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蜘蛛の巣 -15-

「うわっ!」

 小さく声を上げた未来は、思わず汚れたニットに包まれた腕を上げて目を覆った。

 玄関から外へ走り出た彼女を迎えたのは、墨を流したような暗闇と土砂降りの雨であった。風もかなり強く、横殴りの雨が未来の全身を容赦なく叩いてくる。時間が何時なのかまるで見当もつかないが、周囲の様子がろくに見えないことから、夜であることは間違いないようだった。

 未来は瞬く間に冷たい雨水に薄められた顔の血糊を袖で拭い、辺りを見回した。

 先程までいた建物は開けた場所に建つトレーラーハウスで、両側に古い自転車やダンボール、破れて泥だらけになったビニールといった生活品のごみが積み上げられている。そのすぐ後ろには黒々とした森が迫っており、周囲を細々と照らしている自前らしい街灯の明かりが、ひどく頼りないものに見えた。

 聴力を上げながらトレーラーハウスのポーチから駆け出すと、深い水溜りの泥水が足元で撥ね、ジーンズの裾に染み込んでいった。12月上旬の気温は低く、氷のように冷たい雨は、みぞれに変わる直前のように思われる。

 アンディは、凍えるほどの寒さと雨の中を全裸で走り抜けていったのだ。そう遠くに行ける筈もない。

 トレーラーハウスの外壁に沿って走りながら、未来は瞳の赤外線フィルターを稼動させて暗闇に視線を巡らせた。

 すると、左手の奥に大きな倉庫のような建物が浮かび上がった。顔を打つ雨の中に目を凝らしてズームを絞ってみると、閉ざされたシャッターの横にある入口のドアが僅かに開いているのも確認できる。

 更に、その倉庫の脇に見覚えのある車が停めてあるのが見えた。

 未来の車であるダークブルーのフォードだ。

 彼女は慌てて自分のジーンズのポケットを探ったが、やはりソフィーの家に入る前に入れてあった車の鍵は見つからない。

 未来は舌打ちを漏らして前髪から滴り落ちる水滴を指先で払い、まず自分の車へと走った。助手席側に回ってドアノブを軽く引き、ロックがかかっていることを確かめてから少し後ろへ下がる。

 彼女は濡れそぼった愛車の窓目掛け、鋭い回し蹴りを食らわせた。孤を描いたスニーカーの踵が強力な鈍器となってガラスに叩き落とされ、窓が派手な破壊音と共にあっさりと粉砕される。

 続いて脱いだニットを巻いた腕をぽっかりと開いたガラスの穴から突っ込んで、内側からドアロックを外し乱暴にドアを開けた。助手席のシートを引っぺがさんばかりに持ち上げ、隠してあったFBIの身分証とホーネット、ゴム弾を装填したマガジンを2つ掴み上げる。

 ホーネットは45口径の大型拳銃ではあるが、非殺傷兵器のためこの状況にはうってつけだ。テフロン加工の黒い銃身が未来の小さな手にずっしりとした手応えを感じさせ、安心感を与えてくれる。

 銃身に片方のマガジンを装填し、もう片方を身分証とともにデニムの尻ポケットに押し込んでから、未来は氷雨の中に再び駆け出した。

 上に着ていたニットにはサイドガラスの破片がこびりついて捨てざるを得なかったため、今は濡れた薄手のパーカー1枚しか身につけておらず、寒気が急速に体温を奪っていくのがわかる。吹き付けてくる風よりも冷たくなった手を庇い、彼女は倉庫の入口の横へと足早に進んだ。

 アンディがここに逃げ込んだのは間違いないが、彼が中に武器を隠している可能性も十分にある。何と言っても、相手は今までに10人以上の命を奪ってきた殺人鬼なのだ。用心しなければならない。

 ホーネットを下げた両手に構えた未来は、聴覚を調整しながら倉庫の中へ足を踏み入れ、すぐ側に積み上げられたダンボール箱の陰に駆け込んだ。警戒を怠ることなくダンボールの向こう側の様子を窺うと、倉庫の内部に無数の巨大なスチール棚が規則正しく並び、その間がビニールパックやプラスチックの折りたたみ式コンテナで埋め尽くされている様子が目に入ってくる。

 赤外線フィルターのお陰で中は電灯の下と同じように見通せるが、実際には明かりが殆どない。陽の光が全くない今現在は、緑色の非常灯だけが寂しげな光を冬の空気にちらつかせているだけだ。

 ふと入口付近の床を見ると、濡れた裸足の足跡がまっすぐ奥へと続いているのが見えた。

 間違いなくアンディはここに逃げ込んだのだ。

 ポテトチップスやスポーツドリンクのロゴが描かれたダンボールを背にし、未来が聴力を更に調整する。フィルタ機能に意識を集中させて外の激しい雨音を限界まで排除すると、かすかな足音がそう遠くない場所で移動していることがわかった。しかも平たく硬いものが石の床を擦る音を響かせているようで、裸足の足音ではない。

 ここは見たところ食料品の倉庫のようだが、靴や衣類もあるのだろう。アンディは逃げながら、それらを身につけたに違いない。

「精密機械並みの探知能力を持つサイボーグが相手なのに、逃げる途中で着替えるなんて。大した余裕じゃない」

 未来は呟いて、不敵な笑いに口許を歪めた。

 しかしアンディがこの暗闇の中でどこに何があるかを掴んでいるということは、ここは彼がよく知っている場所であり、未来にとっては不利であることに同時に気がついた。

 未来の位置からでははっきりとはわからない足音の発信源は、止まったり動いたりを繰り返している。彼がすぐに出て行かないのだから、この倉庫で他に脱出できる出入口がないのか、こちらと一戦交えるつもりでいるかのどちらかだろう。

 未来は踵を浮かせて立ち上がると、忍び足でダンボールの壁の間を移動した。滑るような動きで棚の隙間から隙間へと走り、壁を背にしてしゃがみ、辺りを見回すことを繰り返す。

 真夜中の倉庫には全く人の気配がなく、がらんとした空洞の中で撒き散らされる自分の白い吐息の方が目立つ気がする。外で荒れ狂う雨と風より、自らの息遣いのほうが気になるのだ。

 夜気で塗りつぶされた倉庫の中、11ヤード(約10メートル)以上はある天井近くまでそびえる棚に収まっている商品で目立つのは、オートミールクッキーやシリアルなど加工品を中心とした食料品だ。かと思うと、奥にある棚には玉ねぎやブロッコリーのような青果を入れていると思しきコンテナがあり、納品をチェックするための小さな机にはつぶれたホッチキスの芯が散らばっていて、納品伝票の束が重ねられているのが見える。

 そして荷捌きに使っていると思われる小型ロボットたちも、壁際に沿って置かれていた。目立つ黄色に塗られたボディは、非常通路を示す緑色の明かりで輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。

 ロボットは道路工事で使われるのと同じタイプで、足が車輪になっており、2本のアームが取り付けられているものが殆どのようだ。電気を活力としている彼らは充電器に繋がれたままぴくりともせず、エネルギー充填中を示すオレンジ色のランプを操縦席でちかちかと光らせて、静かな眠りについている。

 そう言えばティアーズの被害者の身体には、玉ねぎの皮やクマネズミの糞、ホッチキスの芯も付着していた筈だ。

 アンディとソフィーは、この倉庫の中で被害者の死体を解体していたのだろうか?

 そこまで思い至った未来は、辺りの床が血と臓物だらけになっている様を想像してしまい、思わず顔をしかめた。ここに並んでいるロボットを使って犯行を重ねていたのかと考えると、吐き気がこみ上げてくる。

 が、今まで通ってきた床に全くその痕跡がなさそうなのは不可解だ。

 血の跡は水で洗い流したくらいでは落とし切ることができず、床を剥がして取り替えなければ完全な隠蔽は不可能だと、現代でも言われているくらいなのだ。

 彼らの犯行現場はここではないのだろうか?

 するすると奥へ移動する未来が疑問を感じた時である。

 金属が軽く擦れ合い、ぶつかる音が響いてきた。そこに、早いリズムを刻む足音が重なり、次第に遠く小さくなっていった。ただし、風雨が吹き込んでくる空気の摩擦音が聞こえてこないことから、アンディが外に出たのではないことは明らかだ。恐らく、別の倉庫に通ずるドアがもっと奥に控えているのだろう。

 未来はチョコレートバーの棚の陰から奥の様子を窺い、安全を確認してから音がした方へ急いだ。

 問題の場所へ近づくにつれ、大型の機械が唸るような重低音が空気に重みを加えてきているのがわかる。そして、倉庫の入口付近よりも冷たい空気の流れがあるように思えてならない。冬の雨に濡れたデニムやパーカーは、薄い氷の衣のように肌にまとわりついて体温を奪い続けているが、それでも室内で更なる気温の低下と強い空気の流れがあると錯覚するとは思えなかった。

 急激な体感温度の変化を不審に思いながらも冷えた肌を手で擦って進む未来が、ふと足を止めた。

「……なるほど」

 倉庫の一番奥に辿り着く直前、身長よりも高く床に詰まれた発泡スチロールの梱包材の山から顔を覗かせた未来が頷いた。

 突き当たりの壁に金属製の大きな観音開きのドアがあり、そこに作られた僅かな隙間から明かりが漏れている。鉄のレバーを抜き差しするタイプの古風な錠は、つい先程手荒に開けられたばかりらしい。強化された聴覚に、金属が揺れた際に上げる軋みが僅かに運ばれてきている。この型の錠はしっかりと密閉しなければならない場所につけられるものだが、ドアの向こうから足元に流れてくる冷気がその理由を物語っていた。

 この倉庫の中にあるもう一つの部屋は、冷凍室になっているのだ。

 アンディは衣服と靴を手前の倉庫で手に入れて、この中に入っていったのだろう。

 しかし、彼が何故わざわざこの中に逃げたのか。

 普通に考えれば、冬用の服を着ていても凍死する危険がある冷凍室へ隠れるなど、自殺行為のはずだ。

 罠かも知れない。

 が、単純に外へ出るための最短距離が冷凍室を経由するルートである、という可能性も捨て切れなかった。どの道、このまま躊躇していては、まんまとアンディに逃亡されてしまうことは確実だ。

 未来は濡れた薄手の衣服を纏っており、冷凍室の中であまり長くもたせることができないのは既にわかっていることだった。体内電池を使って体温をある程度調整する機能はあったが、せいぜい手足の凍傷を軽くし、壊死させない程度にするのが関の山である。

 低体温症に陥る前に何とかアンディを捕まえて、外に出る覚悟を決めるしかない。

 未来は床に落ちていたぼろ布でホーネットと手の水滴を拭い、改めて構え直した。

 スチールの扉は見るからに頑丈そうで、「Danger!」という警告のブロック体が躍る黄色いステッカーが貼られている。彼女はがっしりとした防熱扉に手をかけると、狭い隙間に身体を滑り込ませた。

 中に数歩進んだだけで凍てつく風が冷えた肌を鋭く突き通し、パーカーやデニムの端が白くごわごわに凍っていく。

 未来は急いで意識を集中させ、体温調節機能の作動を試みた。

 冷え切って萎縮していた毛細血管に身体の中心から暖かい血液を送り込まれると、かじかんでいた指先にはすぐ感覚が戻り、動かしにくさが消えるのが実感できた。

 これうすれば暫くは動けるだろうが、気を抜けば強烈な冷気があっという間に全身を蝕むことは確実だ。加えて体温調節機能使用の際は、体内電池の消耗も激しくなる。活動のための適温を維持する分、他に回すエネルギーを抑えねばならないのだ。

 冷凍庫の中は非常灯以外にも薄い明かりがついているが、未来の瞳は赤外線フィルター以外にも熱反応センサーや金属探知機能など、複数のセンサーを稼働させている。これらの機能を停止するのは目隠しされた状態になるのも同然で、やすやすと切り捨てるわけにはいかなかった。

 あとは聴力強化を犠牲にするしかないが、もともと大型の冷却ファンがひっきりなしに唸りを上げている室内である。ここで相手の足音や心音を探るのは、恐らく困難な筈だ。

 未来は短時間で判断を下すと、聴力を通常の感度に戻した。

 その間にも、みるみるうちにパーカーのフードや袖が、デニムの膝下が凍りついていく。

 襲い来る冷気は寒さを通り越し、もはや痛みに感じられるレベルだ。雨でずぶ濡れになった普通の人間なら、10分足らずで動けなくなってしまうだろう。

 このまま体温を調節し続けて、長くもっても20分というところだろうか。

 未来は白い息を吐き散らしながら、辺りの様子を確認した。

 冷凍室にしてはかなりの大きさがあり、幅も奥行きも軽く50メートルはあるだろう。ちょっとした地方都市の市場に備え付けられた冷凍庫並みの広さくらいはある、と言える。

 ただし、中にあるもの自体は普通の倉庫とそう変わらない。防熱扉から一番太い通路が伸び、その左右に金属製の高い棚が所狭しと並べられ、それぞれの棚板に冷凍食品やパック肉が詰まったダンボールが整然と積み上げられている。外と様子が異なるのは、壁が波打った断熱素材に覆われており、ロボットが見える範囲にないことぐらいだろうか。

 断熱扉の横の壁には温度計が取り付けられており、室温はマイナス24度に保たれていることが確認できる。予想以上の低温に晒されていることに顔をしかめてから、未来は一番手近な棚の陰に走った。

 試しに少しだけ聴力フィルターを稼動させたが、やはり聞こえるのはファンで撹乱される空気の音ばかりだ。しかしそれだけでも指先が鋭く痛み、感覚が失われていくのがわかった。慌てて体温調節機能の稼動率を元に戻す。やはり他の機能にエネルギーを回すことは身体能力を鈍らせ、生命の危機を招きかねない。

 彼女は強いまばたきで睫毛についた霜を落とすと、人の気配が近くにないことを探ってから冷凍室の奥へと走った。

 ところが、彼女が冷凍ピザの箱が押し込まれた棚の後ろまで数回、移動を繰り返したした時である。

 背後でがしゃん、と厚い金属が衝突し合う音が響いた。

 反射的に棚の陰から振り返った彼女が目にしたのは、今まで開いていた筈の断熱扉が閉まり、錠になっている太いレバーがずれてがっちりとロックをかける光景だった。

「ちょ……ちょっと待ってよ!まさか……」

 思わず小声で漏らしてから引き返しかけた足を、未来は止めた。棚の陰から通路に出る手前で顔だけを覗かせ、瞳のズームを断熱扉に向けて絞る。大きな錠の部分を拡大すると、がっちりと嵌った金属棒が閉ざされた扉を更に固く守っており、「LOCK」の文字が赤く浮かぶランプも扉の横に点っていることがわかった。

 扉のロックは機械式で、人力で開けられるような構造ではない。更に扉の近くには幾つもの制御パネルらしい金属ボックスが見えるが、一体どれが扉のロックを操作するものなのか、素人の未来にはまるで見当がつけられなかった。

 遠隔操作を使い扉をロックしたのは、間違いなくアンディだ。今慌てて出口の確保に向かえば、無防備な背中を晒すことになってしまう。彼が冷凍室のどこにいて何を隠しているか不明な状況下では、危険極まりない行動だと言えた。

 彼女は一旦壁際まで後退すると、全面を覆っている厚い断熱材を指先で押した。

 断熱材はウレタンらしき発泡材を樹脂で裏打ちしてあるようで、厚さが数センチはある。指先を押し込んでみると強く跳ね返ってくるのがわかり、思ったより弾力と衝撃の吸収力がある素材のようだ。そしてその後ろには、更に厚い倉庫本体の壁が控えている。

 筋力を10倍程度に引き上げてくれるハヤテを装着していれば話は別だが、これでは未来のパワーでも短時間で壁を破壊し突破することは難しいと見ていいだろう。

 もしアンディを捕まえられなければここに閉じ込められて凍死することは必至だが、あそこまで手の込んだことをして自分を拉致してきたのだ。慌てては相手の思う壷だし、このまま凍りつくのを待ってくれるほど生易しい敵であるはずもない。

 殺人鬼のアンディは、絶対にこの中にいる。

 何人もの命を勝手に奪ってきた彼を捕らえずして、死んでなるものか。

 未来は凍気に当てられた身体と一緒に縮こまりそうな心を叱りつけ、再び奥へと足を進めることにした。


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