蜘蛛の巣 -7-
未来が一言文句を言ってから精一杯顔を上向かせ、15インチ(約28センチ)は上にある同僚の目を睨んでくる。しかし、彼女はすぐに視線を鉄柵に落とした。
「けど確かに、死体が遺棄されたのは夜だったんだからね。いくら人通りがないからって、リスクが高すぎるような気はするよ」
コートのポケットに手を突っ込み、駐車スペースを一通り視線でなめてから更に続ける。
「それに私も、どうも何か見落としてるような気がして仕方ないんだよ。今の現場の様子と、死体が見つかった頃と時期が違うせいもあるんだろうけど」
「ここで死体が発見されたのは、確か夏だった筈だ」
ジャクソンがターミナルで報告書の日付を確認したところで、未来が頭に浮かんだ何気ない疑問を口にした。
「ハンク・ナカノは、死後どれぐらいで遺棄されたって話だったんだっけ?」
「ええと。死亡推定時刻は、8月20日の午前2時から8時の間。死体発見は8月21日の21時半頃。同じ日の夕方にごみを捨てに来たレストランの店員の話じゃ、その時は何もなかったそうだ。ということは、殺されて丸一日以上経過してから置かれたんだな」
ジャクソンが顔をしかめ、未来も眉間に皺を寄せた。
ヴァージニアはアメリカでも北の方に位置する州ではあるが、それでも夏場は摂氏30度を越えることも珍しくない。そんな中に一日半も死体を放置しておいたらどれだけ悲惨なことになるか、彼らは知っているのだ。
人間の腐乱死体がある場合、まずその辺り一帯の空間に充満する凄まじい悪臭で気づくことが最も多い。
いかなる化学兵器でもあの悪臭に勝るものはないと、断言できるほどだ。どれほど現場慣れした捜査官であっても、吐き気を覚えない者はまずいない。
加えて腐敗が進んだ人間の肉体は脂肪や筋肉、内臓が液状化して汚泥となり、床や壁に染み込んで、消えない跡を作る。
そこまでの状態になるまでは数日以上の時間を要しはするが、最も早く腐敗し始めるのは内臓だ。体内に充満した暗褐色の腐敗液が身体の穴という穴から漏れ出す様は、たとえ絶世の美女のものであろうと、命なき身体をおぞましい物体に変えてしまうのである。
ハンク・ナカノの死体も、遺棄された時点である程度の腐敗は進んでいた筈だった。
「夏の暑い頃なのに、どうしてすぐに死体を捨てなかったのかな?」
「昼は仕事をしてるような奴が犯人の場合、深夜に殺しちまったら遠くに捨てに行けないんじゃねえか」
ジャクソンがダンプスターの方へ歩き出し、未来がその後に続く。静かに積もり続ける雪に、歩幅も大きさも異なる足跡がついた。
「それに、死体の硬直は半日くらい後まで続くんだ。単に扱い辛かっただけなのかもな」
彼は、先日触ったエミリオの死体の感触を思い出していた。
硬直した死体はというのは、検死官や病院関係者のように専門の仕事に携わる者でも、扱いに手こずる代物だ。知識を持ち合わせていない者がやすやすと運び、特異な姿勢を取らせられるわけがないのである。
捜査資料の画像でも、死体は仰向けで脚と手を大きく広げた状態だ。この姿勢のまま別の場所から運んで来たとはとても思えない。
「でも、死後硬直が緩んでから捨てたんだとしても、暑い時期だったわけじゃない?今度は結構な速さで腐敗していくわけだよね。体中の穴から腐敗液だって出てくるし、臭いだって耐えられるもんじゃないのに」
ダンプスターの裏側に辿り着いてから、未来も再び自分の携帯端末で報告書の画像を確認した。
発見された当時に撮影された死体の画像を拡大してみると、全身の皮膚が赤くただれて腐敗し始めていることがはっきりとわかる。口や肛門からも腐った体液が流れ出しており、不気味な粘液が捜査用ライトでてらてらと光っていた。
画像をスライドさせていた未来の手が、ふと止まる。
彼女の寒さで赤くなった細い指は一瞬の間を置いてすぐまた動き出したが、今度は何かを求めているかのように素早く、忙しなく画面を辿っている。
暫しそうやって複数の画像を交互に見ていた未来が、やがて低く呟いた。
「おかしいと思わない?」
「何がだ?」
「ある程度時間が経過した死体なんて、ちゃんとした処理をしないと状態が悪くなる一方だよね。しかも、夏だったんだよ。死体を捨てた時も、腐った体液が体中からだだ漏れで、悲惨な状態になってた筈じゃない」
ジャクソンが背をかがめ、未来の端末の画面を覗き込む。
不幸なレストランの店員によりここで死体が発見されたのは、遺棄されてから長くても3時間程しか経っていない筈だった。腐敗の度合いは一気に進むものではないのだから、犯人が死体を運んだ際も、ある程度状態が悪かったものと見て間違いない。
ジャクソンが自分の端末に検死報告書を呼び出す。その検査項目では、胃の内容物も鑑定ができるくらいには残っていたし、口や肛門に布が詰め込まれた形跡はなかった、という記載が確かにあった。
その間も、未来は疑問を口にし続ける。
「それなのに、どうして死体の周りにしか体液が溜まってないの?道路に車を停めて死体を担いできたんなら、絶対途中のどこかに垂れるはずだよ。布にくるんでたんだとしても、かなり厚いものじゃない限り、防げなかったと思うんだけど」
眉間に皺を寄せている若き女性捜査官が探していたのは、捜査報告書で路面の状態について触れている箇所だった。
が、報告書には、血痕や腐敗液の飛沫について何も記述がなかったのだ。
人間の腐敗液がついた跡は、そう簡単に落ちるものではない。まして、死体発見当日の天気は快晴で湿度も低い夏である。
死体をビニールシートのようなもので覆っていたとしても、テープなどで隙間を完全に密閉しなければ、肩に担いで運ぶ途中で必ずどこかに腐敗液が落ちる筈だった。そしてもし死体を完全防水のシートで密閉状態にしていたなら、腐敗液が死体を置いたときに広がっていないのはおかしいことになる。
「けど、布団みたいな厚い布を使ったら、今度は持ち上げられなくなっちまうぞ。何せ、相手は大人の男なんだ。腐敗液だって、洒落にならないぐらいの量と臭いだった筈だぜ」
今度はジャクソンが険しい表情を浮かべ、捜査報告書のページをを手早く送った。やはり未来が指摘しているように、死体を運んできたルートに落ちたと思しき腐敗液の記述がどこにもない。
死体運搬ルートという、捜査上極めて重要なことだ。鑑識の調査漏れとはとても思えない。
そして死体の扱いにそこまで気を使うというのは、この事件の犯人の性格上考え難いことでもあった。
「実は、俺にも気になることがある」
ジャクソンが緊張した面持ちで携帯端末から顔を上げると、自分たちの周りを取り囲んでいる鉄柵をぐるりと見回した。
「さっきお前に言われて気がついたんだが、大人の死体を抱えてあの柵を抜けてくるのは、体格がいい奴ほど大変なんだ。しかも、犯人が死体を捨てに来たのは夜だろ?足元は相当、おぼつかなかっただろう」
「そりゃ、そうだろうね」
同僚の指摘に今度は未来が同意すると、ジャクソンは柵の方へ歩きながら彼女を招き寄せた。
「もしお前がでかい荷物を持って、ここを抜けるときに転びそうになったら、どうする?」
そして、15インチ(約32センチ)程度しかない柵の隙間を指す。
「こうするけど?」
未来は柵に積もった雪を手で払い、片手をついて体重を預けつつ通り抜ける。
今は雪が降っているために一層滑りやすくなっていて危ない上、柵の隙間は元からかなり狭い。小さな子どもでなければ皆、足元を見ながら注意してくぐることになるだろう。
その様子を見て、ジャクソンが深く頷いた。
「そう。むしろ転びそうにならなくても、注意して最初から柵に掴まるのが自然じゃねえか。だけどな、この柵のどこからも犯人の指紋は検出されてねえんだ」
コートについていた水滴を払っていた未来が思わず手を止め、驚いてジャクソンの顔を見上げた。ダンプスターからは犯人の指紋が検出されているという記載を、彼らは手元の端末でつい先刻目にしたばかりなのだ。
ただでさえ暑かった夏、犯人が死体を運んだ時だけわざわざ手袋をしていた筈がない。
暫し、二人の間に言葉がない時間が流れた。
不自然な点が多いことに、現場へ足を運んでみて改めて気づかされたのだ。
『……捜査のときはいつも高感度にしておくってことだよ。特に、事情聴取に行く場合なんかはね。犯人が近くに隠れてることだってあり得るんだから。それに今回みたいにロボットが関係してる場合は、僅かな駆動音だって拾えるわけだし……』
トリスが会議の際に言っていたことが、未来にはそれとなく聞こえた気がした。
彼女の感覚に、硬い雪が鉄柵に降りる音や傍らにいるジャクソンの心臓の鼓動がとらえられ、近くの林の枯れ枝を渡る風の音が被さり、厚い壁の向こうで談笑する若い男女の声が流れ込んでくる。
やがて覚えのある金属の軋みが、小さな棘となって彼女の頭の奥に引っかかった。感覚の隅に留まって神経を刺激してくるその音を集中して拾い集め、感じ方を研ぎ澄ませる。
様々な部品が一度に動いて複雑な響きを作っているモノがあり、更にそれが種類の異なるまとまりとなって、別々に動いている。
この現場に来るまでに何度も耳にした、道路工事用ロボットたちの駆動音であった。この付近でも、広い範囲に渡って作業を行っているのだろう。
ついさっき行ったエミリオの死体が発見された現場でも、似た音を聞いたばかりである。あそこではロボットのタイヤ痕が見つかっており、ロボットを使って死体を置いたものと推測されていた。
強い作業灯の光に照らされた夜の工事現場でも、犯行に使われたのであろうものと同じタイプのロボットたちが、トラックに積まれていた。人は彼らに乗り込んで長い鉄のアームを操作し、重い資材を掴んで運んだり、組み上げたりすることができる。
だから、生きている時の倍は重さがあると感じる人の死体でも運ぶことができるのだ。
そう。
死体を運べるのである。
人間が手で扱うのが難しければ、ロボットにやらせればいい。至極簡単な理屈だ。
腐乱しかけた死体もそうだ。防水シートに乗せてその端をアームに固定し持ち上げれば、腐敗液を垂らさないことなど容易にできるのだ。
死体を下ろした後に犯人がダンプスターの側に行き、最後の仕上げをゆっくりと施せばいいではないか。それなら腐敗液が死体の側にしか溜まっていなかったことも、ダンプスターにしか指紋が残っていないことも、全て説明がつく。
と言うよりも、それ以外に考えられる方法はないのではないか。
それに、ダンプスターから一番近い柵の際までは、5メートル程度しか離れていないのだ。アメリカで最も普及している小型のロボットでも、十分足りるだろう。
「ブラックヘアでも、ロボットが使われたんじゃないのかな」
自らが導き出した道筋に、未来は呆然と瞳を見開いて呟いた。
「……何だと?」
それまでぼんやりと考えていた未来が突然口走ったことに、ジャクソンはぎょっとした。
彼女は考えることに没頭していた空気からまだ完全には抜け出せていないようで、独り言のようにくぐもった声で言葉を繋げている。
「この近くで道路工事をやってるでしょ?音が聞こえてくるんだよ」
「それと事件と、何の関係があるんだよ」
訝しげな黒人の同僚に説明しようと手を軽く挙げかけた未来だが、次第に興奮が襲ってきているようだった。頬が赤く上気しているのも決して寒さのせいではなく、アドレナリンで激しくなった血流のためだろう。彼女は神経の高ぶりに呑まれないよう、懸命に自身を落ち着かせようとしていた。
「ほら。死体が遺棄された場所と道路とは、せいぜい5メートルしか離れてないでしょ?柵の外から防水シートでくるんだ死体をロボットが持ち上げて運ぶことは、十分にできるはずだよ。シートの端をまとめておいてそこをつまめば、腐敗液も漏れない。それならダンプスターの周り以外に跡はつかないし、柵に指紋がないことだって説明がつくよ」
彼女が柵とダンプスターを指し示して説明する口調はゆっくりで、しゃべりたいことと説明しなければならないことを整理しつつ、言葉を選んでいるらしかった。
いつも理路整然と理屈を述べる未来がここまで動揺するのも珍しいが、ジャクソンは彼女の冷静さを計るために質問を返すことにした。
「でも、いくら人通りが少ないからって、ロボットなんかで作業してりゃあ目立つだろ」
「さっきジャクソンも言ってたでしょ、ごみの引き取り業者は時間を問わず呼べるって。ごみの回収でもロボットは使われてるし、この辺りはレストランが何件も続いてるんだよ?もし誰かに作業中のところを見られたとしても、またごみの収集が来てるんだなって思われるだけじゃないかな」
確かに、不意のごみが多く出る飲食店では、公共のごみ回収で間に合わない時も多い。周辺住民とのトラブルを避ける目的でも、民間の業者を使うことはよくあるのだ。
そして今現在もそうであるようにこの裏通りは街灯の数が少なく、かなりの暗さになる。その中に止まっている作業用と見える車両が法に触れることをやっているなど、一目でわかるはずがない。
「それにロボットを小さいトラックの荷台に乗せたままにしておけば、すぐに逃げることだってできるしね。工事現場に、そういうロボットがたくさん置いてあるのを見たから」
もう一言追加した未来の説明は、そこで終わりだった。
自分で説明できる範囲は全てジャクソンに教えたのだろうが、黒く大きな瞳に不安そうな光がちらついている。的外れの推測に同僚が呆れているのではないか、と心配なのだろう。
ジャクソンは、すぐには未来に言葉を返さなかった。
柵の外側に停めたプリウスとダンプスターに、代わる代わる鋭い視線を走らせる。たっぷり30秒は空白を作ってから、彼は未来の顔を改めて見やった。
「確かに、それなら筋は通るな。ロボットは小型のものならトラックの荷台に十分積めるし、ワイヤーで固定したままでも、荷台でアームを動かすことくらいできる」
そこで言葉を切ったジャクソンが、やや上の空間を睨んでから再び言った。
「俺にも、この近くでロボットが動いてる音くらいは聞こえるな。距離はかなり遠いみたいだけど」
ロボットの駆動音は未来の耳にならはっきりと聞こえるのだろうが、強化の度合いが低いジャクソンには、ぼんやりとした音としてしか知覚できない。しかし、道路工事で振動ローラーのような工事車両が動く騒音は、それよりも遙かに大きく聞こえてくる。付近で作業をしていることは間違いなかった。
「犯人は、死体を運んだロボットをそういう場所に隠した可能性もある。全ての死体発見現場で、事件発生当時に近隣で道路工事をやっていなかったかどうか、確認した方がいいな」
「そうか、そこまでは考えつかなかったよ。そこに見慣れないロボットが紛れてなかったかってことも、調べた方がいいね」
ジャクソンに否定されなかったことに安心したのか、未来の声が少しだけ軽くなる。
ただし、彼女の顔に笑顔はない。状況が開けたことによって生じた新たな緊張の影が、表情を緩めるだけの余裕を一瞬でさらったのである。
「お前が言いたいのは、ブラックヘアでロボットが使われているとわかった以上、戦闘チームも捜査に加わる必要があるってことか」
ジャクソンが察してくれたのは、未来が喉の手前で止めていた言葉の一部であった。
「そうなるね。それともう一つ」
「ティアーズとブラックヘアに、大きな共通点が見つかったんだ。ウォーリーや隊長にもかけ合おう」
深刻そうに顔を上げる未来に、ジャクソンは大きく頷いて言葉を補う。
彼は未来の言いたかったことを、全て察してくれていたのだ。
「ありがと、ジャクソン」
思いがけずこぼれたのは、黒人男性の同僚捜査官に対する礼の言葉だった。不意を突かれたらしい彼は一瞬呆気に取られ、次いでぷいとそっぽを向く。
「何だよ、気持ち悪い。俺に礼を言うのは、両方の犯人を捕まえてからにしろよ」
と、照れた態度がむしろ根が純朴なジャクソンらしい。
ロボットというキーワードは、少し前まで点と点に過ぎなかった。が、タイプが同じロボットが犯罪に使われるケースはそう多くはないため、それが線で結ばれて繋がっている。
二つの事件には、何らかの繋がりがある可能性が出てきたのだ。杉田の行方に大きく近づけた可能性も、何より大きくなってくる。
しかし、杉田を確実に保護するためには今まで以上に慎重に行動する必要があった。捜査の手が迫りつつあることを、決して犯人に悟られるわけにはいかない。だからもし戦闘チームが捜査に加わることがあったとしても、未来が直接関わることを隊長が許さないだろう。
「お前がブラックヘアの捜査に加われるように、俺から直接隊長に頼んでみよう」
「ううん、それはいいよ」
ジャクソンの心の内を読んだかのような発言に、未来は反射的に首を横に振っていた。
「どうしてそう思うんだ」
「どうしてって……」
「お前、まだ自信がないとでも言うつもりなのか?」
彼女が口ごもったところへ、核心を突いた言葉が続く。
捜査中にもし、杉田の死を知ってしまったら。
もし、彼の無残な死体を目の当たりにすることがあったら。
その場で発狂してしまうかも知れないし、悲嘆に暮れて銃で頭を撃ち抜くかも知れない。自分がどうなってしまうのか全く想像できないというのが、未来の正直な気持ちだった。
それだけに、現実を認める時が来るのが余計に怖い。
しかしそれは自らの精神的な弱さ、脆さを認めているようなものだ。そして、連邦捜査局が弱い者を受け入れてくれるような甘い世界ではない、ということもわかっている。だからこそ、その一線を乗り越える勇気が湧いてこないのだ。
「まあ、無理にとは言わねえよ。ただ俺は、お前に後悔して欲しくないと思っただけなんだ」
黒い宙に舞う雪を苦い顔で見つめる未来に言ったジャクソンは、どこか遠い目をしていた。
彼も犯罪被害者の家族という立場だ。
どんな現実が待ち受けていようとも、自分の手で真実に触れなければきっと悔やんでも悔やみ切れない。だから、この機会を無駄にするな。
そう言いたかったのだろう。
「気持ちは嬉しいよ。でも……」
未来が戸惑いを押し隠して返しかけたところで、彼女のコートのポケットでプライベート用の携帯電話が震えた。慌てて黒い革のストラップを掴んで本体を引っ張り出すが、青く光るディスプレイの表示に出ている名前は『Unknown』、つまり非通知の電話だ。
普段であれば非通知の電話は取らないことにしているが、この会話を続けていたくないという不純な動機で、未来は電話を取ることにした。
ジャクソンを軽く手で制してから通話ボタンを押し、本体を耳に当てる。
「もしもし?」
未来が先に話し出すが、相手の声は聞こえてこない。そのまま5秒ほど待ってみたが、やはり何も音がしなかった。
電話を当てている右耳だけ、感度を上げる。
すると空気が流れる雑音に混ざって、車のエンジンやガラガラと石の上で何かを引きずるような乾いた音、更に男性の声が一定の調子で何かを読み上げている声が聞こえてきた。
ひょっとして、ラルフに追われたソフィーが恐怖に駆られて電話をしてきたのではないだろうか。
携帯電話を取り上げられて、公衆電話から電話してきているのではないか。すぐに声が出せないのも、彼が近くにいるからなのかも知れない。
悪い想像ばかりが頭を横切っていく。
未来はソフィーの名前は出さないようにし、当たりをつけて言葉を選んだ。
「どこからかけてるの。自分の家?それとも実家?あの後、変わりはないの?」
矢継ぎ早に質問するが、電話口の向こうから聞こえてくるのは先と同じ雑音と、やや不規則に思える呼吸音だけだ。
不意に、ひゅっと鋭い空気の摩擦音が響く。
『俺たちにもう関わるな』
通話の主であったらしき相手がそれだけを告げ、今まで聞こえていた雑多な音がぶっつりと途切れた。
ソフィーの声ではない。チープなバラエティ番組でよく聞いたことがある、変声器を通した重たげな男のそれだった。
わざわざ「俺たち」と自らが複数であることを教えてくれたのだ。最近未来の周辺でトラブルを起こしている人物など、ごく限られた者しかいない。心当たりなど、思い当たるのには一瞬あれば十分だった。
「誰からだ?」
寒さに身震いしているジャクソンが、終話ボタンを押して電話を耳から離した未来に問う。
未来が今日ソフィーから聞いた話だと、ラルフはスーパーマーケットチェーンのクローガーに勤務していた筈だ。先の電話で聞こえた雑音は、店のものだったのだろう。
携帯電話をポケットに滑り込ませた未来の中で、ジャクソンと交わしていた先の会話は続けるだけの意味を失っていた。
「そういえば、ラルフ・バーンズのことについて何かわかったことってある?」
「あ、ああ。ちょっと待ってくれ」
瞳をまっすぐに見上げてきた未来に突然満ちた迫力に圧された形で、ジャクソンが携帯端末を探った。
「傷害で、過去に一度しょっぴかれてる。まあ、よくあるバーでのいざこざだったようだが」
「起訴はされてたの?」
「いや、不起訴で釈放されたようだな」
起訴されていなかったのなら、エミリオの体内に残されていた精液と一致するDNAの持ち主であったとしても、CODISに登録されていないことは間違いない。
ロボットを使う仕事場におり、ソフィーに事件と同じ人形を送りつけ、友人である未来に声を変えて脅迫じみた電話をしてくる。
異常な行動を繰り返す男であるラルフを、これ以上野放しにしておくわけにはいかなかった。




