蜘蛛の巣 -4-
未来の仕事用携帯電話が着信を告げたのは、彼女が捜査車両から7デイズ・フィットネスの駐車場に降り立った直後のことだった。コートのポケットから覗いていたストラップを摘み、本体を引っ張り出す。
『ミキ?今、こっちから特殊通信で発信してみたんだけど。聞こえてたかしら?』
通話ボタンを押すなり未来の耳に届いたのは、エマの期待を込めた声だった。だが、未来には今の今まで、車の中では誰の声も聞こえていない。車には音声認識でなくリモコンでロックをかけると、未来は申し訳なさそうに答えた。
「ううん、何も。今話してることは、そっちで受信できてるんだよね?」
『ええ、結構はっきり聞こえてるみたいよ』
「そっか。私はオフィスを出てからスイッチに触ってないし、やっぱりこっち側の問題じゃないね」
未来が7デイズのエントランスを目指し、駐車場を横切りながら事実のありのままを伝えると、エマが電話口で溜息をついたのがわかった。
『そのようね。どうして、そっち側からの一方通行になるのかしら』
手元の端末を操作しているのか、エマの音声にキーボードを叩く軽い音が重なっている。
今朝から何度もこの特殊通信のテストを繰り返しているが、未来からの発信は研究所に届いても、その逆は一度も成功していない。
未来の脳の言語野に直接働きかける特殊通信システムは、日本から持ち込んだ未来の装備では調整が最後に回されたものだ。生命維持に直接響くものでなく、緊急時にしか使用が見込まれなかったため、優先度が低く設定されたのである。加えて、整備作業にさほど手間を要しない装備だからという理由もあった。
が、それも全て仕組み全体について詳しい技術者、つまり杉田がいればという前提だ。
エマは杉田と同じく優れた医療技術の持ち主だが、流石に初めて触る生体機器についてはなかなか思い通りにはならないのである。
『もう少し設定を変えてから、またテストしてみることにするわ。いきなり意味がない話が聞こえてびっくりするかも知れないけど、勘弁してね』
「私がいないときにどういう話をしてるのか、ちょっと楽しみにしてるよ」
珍しく少し疲れている様子のエマに軽く笑って返してから、未来は通話を終わらせた。
携帯電話のディスプレイを確認すると、時刻はそろそろ午後2時を回ろうとしている。テストは朝からずっと続けているようで、消耗気味なエマの様子だとランチもまだなのだろう。
「特殊通信の仕組み自体、実はそんなに複雑じゃないんだ。ただ、モジュールの調整にちょっとしたこつが必要だってくらいなんだよ」
まだ日本にいた頃、杉田が笑顔で教えてくれたことを思い出す。
それも、彼自らが開発した機器であるからこそ言えたのだ。
今はまだ重要度が低い機器の問題で済んでいるくらいだからいいようなものの、もし今の状況で未来の身体に致命的な欠陥が発見されたら、一体どうなるのだろう?
エマでも、ある程度までの修理やパーツ交換の手術はできる。しかし本格的に対処するとなると、もう一人の担当医である生沢を日本から呼ぶしかない。それも生命の危機に瀕している場合、到着が間に合わない可能性の方が高いだろう。
こんなことにまで影響が出るのだと、未来はこの数日でようやく実感していた。ただ、不思議とそれがさほど恐ろしいこととは感じられない。
先生は多分、生きるか死ぬかぎりぎりのところで戦ってるんだもの。
もし私の身体の機能に何か問題があっても、先生を責めるようなことは絶対にしない。
先生が戻ってきた時のことを、ちゃんと考えて行動しておかなきゃ。
声に出さず、自分に対して繰り返しそう言い聞かせる未来の拳が握り締められた。今は余計なことを考えず、自分にできることに専念するべきなのだ。自然と、白い吹付けタイルに覆われた建物のメインエントランスに向かう足も早くなる。
久しぶりにこの7デイズ・フィットネスに来たのも、彼女にできることをやるためだ。
杉田と一緒に来ていた頃と何一つ変わらないエントランスの自動ドアを足早に抜けると、明るいロビーと白い床に反射する暖かな照明が、視界に一気に飛び込んでくる。
未来は、愛する男と一緒にいたことを思い出させるソファーが並んだ空間から目をそむけ、反対側にあるカフェテリアへとまっすぐ進んだ。
黒とシルバーを組み合わせたカウンターでダイエットジンジャーエールを買ってから奥へ進み、エントランス付近を見渡せる窓側のテーブルにつく。
平日の午後早い時間のためカフェテリアには人もまばらで、閑散とした印象だ。ビジネスアワーを過ぎれば、オフィス帰りに汗を流した男女で賑わうモダンな空間も、随分と寂しげに見える。この時間帯の客は裕福な家で専業主婦になっている女性や、リッチモンドに点在する大学の学生たちが主なのだろう。
未来が高いスツールに腰掛け、店内で控え目に流れている流行のポップソングに耳を傾けたとき、見覚えがある姿が視界に入ってきた。
「ソフィー?」
恐らく見間違うことはない顔を見た未来の声が疑問形になったのは、大抵はきちんとした身だしなみを心がけていたソフィーが、赤く長い髪をやぼったく顔の周りに垂らしていたせいだ。1週間くらいの間に、急に老けてしまったような印象さえある。
未来の呼びかけに気づいたソフィーは何も買わずに未来のテーブルへとぼとぼと歩み寄って来ると、スツールへ重たげに腰を乗せた。彼女はそれ切り黙ったまま、白いテーブルに映る自分の影を見つめている。
先立って、未来が話を始めた。
「ごめんね、急に呼び出したりして。ここ一週間くらい連絡もないし、ラルフのこともあったから。ちょっと気になっちゃっててね。元気だった?」
相変わらず俯くままのソフィーに対して明るく切り出す自分の声が、妙に空々しく聞こえる。まるでソフィーの周りだけ空気が灰色になっているかのように、雰囲気が重苦しく淀んでいた。
「飲み物、買ってくるよ。何がいい?」
「いらないわ」
未来がドリンクが1つしかないことに気づいて立ち上がろうとすると、まだ目を伏せていた
ソフィーがようやく、首を横に振って呟いた。横顔を覆っていた艶のない髪が動き、カフェテリアに差し込む午後の陽光に頬が晒される。
未来がソフィーの白い顔に異変を見咎めたのは、その一瞬のことだった。
「今の何?ちょっと見せてみて」
返事も聞かず、未来は素早くソフィーの顔に手を伸ばして赤い髪をひと房、持ち上げた。
赤黒く大きな痣が、曇った表情を浮かべる顔の左側面を醜く、悲痛に彩っている。ひどく腫れ上がった頬を見た未来が息を飲む音が上がり、小さな手がソフィーの頬からゆっくりと引かれた。長い髪が再び揺れ、痛々しい顔をふわりと隠す。
「すぐ戻ってくるから、ちょっとだけ待っててね」
一言断ってからドリンクカウンターに向かい、戻ってきた未来が手にしていたのは、ソフィーが以前に注文していた生キウィジュースだった。透明感がある緑色が美しいドリンクをソフィーの前に置き、改めてスツールに座り直す。
「どうしたの、それ?」
できるだけ穏やかに聞いたつもりだったが、やはりソフィーは答えない。見れば、暖房が効いているのに黒いコートを脱ごうともしない肩が、細かく震えているのがわかる。涙を堪えているのだろう。
未来が今日この場にソフィーを呼び出したのは、実はラルフのことを探るためだった。彼女を呼び出せば、つきまとっているラルフも引っ張り出せることを期待したのである。
が、ソフィーが顔に痣を作っていたのは全くの予想外だった。
怪我の理由は言わずとも察しはついたが、ソフィーの心を軽くするためにも話は続けるべきだ。未来は気まずさをダイエットジンジャーエールと一緒に少しだけ飲み下し、穏やかに続ける。
「今、痛くはない?」
無言でソフィーが頷くと、また髪の隙間から痣が見えた。
ソフィーのかさついて荒れ気味の唇が、きゅっと噛みしめられているのがわかる。
「事故にでも遭ったの?」
未来がもう一度訊ねるが、ソフィーから答えは返ってこない。
「ラルフにやられたんだね?」
「……ええ」
僅かに声を低くし、確認するように未来はソフィーの顔を覗き込んだ。ようやくソフィーが呟いて頷くと、瞳に溜まった涙が頬を伝い落ちた。圧倒的な力の差があることを承知の上で女の顔を殴るなど、ラルフは男として最低だ。彼女も余程恐ろしかったに違いない。
未来は知らなかったとは言え、そんなソフィーを捜査に利用しようとしたのだ。ソフィーは親友とまでは行かないものの、やはり良心の呵責が罪悪感となって、心の中に残っている。
気まずさを感じながらも、未来はできるだけ優しく話を続けた。
「良くないよ、このままじゃ。ソフィー、本当に殺されちゃうよ?」
すすり泣きを抑えようとして不規則に揺れるソフィーの肩へそっと手を置き、未来がテーブルについた肘に体重を乗せて身を乗り出した。
「最初にラルフのことを話してくれたときに、言ってたよね。別れ話をしたら、ナイフを持ち出されて脅されたって」
ソフィーはその問いに、一度だけ頷いた。目と鼻を真っ赤にしているのが痛々しい。
「もう、自分たちの力だけじゃどうにもならないよ。怪我までさせられたんだから、立派な傷害事件じゃない。犯罪なんだよ。わかるでしょ?警察に行こう。何なら、私が一緒に行ってもいいから」
実際にラルフはソフィーに手を上げたのだ。この先、暴行はエスカレートすると見て間違いはないだろう。しかし、今にも立ち上がろうとする未来に対して、ソフィーはスツールから降りる気配を全く見せていなかった。
「警察は、だめ」
弱く首を横に振るソフィーは、まだ涙が止まらないようだった。
またか、というのが未来の正直な感想だ。
これまで何度警察に行こうと言ったかわからないが、ソフィーは頑としてして聞き入れようとしない。生命の危機も感じているだろうに保護を求めないなど、一般的に見れば認識が甘すぎると言わざるをえなかった。
やれやれ、と溜息を胸の奥に押し込めてから、未来がスツールに座り直す。
「どうして?」
「警察なんか信用できないもの。もう二度と、かかわり合いになりたくないわ!」
泣きはらした顔を上げたソフィーがだしぬけに強い口調になると、カフェテリアの少ない客たちの何人かが彼女の方を振り向いた。が、口論をしているわけではないと悟ると、彼らは再び電子書籍端末や音楽プレイヤーで、自分の世界に戻っていく。
冬の光が斜めに差し込み、全てが長く薄い影をかたどる空間に静けさが戻ってから、未来はソフィーを宥めようと試みた。
「じゃあせめて、家族に相談しなよ」
未来がやや声色を高くして譲歩案を提示しても、これにもソフィーはうんと言ってくれない。再び無力感が身体にまとわりついて、ずっしりと重くなる。未来は今度こそ深い溜息に襲われた。
「じゃあ一体、どうしたいの?」
うんざりしてはいても見捨てはしない、という若い東洋人女性の姿勢が伝わったのだろう。ソフィーは取り出したハンカチで鼻をかみ、おずおずと口を開いた。
「ヨーコだけが頼りなの。女の子の友達は、貴女だけだから」
「でも私だって、結局警察に頼るしかないんだよ。ラルフを逮捕でもしてもらわない限り、何の解決にもならないんだから」
いくら友達を頼ると言っても、できることとそうでないことはある。
この期に及んで優柔不断なソフィーに、いい加減未来は苛立ちを覚えていた。最後は結局堂々巡りに陥っているのもさることながら、彼女の問題解決に対する姿勢が曖昧なのも、既に不信感が募る一方となっているのである。
本人が無意識のところで周囲の人間を引っかき回し、混乱させて面倒の種をばらまく。
ソフィーはその種の厄介な女なのだ。
未来も正直、もうかかわりあいたくないというのが本心だった。ソフィーの個人的トラブルはとっとと警察に任せ、ティアーズに絡んだラルフの動向を未来単独で探るほうがよっぽど効率的だ。
まだ押し黙っていたソフィーが、寂しげに目を伏せた。
「もしかして、私が友達でいて欲しいって言うのは迷惑?」
「そんなことないよ」
心を見透かしたかのような一言に驚き、未来は慌てて首を横に振った。
本音で言えば確かに迷惑ではあるのだが、この状況で正面切って突き放せる者はまずいない。
安心したらしいソフィーが、かすかな微笑みを浮かべて見返してきた。
「良かった……あの、迷惑じゃないなら、今日私と一緒に家にいて欲しいの」
「え?」
まだ涙が乾いていないソフィーからの申し出に、未来がまた驚かされて黒い瞳を見開いた。
「またあいつが来るかもしれないわ。誰かが家の中にいれば、あいつは警戒して帰ると思うの。だから、お願いよ」
「いや。だから、そんなんじゃ根本的な解決にならないからだめだって……」
さしもの未来も、流石に返す言葉を探しあぐねて困った顔になる。本気で言っているらしいソフィーを片手で制しかけるが、そこでふとあることを思いついた。
「ラルフは働いてるんでしょ?あいつの職場の上司にでも言いつけてみたらどう?勿論、匿名で。彼がどこで働いてるのかは知ってる?」
ソフィーが頷くが、意外そうな色が表情に見て取れる。職場に連絡する、という手段に今まで思い至らなかったのだろう。
「もし自分で言うのが怖ければ、私が電話してもいいから」
「前はクローガーのソーンバーグ支店で、日用品売場にいるって聞いたけど。今はどうだか知らないわ」
クローガーは、アメリカでも有数の大手スーパーマーケットチェーンである。主に食料品を取り扱う店であり、支店は全米各地に散っている。
ソフィーからラルフが働く支店を聞き出して頷いた未来の表情が、瞬間的に厳しさを帯びた。
「わかった、ソーンバーグ支店だね」
ソーンバーグ支店は、リッチモンドとフレデリックスバーグの中間に位置する。そして休日に未来、杉田ともによく買い出しに行っていた店でもあり、つい先日二人で園芸用品を買ったファーマーズマーケット「マーガレット」と同じショッピングセンターにあったのである。
有益な情報を耳にした未来は何とか態度を取り繕えたが、内心の動揺を顔に出さないようにするのは容易くなかった。
スーパーマーケットでは、倉庫の荷捌にロボットを使うのが普通だ。
もしラルフがブラックへアとティアーズの犯人なら、杉田の姿を見かけて目をつけた可能性が高いだろう。ブラックヘアの被害者たちが持っていたPMVメンバーズカードも、ショッピングモールに入っている店なら使えるところは多い。カードそのものを目にする機会は、頻繁にあった筈だ。




