち込めば対象を死に至らしめる威力はある。ロボットの金属ボディを撃ち抜くことはできずとも、カメラのレンズを破ることぐらいなら可能なのだ。
ただし、激しく動く2インチ(約5センチ)未満の標的に拳銃の弾丸を命中させるなど、たとえHRT一の狙撃手でも不可能に近い芸当である。が、今のところ一番有効な攻撃方法はこれくらいしか思いつかない。
辛くも狙いが外れたことを確認した未来が飛び退ろうとしたその時、またも真上から握り締めたアームが襲いかかってきた。瞬きする間に足に力を溜めた未来が強く床を蹴り、後方へ跳んで攻撃を空振りさせる。
着地時にやや崩れた態勢を立て直すため、未来が横に迫った棚に手をついて体重を預けた。
その指先が感じたのは、明らかな違和感であった。
まるで吸いつけられるような感触に、慌てて指先の温度を上げて離す。
危うく、スチールの棚に手の皮膚をごっそり持っていかれるところだったのだ。この低温の室内にある全ての金属が、触れた途端に皮膚の表面を凍らせてくっつける凶器であることに、今更ながらに気づかされる。
状況は、防寒装備を何も身につけていない未来にとって圧倒的に不利だと言って良かった。この分だと、ロボットのアームに体温調節なしで触れたら同じことになりかねない。
しかし同時に、ロボットのボディが金属であることが、未来にある可能性を示していた。
「やってみる価値はあるかもね……」
ホーネットの安全装置をかけた未来が、ぼそりと呟いた。グリップから手を離せば、やはり金属製の銃身が短時間のうちに凍りつき、もう持つことができなくなる。ホーネットを左手に持ち替えてから、彼女はみたびロボットへと突進した。
臆することなく向かってきた女性捜査官を今度こそ仕留めんと、アンディの操るロボットが両方のアームで掴みかかってくる。そのぎりぎりのタイミングを計って巨大な手をかわした未来は、側面に回り込んで一抱えもあるスチールのアームに指先を当てた。
冷えた細い指先から青白い火花が迸り、未来の服についた霜を一瞬、きらきらと輝かせた。
同時に、加速的に熱された空気の膨張する衝撃が、ばちっと派手な音を何度も周囲に響かせる。
が、未来が攻撃に使える最大の力を集中させた電撃を喰らっても、ロボットの動きは止まらない。横に振り払われたアームに逆に弾き飛ばされそうになり、未来はやむなく攻撃範囲から逃れた。
「うそ、流れていかないの!」
驚愕を声に滲ませて、未来は叫んでいた。
彼女の体内に内蔵された電池から指先の電極を経て放出できる最大の電圧は200万ボルト、電流は70アンペアに匹敵する。これをまともに浴びせられたのだから、どこかしらの電気回路がショートして内部から破壊されなければおかしい。
それでも、電撃による攻撃が失敗した理由は幾つか考えられた。
ひとつは、ロボットの内部全面が凍結対策用として、ゴムなどの絶縁体で裏打ちされている可能性。
そしてもうひとつが、未来の電流の出力が上がっていなかった可能性だ。
今の彼女は低体温症や凍傷を防ぐため、普段より多くのエネルギーを体温の維持に回している。そのせいで、考えていたよりもずっと弱い電流しか絞り出せていなかったのかも知れない。加えて、手の電極も低温の金属との接触を避けるため、最低限の面積で瞬間的にしか触れさせていなかった。そのことも、電撃の威力低下に拍車をかけた恐れがある。
生身の自分が持つ最大の攻撃手段である電撃が、事実上封じられた。
そのことは少なからず未来の精神に衝撃を与えていたが、心が折れそうになったからと言って、事態が好転するわけではない。次の手を考えて、何とかロボットの動きを止めるしかないのだ。
戦闘における環境が最悪だとは言っても、NOTSの訓練では燃え盛る炎の中に突入したり、身動きのままならない沼の中に数時間は身を潜めたこともある。
それ以前に、戦闘用サイボーグや武装集団に戦いを挑み、そのいずれにも勝利してきた。
今度の相手は重罪人ではあるが、決して戦闘訓練を積んだ兵士やテロリストではない。
こんなことで挫けていては、自分を庇って死んだP2に顔向けできないではないか!
未来は自分に活を入れると、ホーネットの安全装置をもう一度外した。
アンディは人間離れした動きを見せる未来を警戒しているらしく、10メートル程度の間合いを保ったまま手を出そうとしてこない。ただ、逃がすつもりはないらしく、広い中央通路いっぱいにアームを広げて彼女の行く手を阻んでいた。
ホーネットを持つ未来の手は酷寒で小刻みに震え、息がかなり荒くなってきている。息さえ瞬時に凍りつく低温が、確実に身体を蝕んできているのだ。
いくら体温調節機能である程度の体温は維持できても限界はあるし、その分戦闘に使えるエネルギーが枯渇していく。今の筋力も、恐らく常温下の半分程度しか働いてくれないだろう。
電撃がロボットに対して決定打にならないとわかった以上、困難ではあっても確実な手段を取るしかない。つまり、何とかしてロボットのカメラを破壊し、視覚を失わせてから操縦席のドアを壊す方法だ。
視点カメラが故障した場合の対策用として、操縦席前面のどこかに視界を確保するための窓が開く筈だ。そこが口を開けた時にホーネットを撃ち込めば、アンディに命中する確率は高い。もしくはロボットのカメラを破壊したと同時にジャンプで本体を飛び越え、アームの届かない背後からボディに取りつく手もある。
決着をつける方法は一つだけに限られないが、まずはカメラを壊すことが先決だった。
ホーネットの弾丸は予備を含めてあと10発だが、今装填されているマガジンにはあと3発しか残っていない。この分だけで、何とかカメラを壊しておきたいところだ。確実に標的に命中させるには、もっと近寄って撃たねばならない。
未来が勢いをつけて、横にある棚に向かって走り出した。
力強く床を足で叩いて鋭角的に空中へ飛び、半回転して棚に蹴りを喰らわせるように足から突っ込んでいく。天井まで届く巨大なスチール棚の柱が、サイボーグの飛び蹴りを受けて鈍い音と共に全体を揺らした。
踏み台を経た未来のしなやかな身体が、4メートルの宙へと躍る。
敵が予想外の行動に出たことに驚いたアンディは、反射的にロボットの首を空中に向けさせた。
彼が見つめる操縦席のモニターに映し出されたのは、空中で大型の拳銃を構えた女の姿だった。映像の中の女と目が合ったと同時に狙いが定められた銃口が震え、マズルフラッシュの炎が瞬間的に辺りを照らす。
ドン、と外で乾いた破裂音が響き、モニターの映像が揺れた。
もう一度同じ音がアンディの耳を打ったとき、唐突にモニターがぶつりと音を立てて黒く沈んだ。視点カメラに弾丸が命中したのだ。
未だ空中にその身が在る未来は、小さなカメラのレンズにゴム弾が当たり、細かいガラスを散らして粉砕される様をはっきりと目にしていた。
成功だ!
会心の笑みが幼さが残る顔を横切り、縮み上がっていた手足に血流を与える。すかさず通路の反対側に立つ棚の柱を蹴り、三角飛びの要領で彼女は床へ見事に着地した。
その間に、慌てたのだろうアンディがロボットを旋回させる。未来が降り立ったのが、そのために丁度黄色いボディの側面に当たる場所となった。
突如視点スクリーンが使い物にならなくなり、アンディは肉眼で未来を探しているらしい。長いアームは低い位置に下ろされて、ボディは申し訳なくなるほど隙だらけだ。
目の前に現れた操縦席を守るドアへ、未来が猛然と疾走して飛びつく。
「きゃっ!」
寸前、その口から高い悲鳴が漏れた。
硬い何かに弾き飛ばされた小柄な身体が鈍い音を上げて床に叩きつけられ、冷たい床を転がる。
重い衝撃に耐えてすぐさま起き上がった未来は、それでもまだ自分の手がホーネットを放していなかったことに安堵した。床には上半身から突っ込む羽目になったが、幸い骨折したような激痛はどこにもない。
肩と腕の一時的な鈍痛を堪えて、彼女は顔を上げた。
そして、目に入ったものを見て呆然と呟いた。
「ちょっと……聞いてないよ、こんなの」
彼女の瞳にはアンディの操るロボットに加え、寸分違わぬ外見を持つロボットがもう一体、映っていたのである。
ロボットの操縦席にすんでのところで辿り着けなかったのは、不意にアームがもう一本、横合いから割り込んできたせいだ。ジャンプで滞空していた未来はそれを避けることは叶わず、なすすべもなく叩き落とされたのである。
彼女を虫のようにはたき落としたアームは、このもう一体のロボットのそれであった。
「おいおい、別に驚くことはねえだろう?ロボットが一体だけだなんて、誰も言ってないんだからな」
どこにも破損がなく五体満足のロボットの後ろから、スピーカーに乗ったアンディの声が響いてくる。恐らくこのロボットは、冷凍庫のもっと奥に控えていたのだろう。
しかし、今この空間にいるのはアンディと未来だけの筈だ。新手は、一体誰が操っているというのか?
「こいつは色々作り替えた、俺の特別製だ。まあ自動運転だし、単純な命令しか聞かねえけどな。俺がお前をぶっ殺してやるんだから、うまく避けろよ。でないと本当に即死しても知らねえぜ」
言うが早いか、新たに現れたロボットがタイヤを軋ませてまっすぐに未来の方へ走ってきた。
その巨体は暴走する重機を思わせ、アームで何かを捕まえるのには速過ぎる速度である。
こちらを跳ね飛ばすか、轢き殺すつもりだ!
未来は攻撃側の意図を悟ると、慌てて通路の隅に身を翻した。突っ込んできた無人ロボットは更に10メートルほど余分に走り抜け、くるりと小さな弧を描いて方向を変えてくる。
今度はスピードを落とし、様子を窺っている未来へとアームを振り翳しながら再び迫った。半球状の顔で音もなくちかちかと光る目が、無言の悪意の恐ろしさを煽る。
ホーネットの空になったマガジンを素早く入れ替えた未来は、無人ロボットに背を向けて走り出した。無論、アンディの乗るそれと方向は逆である。
無人ロボットは、全力疾走で遠ざかる未来の姿を追跡し始めた。自動車のタイヤに近い足を持つ鉄の塊の走行速度は人間を遙かに凌ぐが、プロアスリート以上の脚力を誇る未来との差はなかなか縮まらない。
ロボットがもう一体増えたことで更に不利にはなっても、彼女の作戦に変更はなかった。
無人ロボットは未来だけを攻撃対象として認識しているようだが、命令を下しているのがアンディであることには間違いない。ならば、何をおいても彼を先に確保するのが妥当だ。
それに無人ロボットがどうやって攻撃目標を定めているのかということも、素人の未来は知らない。恐らく、センサーで生き物だけを区別できるようになっていることぐらいしかわからず、そのセンサーがどこにあるのか、何を壊せばいいのかも見当がつかないのだ。闇雲にホーネットを乱射して、貴重な弾丸を無駄遣いするわけにもいかない。
考えをまとめながら逃走を続ける未来の足先には鈍い痛みが走り、速度も満足に出ていないことを自覚せざるを得なかった。やはり体内電池に蓄えたエネルギーの消耗が激しく、筋力に回せるだけの余裕がなくなってきているのだ。
彼女の身体が凍りつくのは時間の問題であることが、浮き彫りになりつつある。
幸い、何列にも並んだ棚の間を不規則に走り抜けることで、無人ロボットを一時的に捲くことには成功している。足音も冷却ファンの音でかき消されるため、こちらの位置もすぐには割れない筈だ。
この間に何とかしてアンディを抑え、双方のロボットの動きを止めさせなければならなかった。
未来は足を止め、棚に並んでいるくたびれたダンボール箱の間を覗き込んだ。すると、2つ棚を隔てた先を、ロボットたちが連なって通り過ぎていくのがわかった。
アンディは外界を黙視確認できる範囲を大幅に失い、操縦するにもかなりの支障をきたしている。無人ロボットに先を行かせ、自分は少し後ろをついていくのが最も安全だと言えよう。
棚の間は、ロボットが横に2台並べるだけの幅がない。彼らに挟み撃ちにされれば一巻の終わりだが、逆に2台一度に襲いかかられることはないとも言える。
縦列の後ろにいるアンディを仕留めるには、どうにかして振り向かせ、ボディに開いた緊急用の覗き穴にホーネットのゴム弾を見舞わねばならない。簡単なのは大きな音を出して注意を引くことだが、ファンがうるさく唸る冷凍室では、並の大きさの音では効果が薄いだろう。
多少は力押しで行く必要がありそうだった。
「今度こそ、観念してもらわなきゃね」
小さく呟いてから、未来は忍び足で再び走り出した。
数秒で、2台のロボットがのろのろと進む通路の端へと躍り出ることとなる。彼らはまだ彼女の動向を察知していないらしく、タイヤに乗った金属の塊が進む速度は変わらない。
通路の奥に無防備な後ろ姿を認めた未来は、迷うことなくホーネットを3度撃ち込んだ。乾いた爆発音が立て続けに上がり、鈍く重い衝撃音が同じ数だけその後を追う。銃口から放たれたゴム弾は、全て後ろについていたロボットの背中に命中したのだ。
黒いゴム弾の残骸を張り付かせたまま、黄色い巨体がくるりとその場で回転し振り返る。正面で未来と向き合ったロボットには、よく見るとボディの右側に小さな、四角い窓がぽっかりと開いているのがわかった。
思った通り、アンディの乗っている機体だ。スチールのボディを貫く破壊力もない銃しかない未来を打ち負かすのは容易いと考えているのだろう、そのままスピードをつけてこちらに迫ってくる。
ここは平らな床の倉庫で、彼の機体は殆ど揺れることがない。ボディに穿たれた小さな窓の中に見える顔へ射撃を行うには、もってこいだ。更に走り寄ってから立ち止まり、未来はホーネットを正面に構えた。
細い指がトリガーを引き絞ると、硝煙と火薬の臭いとともに黒いゴム弾が撃ち出される。
しかしそれは僅かに狙いが逸れ、窓枠に着弾した。
弾はあと3発ある。
今度こそ外さない、と目の高さでホーネットを構え直した未来だが、そこでとんでもないことが起こっているのに気がついた。
ホーネットのスライドが戻っていない。
だらしなく、弾倉の内部を開いたホールドオープンの状態になっていたのだ。
まさか、と慌てて銃身を確認する。
弾丸がまだ込められていることは間違いない。
それなのにスライドが戻らないなど、考えうる限りでかなり酷い動作不良である。これでは暴発どころか、トリガーを引くことすら不可能だ。
こうなった原因はただ一つ、低温である。
ホーネットも従来の銃火器と同じく、撃鉄が弾丸の底に仕込まれた火薬を叩いて発火させ、銃口から弾を撃ち出す仕組みだ。そしてこの火薬が燃える時、副産物として水分が発生する。
連続して射撃を繰り返す度に内部についた水が少しずつ氷結して、とうとうスライドの動きを妨げるまでになってしまったのだろう。
「くそっ!」
未来は吐き捨てたが、敢えてホーネットを離さない。
彼女が銃を確認している間に、アンディとの距離は目測11ヤード(約10メートル)以下まで縮まっていた。
唯一の飛び道具が役に立たなくなったのだ。作戦を変更するしかない。
未来が突き出されてくるロボットのアームから逃れようと振り向いて走り出したところへ、通路の反対側に回り込んだ無人ロボットが姿を現した。
最も陥りたくなかった、挟み撃ちのポジションだ。彼女の歯の間から鋭い舌打ちが上がる。
棚の間の通路は狭く、ロボットの脇をすり抜ける際にアームに捕まる危険性は高い。攻撃の空振りを誘ってからジャンプし、機体を踏み台にして上に抜け、そのまま後方へと逃れる方がいいだろう。
取るべき行動を決め、未来は動きの予測しやすいアンディの機体へと再び走った。
幸い助走距離は十分にある。
ロボットの頭まで一気に跳ぶつもりで、彼女は力強く跳躍した。
地面を叩いた足に、少なくともいつもと同じ感覚はあった。
なのに足の裏が大きく横に滑り、身体は棚の方へ斜めに跳んでいた。
真上には殆ど行けなかったのだ。
「え……」
踏み切りに完全に失敗したことに、体温の維持が身体の末端まで行き届かず感覚が鈍っていたことに、未来は瞬時に気づくことができなかった。
驚愕の表情に彩られた黒い瞳が見開かれ、しなやかな手足が硬直する。
「叩き落とせ!」
アンディの命令が聞こえたその時、空中にある未来は何も抗う術を持っていなかった。
細い身体を、後ろからアームの黒い影が覆う。
三本指の巨大な鉄の手が、暴走車の如き絶望的な勢いで落ちかかる。
五体がばらばらに吹き飛ぶかと思うほどの衝撃が全身に響き、内臓が潰れんばかりの圧力が内側に襲いかかってきた。
無人ロボットの鉄の手にはね飛ばされ、コンクリートの床に激突した未来が上げた悲鳴は短かった。




