蜘蛛の巣 -11-
未来が動作を止めたのはほんの僅かな一瞬で、ソフィーは友人の緊張を見抜いてはいない。
赤毛の後姿がのんびりとトイレの方に向かって立ち上がったのがその証拠で、未来は肩に込められていた力を意識して抜いた。
「……気持ち悪」
日本語で一言こぼすと、少し気分が落ち着いた気がする。
先のソフィーの異常な気配は主観的なもので、ソフィーに不信感を抱き始めている自身の偏見も反映したものになっていたのだ。そう自身に言い聞かせた未来は、空になった2枚のケーキ皿を持ってカウチから立ち上がると、キッチンへと向かった。木のカウンターの向こう側へ回り、シンクへ皿をそっと置く。
シンクは乾き切っているが白い水垢は全く見えず、殆ど使われた様子がない。ガスレンジの下に備え付けてあるガスオーブンの取っ手にも薄く埃がついており、ろくに料理に使われたことがないのは同じようだった。
しかしそれとは対照的なのが、冷蔵庫の前を殆ど塞ぐように置かれているごみ箱である。
比較的大きなごみ箱から溢れ出ているのは、食べ残しがこびりついた捨てられて間もないと見える、冷凍食品の皿が大半だ。それも、同じピザやグラタンの皿がきっちり2つずつ重なっているのも気になる。
2つずつ同じ食品が同じタイミングで捨てられたということは、誰かに食事を出していたということだ。
ストーカーの影に怯えていたソフィーだが、確か相談できる女友達は未来しかいないと言っていた筈だし、誰かを巻き込みたくはないと常々言っていた。なのに、誰とこのリビングで食事をしていたというのだろうか?
そしてごみ箱の周りには捨て切れないビールやコークのボトルが散乱しており、その間からは割れた皿の破片らしき細かい陶器の破片が散らばっているのも見えた。それも割れたのは1種類ではないらしく、様々な模様や色の鋭い欠片が混ざっている。更にリビングとの仕切りとなっている壁には、目の高さのところで4インチ(約10センチ)程度に渡って壁紙が切り裂かれた跡があるのがわかった。
「あいつは感情を抑えられなくなると、刃物を投げてくるような女なんだぞ……」
未来の中に、ラルフから聞いた話が蘇る。
ソフィーのことを知れば知るほど、彼女が未来に向けていた態度と噛み合わないのがわかってくる。
この部屋に入った時、いや、それよりもずっと以前から感じていた違和感の正体は、この矛盾だったのである。ソフィーの話の端々に嘘があることを未来の本能が感じ取り、散々警告音をやかましく鳴らしていたのだ。
急に、このキッチンでじっとしていられない衝動が起こった。
このアパートの一室で自分が異質な存在であるという自覚がそうさせたのか、自然と足が瑞々しいアネモネの花の飾られている窓辺へと向く。
ソフィーの牙城において、そこもまた切り離された場所であると未来には感じられたのだ。
しかし、アネモネが活けられた花瓶の隣に座っているジューン人形も同時に視界に捉えられ、やはり落ち着かない。
人形の服は花柄の上品な布を使った丁寧な造りで、アメリカ開拓時代の女性が纏っていたようなデザインのドレスだ。愛らしい少女の顔をした人形と花束とは釣り合いが取れた組み合わせではあるものの、いささか過剰な少女趣味の一角が荒れた部屋に突然現れたとなると、やや不自然な気もした。
厚い直方体のガラスでできたシンプルな花瓶に活けられたアネモネは今が盛りのようで、5輪ほどで束ねられたどの花も見事に咲き誇っている。きっと花屋でうまく保管されていたか、手入れが
行き届いているかのどちらかだろう。
杉田が好きな花だと明言し、楽しそうに花言葉や伝説について語っていたのが、このアネモネだ。その花が女友達の部屋にあるというだけで、まるで彼が彼女のために活けたようだとありえもしない嫉妬を抱かせようとしてくる。
しかし未来の暗い負の感情は、花束全体をよく見ようとし意識せずに瞳のズームを使った時、吹き飛ぶこととなった。
ガラスに囲まれた水の中で、黒いものがゆらゆら揺れている。
細く、黒い糸のような何かだ。
ソフィーがまだ戻ってこないことを確認し、思い切って花束をそっと花瓶から持ち上げてみた。
水が滴り落ちる茎の真ん中辺りから黒い糸が垂れ下がり、一段低い場所から水の玉をぽたぽたと落としている。手で触れてみると、その黒い糸は5本ほどに枝分かれして未来の指先を濡らした。
糸ではない。
黒い髪の毛だった。
根本は真ん中の一輪に、束にされてしっかりと結び付けられている。
ソフィーの髪とは明らかに長さと色、髪質も異なっている髪の毛だ。そして更にズームで見てみると、全ての髪には毛包部がついていることも判別できた。
DNA鑑定には毛包がついた髪が5本以上必要だと、以前杉田が話していたのを聞いたことがある。自然に抜け落ちた頭髪には毛根部がないため、この髪の毛は誰かが地肌から引き抜いてアネモネの茎に結びつけたことになる。
あなたを信じて待つ。
杉田が姿を消す直前に教えくれた、物言わぬ花が密やかに持つメッセージ。
そしてそこに隠されていた、明らかにソフィーのものではない髪の毛。
この2つが意味している事実を、未来は一つしか導き出せなかった。
杉田が生きている。
自分の存在を、何とか未来に伝えようとまでしているのだ!
それをはっきり意識に留めた時、未来の身体を電気に打たれたような衝撃が走り抜けたような気さえした。
このアネモネの花束を用意したのが行方不明となっている杉田なら、ソフィーがそのことを知らないわけがない。
彼女と杉田が一緒にいたスポーツクラブでは、女嫌いとも言える杉田が不思議とすぐに打ち解けていた。更に、彼女が現れてラルフのことを相談するようになってからは未来と杉田の間に溝が生じ、それが急速に深まっていった。
極めつけは、最後に杉田と一緒にいたのがソフィーであることだ。
杉田は、ソフィーのことを親しい友人だと思っていたのである。
彼女をアパートまで送るために車を運転している隣で凶器をちらつかせ、そのまま別の場所まで運転させることも容易かっただろう。その後は指紋がつかないようにして彼の車を運転し、放置してくればいいだけだ。
しかし、とそこで未来の理性が逸る思考に停止信号を出した。
ブラックヘアもティアーズも犯行に極めて強い暴力性が認められており、女が犯すような類の事件ではない。
それに第一、ブラックヘアの犯人はゲイであることが確実だ。と言うことは、ソフィー単独の犯行ではあり得ないことになる。
つまり、男の共犯者がいることを指している。
その上でソフィーは、被害者の家族という立場である未来と親しくなることで、自身のサディスティックな欲望を満たそうとしていたに違いない。
未来の背筋に、緊張と戦慄が走る。
もしソフィーが2つの事件を起こした犯人の共犯者だったとしたら、今までの矛盾した行動全てに納得の行く説明がつけられる。
同じ時に初対面となった未来と杉田のうち、真っ先に彼に取り入ったのは、次の獲物として目をつけたためだ。
ラルフのことを決して表沙汰にしようとしなかったのは、警察が介入するとまずいことになるからだ。
何かにつけて未来に頼ろうとしたのは、自分が弱い女だと見せかけるためだった。
そして杉田のことをやたらと口にしていたのも、自分が手込めにした男のことで未来が苦しむ姿を見て、歪んだ快楽を得たかったせいだ。
ソフィーが大学で専攻している犯罪に関する研究も、そのための道具なのだろう。
過去の犯罪者たちが何を感じ、どうやって被害者を痛めつけ、周囲の者がいかに悲嘆に暮れたかを想像して興奮を高めていたのだ。
ただ、ロボットを使って遺体を傷つけるやり方は極めて暴力的な発想で、ロボットについて全く知らないソフィーが考えつくような方法ではない。彼女は自分が直接手を下すのではなく、側で残虐行為を傍観して満足を覚えているのだろう。
そう考えていくと、これらの事件では二人に明確な役割分担があったと考えるのが自然だ。
被害者を直接殺さないなら、そこまでの手筈を整えるのが彼女の役目で、これには研究で得た知識が役に立つ。どんな手段を取れば警察の目を欺けるかがわかる筈だ。
今までの被害者の選び方がばらばらだったのも、ある程度の選別を行って、最もリスクが低い方法を選択していたからに違いない。今回初めて面識がある人間である杉田を標的に据えたのは、自分たちに捜査の手が及ばないことに警戒心が薄れ、大胆になってきている証拠だ。
彼の事件でうまく逃げ仰せたら、次は更にエスカレートする可能性もある。
これまで彼らに殺された者は、周到に計画された悪魔の儀式の生け贄になっていたのだ。
「……許せない……」
口の端に再び日本語の呟きを上らせた未来であったが、その声は震えていた。
ソフィーに対する怒りだけではない。
ある事実に気づいたことが、新たな暴風を彼女の心に吹き込ませたのだ。
彼女は一体誰と組んでいると言うのだろうか?
その点を考えると、今までずっと犯人としてマークしていたラルフがパートナーである可能性は、極めて低いと言わざるを得なかった。
ラルフがソフィーの顔につけた傷は本物だったし、彼がソフィーの目をつけた相手を精神的に追い詰められるほど巧妙な嘘がつける器用な男だとは、とても思えないのだ。
そうなると、別のパターンを考えねばならない。即ち、ラルフの他に真犯人の男が別にいて、ソフィーがその人物と組んでいる可能性だ。
もしかすると、自分はとんでもない思い違いをしていたのではないのか?
余りに大きすぎるミスで考えたくもないことだが、状況は悲しくもそのことを否定してはくれない。ラルフはソフィーとしても厄介な存在だったことは間違いないだろうが、彼につきまとわれていることそのものを利用していたとも考えられる。
「……あいつはいつもそうだ。俺のあることないことを吹き込んで自分が困ったことになってるっ言って、すっかり相手を信用させちまう。それがあの女の恐ろしいところなんだよ……」
再び、ラルフの粗野な英語が頭の中で繰り返される。
彼のソフィーを評した言葉が事実だったことが、皮肉にも今わかったことになったのだ。
未来の震える手が、髪がついたアネモネをそっと抜き取る。そのまま足音を忍ばせてカウチに戻ると、花をつぶさないよう慎重にハンカチに包み、バッグに忍ばせた。
とにかくこの髪の毛を鑑定すれば、誰のものであるかがはっきりする。
この部屋から花を持ち出したことは、自分の後頭部に挿入されたメモリに網膜の画像として記録されており、確実な場所の証明が可能だった。そして髪の毛のDNA鑑定結果が杉田のDNAと一致すれば動かぬ証拠となり、ソフィーを重要参考人として手配できるのだ。
「あら。お皿、下げてくれたの?別に良かったのに。ヨーコはお客さんなんだから」
リビングに戻ってきたソフィーから唐突に声をかけられ、未来はカウチから座ったまま飛び上がりそうになった。
「ううん、お構いなく」
破裂しそうな心臓の鼓動を必死に抑え、未来は笑顔を作った。
Vネックのニットに重ねたパーカーの下にある肌が、冷や汗にまみれて濡れている。
ソフィーが事件に関与している可能性が強まった今、彼女が持つ裏の顔に気づいたことを絶対に悟られてはならなかった。万一勘づかれれば最期、杉田の命運も同時に尽きると思って間違いはない。
頭が切れるソフィーのことだ。
身近な人間からこれ以上被害者を出すリスクを冒すべきでないと、悟っているだろう。この場で何か手出ししてくるつもりはないと思っていい筈だ。
未来は慎重に言葉と行動を選び、まずはここから出ることを最優先にするべきだった。
「遠慮しないでったら!それにまだ、ハーブティーとケーキのお替りもあるのよ」
しかし、ソフィーの語調が笑顔と裏腹に荒くなっている気がした。彼女は下げられていなかったカップにもう一杯、ぬるくなったハーブティーを注いでテーブルに置いておく。
「これ以上はもういいよ。それに私、実はアルコールの匂いに弱いんだ。もし何かあった時、動きが鈍ったりしたらまずいしね」
未来のラルフのことを盾にした言い訳は自然だったが、ソフィーは自信たっぷりに言った。
「大丈夫よ。ヨーコがいてくれれば、あいつが来るわけないわ」
「そうとも限らないよ。だって、つい最近までラルフはここに来てたんでしょ?」
思いもよらない指摘だったのか、ソフィーは驚いて未来の顔を見た。
「どうしてそう思うの?」
僅かに間を置いて小首を傾げる仕草が続くと、長い赤毛が音を立てて揺れる。心なしか、警戒して未来の腹を探る響きがソフィーの声に混ざった気がした。
「だって、入口のごみの量がすごいんだもん。あれはどう見たって一人分の量じゃないし、キッチンにある冷凍食品のごみも、2人分同じのがあるなって思ったから」
がしゃん、と陶器が激しくぶつかる音が未来の声に重ねられた。ソフィーが両手で包むように持っていたティーカップを、乱暴にソーサーへ叩きつけたのだ。
今までは柔和で純真そうな印象しかもたらさなかった表情も、豹変していた。
彼女は眉を限界まで吊り上げると、怒りで爛々と輝く緑色の瞳で未来を睨んだ。頬も赤く上気しており、本気で激怒しているようだった。
「もう、どうしてそんなところまで見るのよ!詮索好きな女は、マサトから嫌われるわよ!」
私生活のことに触れられるのを極端に嫌がる人物はそう珍しい存在ではないが、ほんのちょっとした指摘を一度しただけで激昂する者に出くわしたのは、未来もこれが初めてだった。
が、それも自分の本当の姿を見抜かれまいと気を張っているのなら、別に意外なことではない。未来は大げさに振る舞って見せた。
「ごめん!そんなつもりはなかったんだけど、つい気になっちゃって」
日本式に頭を下げ、顔の前で手を合わせつつ謝るが、やはりソフィーの態度はやはり不自然に思えた。先まで未来が知っていたソフィーの性格なら、細かいところを観察していた友人に素直な感心を覚えててもおかしくない筈なのだ。
今まで未来はソフィーのことを素直で傷つきやすく、従順な女性だと思っていた。だからラルフに暴力を振るわれても何もできなかったのだとばかり思っていた。それが全て未来や杉田を欺くための演技だったと言うのなら、ハリウッド女優顔負けの役者だと言えよう。
「人の部屋の中のものを勝手に見るなんて、それじゃあいつと同じだわ。結局みんな同じなのよね。人をうまく騙しておいて、めちゃくちゃにするんだから」
そっぽを向いてむくれたソフィーは、わがままが通らない子どもを連想させる。
あいつというのはラルフのことを指しているのだろうが、同時に自分のことも無意識に言い及んでいると思っていい。そして、彼女が今まで騙してきたのは杉田と未来である。他人の領域に土足で踏み込み、そこに築かれていた人間関係を徹底的に破壊するのだ。
これはラルフのように、自己愛が強すぎる者に特徴的なものの言い方だった。
「勝手なこと言わないでよ。あんた、そろそろ化けの皮が剥がれてきてるってことを自覚したら?周りの人間を全員騙せたままでいると思ったら、大間違いなんだよ!」
と、舌先も鋭くソフィーに言葉を投げつけてFBI捜査官の身分を告げたかったが、銃も身分証も車の中だ。それにそんなことをすれば、全てが水泡に帰す恐れがある。
未来は喉元まで出かかっていた声を、腹の中にぐっと押し込めた。
「そ、そんなに機嫌悪くされちゃ、私も困るんだってば。悪かったって。謝るから、もう怒らないでよ」
大きくなりがちな声を抑えようとしてどもる様子は、都合良く困惑しているように見えるだろうと思いたい。未来は頬を指先で掻くふりをして、こっそりと特殊通信のスイッチである真珠のピアスを捻った。
今の時点でこれは発信の一方通行であり、クワンティコの検証用設備で運良く誰かが聞いてくれているかどうかもわからない。が、少なくとも電波だけは発信できるし、状況を伝えようとすることは無駄ではないはずだ。
「自分が失礼なことをしたって、少しはわかってもらえた?」
「さっきから悪かったって、言ってるじゃない。これ以上、どうしろって言うの?何なら、もう帰るよ。ラルフだって、私に一発喰らって懲りただろうしさ。それに、ソーンバーグ支店からラルフがお礼参りに来るにしたって、1時間以上かかるよ。私のことが嫌で、なのに一人でいたくないって言うんなら、家族でも呼べばいいじゃない」
未だ収まらない怒りにそっぽを向き続けるソフィーに、未来も腹を立てた口調で返した。
誰かが通信を聞いてくれていることを期待して具体的なキーワードも織り交ぜると、妙に説明的な内容になってしまう。自分でも違和感を禁じ得ない台詞だと舌打ちしたくなったが、ソフィーは甲高い声でこれに反応し、カウチから勢いをつけて立ち上がっていた。
「そんな!ヨーコ以外に頼れる人なんかいないって、何度も言ったでしょ?誰にも迷惑はかけたくないのよ。あいつがもうここに向かって来てるかも知れないって言うのに、私にこの家で一人きりになれって言うの?」
彼女は哀れっぽく言いながら未来のカウチまで駆け寄ると、すぐ隣に座って懇願してきた。
「お願い、帰ったりしないで。ここで私と一緒にいて」
ソフィーが泣きそうな顔を上げてすがりついてきたのには、未来も正直戸惑った。
怒ったり悲しんだり、忙しく変わりすぎるのだ。本気で悲しめば涙はなかなか止められないし、笑いすぎれば腹筋が痛くなったりして、必ず後を引く。一度激しい感情にとらわれれば、そこから瞬時に抜け出すことなど不可能だ。
未来は聴力を上げ、ソフィーの心音を聴いてみた。もし彼女が不安な気持ちでいるなら、心臓の鼓動はそれを表している筈である。
が、彼女の心音は一定の極めて安定したリズムを刻んでおり、動揺している様子は全く伺えなかった。全く心音が乱れないのは、嘘つきに特徴的なものなのだ。
ソフィーが偽っているのは、髪や目の色だけではない。
自身の感情までもが作りものだというのだろうか?
「わかったよ。じゃあ、一緒に警察に行こう」
対する未来の切り返しは、極めて理性的なものであった。
「……え?」
友人からの意外な提案に、ソフィーが目を丸くする。
「折角一緒にいるんだからさ。私が付き添うから、一緒に警察に行こうよ。ラルフのことなら、いくらでも証言してあげるから。何なら、ソフィーが車で待っててくれてもいいし。私が相談すればいいでしょ?」
安心させるように、未来はソフィーの肩に手を置いた。
散々警察を嫌っていたソフィーのことである。この発言に逆切れし、こちらを追い出しでもしてくれればしめたものだ。
「……ええ、そうね」
ところが、未来の思惑は見事なまでに外れた。今まであれほど警察行きを拒否していたのにあっさりと頷かれて、拍子抜けしたと言ってもいい。
未来が聞き耳を立ててみても、伝わってくるのはソフィーの心音が変わらず落ち着いているということだけだ。特に何も考えていなさそうな表情からも、その意図は読むことができない。
「今までラルフがやったかも知れないっていう、無言電話の記録とかある?ポストに入ってたごみの画像とか、怪我の診断書とか。とにかく、何をされたか証明できるものを出さなきゃいけないんだけど」
とりあえずはソフィーが本気で警察に行くことを承諾しているという仮定で、未来は話を次の段階へと進めることにした。
「ちょっと待って。無言電話は一覧表にしてつけてるのが、その辺りにある筈だから」
友人からの具体的な話を受けたソフィーは立ち上がると、テーブルの下や床に散らばっている紙の群れをごそごそと漁り始めた。一通りリビングに散乱した紙を集めたかと思うと、彼女はそれをざっと確認して軽く溜息をついた。
ソフィーは次にキッチンへと入っていった。何をしているかはわからないが、引き出しを開けたり、ごみ箱の紙屑をひっくり返しているらしい音が、未来のいるリビングまで聞こえてくる。
「ヨーコも、こっちで一緒に探してくれない?どっかに紛れちゃったみたいなのよ」
「私が引き出しとか調べるのは嫌でしょ?」
ややくぐもって聞こえるソフィーの声がする方へ、未来は顔を向けて答えた。
「証拠提出のためだもの。構わないわ」
どうしようもない気分屋としか形容できない、ソフィーの言い種である。
呆れた未来は、思わず舌打ちを漏らした。これまで振り回されていた家族や友人も、さぞかし大変な思いをしていたに違いないだろう。つい数分前に抱いた懸念に動転していたのは取り越し苦労だったのか、と言う疑いが一瞬頭の隅を掠めていく。
軽い脱力感も覚えつつ、未来はカウチから立ち上がった。
しかし、それができなかった。
視界が定まらず、目が回っているのかと思うほど激しいめまいが、突如として襲いかかってきたのだ。
バランスが取れなくなった身体を支えようとコーヒーテーブルに手をついたが、既にまっすぐ立つことすら難しくなっている。よろけた未来は、今一度カウチにどすんと腰を落とした。先に感じた倦怠感も異常に強くなっており、まるで手足の全てが金属性の義肢に変わってしまったような重さだ。
いくら何でも、尋常ではない。
急速に自分の意志から離れていこうとする身体に、未来は愕然とした。
サイボーグの改造手術課程で、強すぎる睡眠薬を服用していた時に経験した反応が、これと全く同じだった。
薬を盛られたのだ!
いつ?
どこで?
どうやって?
もはや自身の体重さえ支えられなくなった身体を鞭打ち、意識を覆い尽くそうとする闇に未来は必死で抵抗した。
そう言えば、ソフィーがハーブティを注いだカップは濡れており、底に水が溜まっていた。
あれが本当は薬の水溶液だったのだろうか?
それとも、ケーキにまぶしてあったパウダーシュガーだったのか?
確かにあれにはほんの僅かな苦みを感じたが、ハーブティーに入っていたブランデーも、もしかしたら薬の匂いを消すためのものだったのかも知れない。
いずれにせよ、今更それがわかったところでどうしようもなかった。
ソフィーの狙いが、杉田の近親者である未来にもあったとは、彼女の大胆さは予想を上回っていたのである。
「……ソフィー……私に、何を……」
恨みを込めた声で呻いた未来は、リビングに戻ってきたソフィーに鋭い視線を向けた。
まともに言うことを聞かない下半身を何とか踏ん張り、立ち上がろうとする。
しかし力を失った脚は膝をがっくりと折ることしかできず、未来は床に肩口から転倒する羽目となった。
渾身の力を振り絞っているのに、震える腕でテーブルにしがみつくのがやっとという有様だ。動かない体に引きずられるように目に映る全てが暗くなっていき、意識の全てが飲み込まれていくのを感じる。
カウチとテーブルの狭い隙間へ、未来の細い身体がずるずると沈んでいった。
「貴女にはもっとゆっくりしてもらいたいのよ、ヨーコ」
そのすぐ横まで歩み寄ってきたソフィーが、くすくすと子どものように笑っていた。
彼女の足元で横倒しになっている未来は、まだ辛うじて開いている瞳で必死にソフィーを睨もうとしている。睡眠薬がもたらす脱力感に歯を食いしばって戦いを挑む表情には、激しい敵意がありありと窺えた。
「警察なんかより、もっと安心できる場所に連れて行ってあげるから」
ソフィーの室内履きを履いた足が、未来の白いニットに包まれた肩を小突く。
未来は何も言えなかった。
最後まで半身を支えようとしていた腕から力が抜けた後、燃え上がる怒りを湛えていた黒い瞳は完全に閉ざされた。




