蜘蛛の巣 -13-
先生、と危うく言いかけるところであった。
「ここに、兄さんもいるの?」
うろたえて、未来はアンディと呼ばれた男とソフィーの顔を交互に見やった。彼女の声がうわずったのは半分演技であったが、半分は本気で動揺したせいだ。
やはり、ソフィーもアンディもすぐに答えようとはしない。
先も未来に質問の答えを返さず、結局ははぐらかした。彼らが未来を支配し、思うまま操ろうとしていることは明らかだ。
10秒ほど無言の間を保ってから、アンディがベッドの上でぞんざいに絡んでいたシーツと毛布を脇へ避けた。
「さっきからずっとここにいるぜ。気がつかなかったのか?」
ベッドの方を振り返った未来の心臓が大きな音を立てて跳ね上がり、呼吸が瞬間的に止まる。
アンディが座るベッドの奥に、ぐったりとうつ伏せになっている杉田の姿があった。顔をこちらに向けてはいるが瞳は閉ざされており、痩せた身体の上半身は、眼鏡以外に何も身につけていない。
そして、やや青ざめている裸身はぴくりとも動かなかった。
倒れていた未来の身体が、肘で床を叩いて跳ね起きる。
逸る気持ちを抑えた彼女は、まず聴覚を最大にして心音を全力で探った。
この部屋にある鼓動は、自分のものを入れて4つだ。
そのいずれも不規則になっていたり、極端に弱まっているものはない。念のために呼吸音も拾ってみたが、全てが安定したものであることがわかった。
これなら大丈夫だ。
杉田は恐らく、命に別状がない状態で生きている。
しかしとりあえずの無事が確認できたのはいいが、ここで少しも取り乱さないのは、ソフィーやアンディに不審がられるだろう。
未来は膝をついた姿勢で前のめりになり、泣きそうな顔を作った。
「先生……ねえ、先生!大丈夫?私の声が聞こえる?先生ってば、返事してよ!」
甲高い声に日本語を乗せ、未来は声の限り呼びかけた。家具の少ない横長の部屋に、悲痛さを感じさせる声が響いていく。
杉田に聞こえていないはずはないのに、彼は全く反応を示さなかった。呼吸も心音も安定しているのだから心配ないだろうが、気を失っているという可能性もある。
「心配すんな。こいつは、さっきまでピンピンして楽しんでたんだ。今は疲れてこうなってるだけだよ」
アンディが杉田の顎に手をかけ、まだ不安と心配をこびりつかせた表情でいる未来へ顔を差し向けてやった。
すると、杉田は微かな呻き声を上げた。意識が朦朧としているのか、彼はアンディにされるがままだ。
今更ながらに、未来は愛する男があられもない姿にされていること、アンディもまた裸であり、ブラックヘアの犯人がゲイであることを頭に閃かせた。
杉田が暴行されていたであろうことは、誰の目にも明らかだ。
身体の底から突き上げられたような憤怒が、未来の口から迸った。
「てめえら、この人に何を……」
しかし彼女が本気で上げたかけた怒号は、ソフィーに激しく胸を蹴りつけられたせいで中断された。起き上がっていた未来は再び肩から地面に突っ込み、横倒しにされた。肺に受けた衝撃で、息が詰まる。未来は先よりも激しく咳き込んだ。
「さっきからうるさいわね、ヨーコ。あんた、自分の立場ってものを弁えてる?どうして、私たちがあんたなんかの質問に答えなきゃなんないの?」
加減することを知らないソフィーは、未来の胸板を力を込めて思い切り蹴り下ろしたようだ。未来が普通の身体をしていたなら、肋骨にひびくらいは入っていただろう。
だが、これくらいは杉田が受けていただろう痛みに比べれば、屁でもない。
むしろ暴行を加えられて、怒りはそこそこにおさまっていた。杉田と2人、何とか窮地を切り抜けるためには、決して感情に飲まれてはならないのだ。
荒い息の下、未来はありったけの敵意を込めてソフィーを睨みつけて見せた。
「こっちを見ないでよ、気持ち悪いから。その黒い目って、本当にむかつくわ」
自分こそ人間のふりをしただけの生き物のくせに、嫌いという感情はあるのか。
未来はソフィーへの侮蔑を込めて、今度は床から嘲笑を叩きつけてみることにした。
「へえ、だから自分の髪と目の色は変えてるってわけ。同族嫌悪って奴?だから余計に、作りものくさく見えるんだ」
言い終わるか否かのうちに、無言の蹴りが今度は未来の腹に叩き込まれた。
「く……!」
未来が初めて呻き声を漏らし、縛られた身体をくの字に曲げた。
強化された身体とは言え、流石に少しはきつい。
ソフィーは図星を突かれてよほど癪に触ったのか、そのまま何度も未来の身体を爪先や踵で蹴り続け、体重を乗せて激しく踏んでくる。未来の上半身を包む白いニットが、たちまち黒い靴跡だらけになっていった。
「おい、いい加減にしろよ。俺の楽しみがなくなっちまうだろ」
「大丈夫よ。こいつ、まだ笑ってるもの」
ソフィーは赤い髪と呼吸を乱しながら未来の顔を踏みつけ、アンディの制止する声に応えた。
彼女の靴の下にある未来の頬は腫れて歪み、汚れと痣がつきながらも、口許の不敵な笑いが消えていない。
相手に少しも苦痛を与えられていないことが、ソフィーの神経を逆撫でした。足を未来の顔からどけると、両手でニットの襟を掴み、乱暴にか細い半身を引き起こす。
「私ね、アジア人て大嫌いなの」
あまり顔を寄せず乱暴に言い放つと、ソフィーは未来の上半身を床へ再び叩きつけるように放り出した。
「だから貴女も大嫌いよ、ヨーコ」
「そいつはどうも。ついさっき、私もあんたが大嫌いになったところだよ」
背中から後頭部を打ちつけんばかりに転がった未来であったが、痛みを堪えつつなお憎まれ口を呟くだけの余裕はまだある。
しかし、相手を怒らせて会話を長引かせるのにも限界があった。自分一人しかこの場にいないのならまだいいが、あまり彼らを激昂させると杉田にも害が及びかねない。性格異常者の犯人というのは、本当に扱いが難しいと実感する。暴行を受け続けてなお平然としているのも、余計な疑いを持たせてしまうだろう。
「何?聞こえないわ。言いたいことがあったら、はっきり言ってみるのね」
歯を食いしばり、身体を曲げて痛みに耐える未来をソフィーが見下ろしてくる。
どうせ何を言っても暴行の種にしかしないのだろうが、この辺りで抵抗を一度引く必要があった。顔を上げた未来が、血が滲む口で今一度問いかけてみる。
「私をどうするつもりなの?」
不安に声を揺らしつつもまだ冷静さを保っているように見える未来に、ソフィーは小首を傾げて見せた。
「へえ、そこで寝てるマサトのことはもう心配しないのね。意外だわ」
「こいつはさっきまで、大声でよがって楽しんでたんだぜ。心配するまでもねえんだろう」
2人の女のやり取りを見物していたアンディに、下衆な笑いが浮かんでいる。
彼が杉田の下半身を覆っているシーツの下に片手を滑り込ませるのを目にした未来は、怒気を露にして眉を吊り上げると、肘で床を叩いて跳ね起きた。
「黙れ!その人に、それ以上触るな!」
犯罪者を威嚇するときにしか出さない低い声に乗った未来の迫力が、狭いリビングを制圧しかける。しかしそれさえも面白がっているのか、アンディの態度は軽い。
彼は更にシーツを持ち上げ、杉田の汗に濡れた肌を未来に晒そうとする。
「何だ、お前も見てみたいのか?」
「そんなわけあるか!てめえら、絶対に許さない。たとえ神様が許したって、私が地獄の底から永遠に呪ってやるから!」
腫れ上がった顔を痛みに歪ませ、それでも勢いを少しも落とさず未来がアンディに食ってかかる。だが、ソフィーは未来の顔をブーツの底で打ち据えた。
容赦ない蹴りを受けて、未来は声も上げる間もなくまたフローリングに倒れた。鼻を直撃されて激痛に声も出せなくなった未来が、床の上で縛られたままうずくまる。
「不細工な顔で、汚い文句を並べないでくれる?私たちの耳が腐っちゃうでしょ」
ソフィーが吐き捨ててから、汚物でも見るような目で震えている未来を一瞥する。その際、革のブーツに未来の鼻から散った鮮血がこびりついているのに気がついたらしい。歯の間から鋭い舌打ちを漏らした。
「やだ、汚らしい血もついたじゃないの!」
ソフィーはすかさず右足を倒れている未来の腹に当て、白いニットに爪先をねじ込むようにして擦りつけて血糊を拭き取る。目の端に涙を滲ませながらも、まだ挑戦的な瞳を捨てない嘗ての友に気が収まらないのか、彼女はすぐ後ろにあるデスクの引き出しを開けて中にあるものを取り出した。
「そうね。あんたたち二人揃って、面白い格好にしてから放り出してみるのもいいわよね」
まだ乱れた息の下、初めて含み笑いを見せたソフィーが右手に握っているのは、アメリカで最も手に入りやすい拳銃のひとつであるベレッタM92だ。
自分が激しく反応し過ぎて必要以上に彼らを刺激したか、と未来の身体に緊張が走ったが、すぐにM92の口径が9ミリであることを思い出した。ティアーズの被害者の体内から見つかっている弾丸も9ミリだったはずだ。
「面白い格好って、何のこと?」
鼻血が肌を伝っていく不快感と鈍痛に顔をしかめながら、未来が掠れた声をソフィーに向ける。もともと小づくりな童顔に流血を伴っているだけ、痛々しさは増すばかりであった。
「ニュース、見てないの?最近、アジア人の男ばっかりが死んでるでしょ」
ソフィーはベレッタの引き金に指をかけると、無造作に銃口を未来の頭に向けた。
未来の腫れで細くなった目が、静かに理性の光を閃かせる。
遂にソフィー自ら、ブラックヘア事件のことを唇に上らせたのだ。
特殊通信が通じていることを信じて、犯人しか知り得ないことを話させるしかない。
顔の角度は変えず、未来はちらりとベレッタの側面に視線を走らせた。安全装置はかかったままになっているのが見える。
ソフィーはただ脅すだけのつもりなのか、すぐに殺す気はないのだろう。
万一の場合もこの距離なら、足のロープだけ引きちぎって体当たりを食らわせれば、速さで何とか勝つことができる。
未来は確信すると呼吸の間隔を短く早めにして、狼狽しているふりを装った。
「……まさか、あんたたちが、あの事件の?」
言葉も途切れさせつつ、視線だけはソフィーを観察することを忘れない。
未来の後頭部には、目で捉えた全てを記録するメモリが挿入されている。そこに彼女の本性を全て暴き出すつもりでかからねばならないのだ。
「さあ。そうしたら面白いと思っただけよ」
「あの事件では、男しか狙われなかった筈じゃない。なのに、何で私が!」
はぐらかしたソフィーに、未来が声を裏返らせて金切り声を張り上げた。
ソフィーは面倒そうに鼻を鳴らすと、改めて銃口を突きつけてくる。
「でも、そうね。あんたをあんな風にするつもりはないわ」
「殺さないでいてくれるの?」
我ながら他人の瞳に見苦しく映るだろうと思うほどの媚びた色を込めて言い、未来はすがるようにソフィーを見上げた。
「違うわよ。普通に殺すのはつまんないってこと。どう殺されてたかってことはニュースじゃ残酷過ぎて伝えないから、あんたは知らないでしょうけどね。私が持ってる専門の本に、そういう写真がいっぱいあるわよ」
今まで自分が殺した人々の姿を思い描いているのか、ベレッタを構えたソフィーは視線を左上に逸らしている。何を言っているのか理解できない、と未来は首を傾げて怪訝そうな表情を作った。
「要するに、あんたをここから逃がすつもりはないってこと。後始末をどうしようかってことだけ、迷ってるところなの」
しかしソフィーは銃の安全装置を指で弄んでおり、口から出す言葉は相手を脅すためのものではなく独り言のようで、視界に未来を入れようともしていない。
彼女が被害者を虐待することに性的興奮を覚えるタイプの異常者なら、この状況に刺激を覚えて高揚した様子を見せそうなものだが、どうも違うらしい。
ティアーズの事件現場はちぐはぐな印象を受ける、と確か心理分析官のポールが言っていた。もしアンディが被害者を殺して欲求を満たし、そこまでの計画と課程を考えたり、残虐行為を見て楽しむのがソフィーなら、犯行に異なったタイプの特徴が混ざっていることも納得がいく。
それに彼女は、自分が研究に使う専門書のことも口にしていたではないか。
やはり大学で学んだことを、犯行の材料にしていたのだ。
「あんたたち、何回もこんなことをやってるの?そこにいる奴と一緒に?」
暫し考えをまとめるために口をつぐんでいた未来が、まだベレッタの安全装置を指先で触っているソフィーに声を震わせて言った。
「いけない?」
ソフィーは、鮮やかな緑の瞳を床で呻く未来に向けようとしない。開き直るわけでもなく、感情が込められてもいない、突き放した印象をもたらす態度だ。
未来にとってはありがたいのは、ソフィーがこれが誘導尋問だとは露ほどにも思っていないのがわかることだが、抵抗する力を持たない者にとっては血も凍るほどの恐怖を感じるそれだろう。
「誰だって、嫌いなものはあるじゃない。それが人か物かだけの違いよ。貴女だって、むかつく奴を殴りたいって思ったことがあるでしょ?」
肯定も否定もせず論点をずらすのは、宙ぶらりんな状態であることを相手に聞かせれば不安を煽れるのをわかっているせいだ。そして彼女は、そうやって人を不安に陥れるのが悪いことだと、全く思っていない。聞かされる方が不愉快になるほど落ち着いていられるのも、どんなに犯行を重ねてきても逮捕されなかったことに自信を持ち、余裕があることの証拠である。
未来はやや疲れてきた首を伸ばしてきっと顔を上げると、怒りの演技を続けた。
「だからって、こんなことをやっていいと思ってるの!」
「アジア人を傷つけたって、私は痛くないもの」
何の躊躇もなく返してくるソフィーには、未来が目を覚まして以来全く態度に変化がない。今までに何人もの凶悪犯を逮捕してきた未来であったが、恐るべきパートナーを得た女の殺人犯でここまで動じない人物は初めてだ。
ソフィーとアンドリューが2つの事件で殺してきた被害者は、ざっと11人である。
いや、もしかしたら余罪もあるかも知れない。
彼らが隠しているおぞましき闇は、白日の下に晒すべきだ。
良心というものを切り捨てている人間を、決して許すわけにはいかない。でなければ、理不尽に命を奪われた人々の魂が永遠に浮かばれないのだ。彼らの痛みに比べれば、犯人の女に足蹴にされて顔を傷つけられることぐらい、屈辱ではあっても堪え切れないものではない。
「嘘でしょ」
俯いた未来が発した呟きは低く小さなものであったが、抑え難い怒りをわななきに変えた未来の誘導尋問はまだ続いていた。
「何が?」
肩を震わせる未来を恐怖で支配していると思っているのだろう、ソフィーはやはり面倒そうにしか答えてこない。
「アジア人だけじゃなくて、誰を傷つけても痛くないくせに」
「ああ、そうね。自分じゃなければ、みんな同じだわ」
今度は軽い笑いを交え、ソフィーはベレッタのグリップを持ち直した。
「私が好きなのは、生きてる誰かが苦しむところなの。そんなの、滅多に見られるものじゃないしね。自分が痛いのは最高に嫌だけど、痛みで誰かを好きにできるのは最高よ。身体も心も、同時に私が自由にできるんだから。あんたを殺せば死ぬ瞬間に私のことしか考えられなくなってるわけだし、その後に身体をどうやって扱おうと、私の自由になる。どんな相手でも、好きなだけやっつけられるんだもの。本当に最高よ」
どこか現実感のない台詞を長々としゃべる様子が、夢遊病者を思わせる。ソフィーは右手の銃を惚れ惚れと眺めているようだったが、彼女の視界には一体何が捉えられているのか、まるで見当もつかない。
この作られた赤毛の娘が口にした言葉の端々には、これまでの事件を裏付けるキーワードが幾つも含まれている。
しかし、あの武器を見つめる緑の目の不気味さは計り知れない。瞳孔の大きさが全く変わらない瞳は、心を持たぬ人形の顔に嵌め込まれた色つきガラスと同じだった。濁ることを知らず、どこまでも透明に、純粋な邪悪さを秘めることができる禍々しさを放っているのだ。
ソフィーの全身に淀んでいる黒い気配がじわりと忍び寄ってきた気がした未来は、これ以上の言葉を発するのは危険だと本能が警告するのを感じていた。
彼女は側に立つソフィーから瞳を逸らしたが、今度は逆に視線を向けられてくるのがわかった。
「あーあ。折角、ヨーコが悲鳴くらい上げて怖がると思ってたのに。銃を向けても全然平気みたいだし、どうしてそんなに度胸が据わってるの?」
ソフィーはベレッタの銃口にふっくらとした唇を寄せると、未来の横にしゃがみ込んできた。
いつの間にか、ベレッタの安全装置が外されている。




