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蜘蛛の巣 -3-

 白いシンクに溜まった水は暫く手を浸していると痺れてくるほど冷たく、今が冬なのだと指先に思い知らせてくれる。

 その透き通った中に何本も浸され、天井から下がる薄いオレンジ色の白熱灯の明かりに照らされた紫のアネモネは、本来ならこの時期の花ではない。しかしこの可憐な面影を見せる花の美しさが、冷えた水で削がれてしまうことは微塵もない。むしろ自信に満ちて凛と咲き誇っているようにさえ見える姿は、茎を鋏で切る杉田の心にも清らかな光を投げかけてくれるような気がした。

 今杉田が手にしている紫のアネモネとかすみ草、安っぽい園芸用の鋏だけが、彼に与えられた精神安定剤だった。

 凶暴な男に拉致されてすぐに陽の光すらない場所に監禁され、とっくに日付の感覚は狂ってしまった。この狭いトレーラーハウスのベッドルームに場所を移されてからも、どれぐらい時が過ぎたのか皆目見当がつかない。

 自分に銃を突きつけて捕らえ、陵辱を幾度も繰り返してきた男。

 暴行及び誘拐犯である白人の男の態度は、徐々に軟化してきていた。恐怖に心を縛られた杉田が逃亡する気をなくし、完全に屈服したと思っているのだ。

 彼はことあるごとに杉田をいつでも殺す準備があると脅し、犯し続けたきたのだから、そう考えるのも当たり前と言えばそうだろう。

 その上彼は自分がアジア人男性連続殺人事件、つまりFBIではブラックヘアのコードネームを与えられた事件の犯人であることをほのめかしていた。

「今までにやった奴の中で一番良かったのは……名前は何て言ったか忘れたが、ちょっと体格が良くて、営業成績が会社でもトップだと抜かしてた奴だった。大口叩いてやがったくせに、軽く縛り上げてぶち込んでやったら、ガキみたいに泣いて喚きやがる。死体を捨てる時、ついでに奴の鞄にあったボールペンを何本もケツに刺しといてやったんだ。だらしなくクソを垂れてる格好は、今思い出してもスカッとする」

 ある時ビールを片手にした男が薄笑いを浮かべて語ったのは、身の毛もよだつ話だった。

 今年8月に死体が発見されたハンク・ナカノのことだと、杉田はすぐに察した。

 既に杉田が犯罪科学研究所でDNA分析を担当していた頃に発生した事件だったため、腐敗しかけた死体のDNA分析を、杉田自身も一部担当したのである。

 一連の事件についての報道は世間の混乱を避ける目的で、被害者の死の詳しい様態はどのメディアにも情報を開示していない。なのにこの男は、ハンク・ナカノの肛門に異物が挿入されていたことと、それが何であったかということまで知っているのだ。

 もはや彼が犯人であることについて、疑いの余地もない。

 が、その裏に見える狂気は到底理解できないし、理解しようとも思わなかった。

 何故、黒髪の若者だけを狙うのか。

 何故、死体にわざわざ眼鏡をつけさせるのか。

 何故、そこまでの暴力をぶつけ、相手を貶めなければならないのか。

 これらのことは、まさに事件の核心である。迂闊に触れようものなら瞬時に大爆発を引き起こしかねない、気化したガソリンのようなものだろう。

 触れない方が賢明だ。

 地獄の底にくすぶる陰鬱な炎を思わせる影がうつろう瞳の奥など、覗き込みたくはない。彼の目を間近に見返すことはあっても、杉田はそこに籠絡されないよう必死に自らを奮い立たせていたのだ。

 それだけに、精神的に疲労もする。監禁場所が埃まみれの冷えた地下室よりずっとましになってはいるが、自らの消耗は激しいように感じざるをえない。

 自然と、杉田の口から小さな溜息が漏れた。

 嫌なことを考えて無意識のうちに硬くなっていた肩から、ふっと力が抜ける。

 同時に視線を巡らせると、彼の正面にある鏡の中からこちらを見つめる顔があることに気づいた。杉田の細い身体をざわりとした戦慄が走り、心臓が一瞬震え上がったかのような感覚が突き抜ける。

 肩越しで暗い空間に浮かび上がっていた顔がいきなり大きくなったかと思うと、だしぬけに毛むくじゃらの太い腕が背後から伸びて、上半身に絡みついてきた。汗臭く濃い体臭が、むっと鼻をつく。

 背中から抱きすくめてきた男は、杉田の耳元に唇を寄せて囁いた。

「最近お前が活けるのは、同じ花ばかりだな」

 粘つく痴情を孕んだ吐息に首筋をくすぐられると、嫌でも思い出すのは激痛を伴う陵辱のことだ。杉田の心が黒い恐怖で覆われ、悲鳴を上げそうになる。

 空気の塊とともにその衝動を胸の中に吸い込んだが、幸い男はこの反応に気づいていないようだった。

「僕は、この花が一番好きなんだ」

 与えられた薄手のシャツの下にある若い医師の肌は、冷や汗で湿り火照っている。彼が媚びた声色で腕を絡ませ返してきたことから、男はそれも劣情のためだと勘違いしてくれたのだろう。

「その花なら、大体いつも俺の店の生花売場に在庫があるからいい。だが、他にも好きな花はないのか」

「気になる?」

 杉田は男に都合のいい思い違いを継続させるべく、甘えた表情を作って返す。

 この男は未だに名前すら教えようとせず、ブラックヘアの犯行以外は一切の過去を語ろうともしないが、そうする理由は、杉田に情が移らないようにしているからに他ならない。いざというとき躊躇せずに殺せるよう、感情を抑えているのである。

 男が完全にこちらに心を奪われてくれればやりやすいが、そうすれば今度は杉田自身が男に共感しないことが難しくなる。この状況を受け入れて男の存在を認めてしまい、最悪、本当にここから逃げ出す意志をなくしてしまうかも知れない。

 普通であれば連続殺人犯を認めるなどありえないが、捕らわれの身となれば事情は全く異なる。そのような極限状態では、敵対者に親しみを持った方が生き残りやすい。

 そう判断を下すのは自らの意志と無関係な、命を長らえるために存在する反応である。

 生存本能に基づいた自己欺瞞的心理操作、俗に言うストックホルム症候群だ。

 今の杉田が、何よりも恐れている変化である。そうならないためには従順になり過ぎず、危険をぎりぎりで回避できる接し方を見極める必要があった。

 この微妙なバランスを崩さないことこそが、助かるための鍵となる。

 そう自分に言い聞かせた杉田にとって、男が次に口にした言葉はある意味ほっとできるものだった。

「別に。俺が興味があるのは、自分のことだけだ」

「僕のことにだって、興味があるんだろ?でなきゃ、そんなことを言うわけがないんだから」

 不敵な顔を作り、生意気に言ってみたつもりだった。

 杉田を抱いていた両腕が突然解かれ、乱暴に彼の顎を掴んで強引に振り向かせられる。上半身に回されていた片腕が、杉田の腰をがっちりと押さえ込んでいた。

「暫く生かしておいてやったら、偉そうな口を叩くようになりやがって」

 何を考えているか読めない表情に低い声を乗せ、男がぐっと顔を迫らせる。

 赤茶色の髪と同じ色の無精髭を生やした、彫りが深くて男臭い顔。

 緑がかった、明るくも淀んだ瞳。

 杉田に逃げ場はない。

 胃がぎゅっと締まり、痛みと吐き気さえ訴えてくる。

 しかし杉田は身体が硬直したことに逆らわず、目をそむけなかった。ゆっくりと腹で息をし、恐怖で乱れた呼吸だけを整える。落ち着き払ったふりをして、アンドリューの目を正面から見返して見せた。

「僕が間違ったことを言ったって言いたいのか?」

「いや、違っちゃいねえさ」

 思っていたより強気な態度に不意を突かれたのだろう。

 杉田を捕まえたまま、男が薄く笑った。

「ただ、ますます虐め甲斐がある奴になったと思ってるだけだ」

「ありがたいね。その分だけ、僕はまだ生きていられるってことなんだから」

 杉田の声は、自身でも驚くほど乱れがなかった。男の挑発を受けても揺るぎがない心が確かに在ることが、更に一歩進む強さを与えてくれたようだ。

「それに、花のことは僕のもう一つの専門分野だ。彼女のご機嫌を取るのにも、これ以上価値がある人間はいないと思ってるんだけど」

 温厚で滅多に怒りを露わにしない杉田が嫌味なほどの自信をちらつかせると、この状況では相手の神経を逆撫でするだけだ。が、そうとわかっていて、彼は敢えて鼻持ちならない態度を崩さなかった。

 男がにやりと笑う。

 彼がもう片方の手で眼鏡を掴み取った時は、流石にびくっと身体が震えた。

「自分の立場ってものを、よく弁えてるじゃねえか。やっぱりお前は面白い奴だよ。簡単に手放すわけにはいかねえな」

 男はむしろ、杉田の控え目な反抗を楽しんでいるようだった。

 そして杉田が拒む暇も許さず、噛みつくように唇を奪う。

 男の熱い舌が強引に杉田の歯を割って侵入し、未来にしか許したことがなかった場所を蹂躙する。

 男二人の吐息と喘ぎが重なった。

 逃げることもできない杉田は溢れようとする涙を抑え、屈辱の責め苦に耐え抜く以外の術を持たない。

 数十秒が数分にも感じられた後、ようやく男は杉田の顎から手を引いた。

 バスルームと隣あったベッドルームに向かう筋肉質な男の後ろ姿を、虚ろな杉田の視線が追う。その黒い瞳がふと、握ったままだった園芸用の鋏に留まった。

 自分が心の安定のためにすがる小さな刃が、電灯の光を受けてきらめく。

 表情を動かさず、筋肉の流れも意識しない。

 杉田が男の背に鋭い先端を振り翳したのは、ごく自然なことだ。

 そう見えてしまうほど、彼の動きには無駄がなかった。

 だが、刃先が振り下ろされた先は己の手首だった。真新しい鋏の突端が、静脈が透けて見えるほど白い手首に食い込む。

 金属の冷たさと痛みが神経に伝わった瞬間、杉田の理性がそれ以上の自己破壊を阻んだ。

 この場で男を殺して脱出することなど、非力な自分で叶えられるわけがない。それどころか、下手に反抗すれば、精神が破壊されるほどの虐待が待っていることは間違いない。

 それに何より、自分が死んでも何の解決にもならない。

 今できる最大限のことは、生き続けて救出を待つこと。

 そして、アジア人の若人を何人も毒牙にかけた犯人の事実を世間に知らしめ、裁きの場で罪に相応な法の鉄槌を喰らわせることなのだ。

 杉田の内なる声が衝動を押しとどめ、鋏の先は皮膚に僅かな窪みを残したところで持ち替えられた。

 今ここで軽はずみなことをしては、未来を裏切ることにもなってしまう。それに犯人に身体を踏みにじられても、心までは決して渡したくない。

 杉田を今まで支えてきたのは、この強い二つの思いがあってこそだ。

 負けるわけにはいかない。

「で、君はいつ僕の友達を連れてきてくれるんだ?」

 彼の口からこの問いが出たのは、未来のことがふと頭に浮かんだからである。何気ない口調での問いかけは、凶悪犯である男にとっても他愛のないものだったようだ。

「もうすぐだよ。仕込みに時間がかかってるだけだ」

 男の声が妙に響いて聞こえてきた。ベッドに身を投げ出して、天井を見上げているのだろう。慌てて杉田が鋏を置き、ベッドに駆け寄る。そうしないと、すぐ機嫌が悪くなるのだ。

 隣に腰を下ろした杉田の顔を見上げた男は、天井を見回す視線とともに考えも巡らせている。その思考が邪悪なものであることを、微妙な色の瞳に冷たく閃いた光が物語っていた。

「お前の友達……いや、妹って言っていいのか。警戒心が強くて、なかなか頭も切れる厄介な奴だ。あいつも手懐けるのに苦労してるらしい。しかし、それくらいの手応えがなきゃつまらねえからな」

「どうやって連れてくるつもりなんだ?」

 いかにも興味をそそられた素振りを見せた杉田の腰に、ごつい男の腕が回される。細い身体が、殆ど力任せにベッドの上へ倒された。

「至って古典的なやり方だよ。あいつの部屋に連れ込んで、眠らせてからこっちへ運ぶんだ。人目の多いところは避けたい」

 寝そべったまま杉田を抱き寄せる男が普通の会話として口にしている話題は、他ならない人間の拉致方法だ。

 以前、彼は言ったのである。

「今にお前の友達も、ここにご招待してやるよ」

 と。

 それが未来のことであると察したとき、心臓麻痺を起こしそうなほどの衝撃に襲われた。

 しかし、サイボーグの肉体を持ちFBI捜査官の彼女をさらうというのが、まさに自殺行為であることに男は全く気がついていない。

 杉田個人としては、未来を余計な危険に巻き込むことなど避けたいに決まっている。一方で、人間相手の戦闘ならまず負けない彼女がここに踏み込みさえすれば、これ以上の犠牲者を出さずに済むという現実がある。

 最愛の者を守りたい気持ちと何もできないもどかしさ、殺人を未然に防げるという希望は、どれもおざなりにできるものではなかった。

 が、結局のところ、自分は助けにすがるしかないのだ、という無力感が一番重く心にのしかかってくる。

 自分は大人なのに。

 男なのに。

 それなのに弱い存在で、何もできない。

 こんな状況で自分を責めるなどお門違いだと、頭でわかってはいる。そう自分を納得させようとしても、感情が止められるわけはなかった。 

「薬は、僕が処方箋を書かなくてもいいんだね?」

 演技のため自分が発する言葉も、まるで他人が喋っているように無機質に感じられる。

 杉田は自己嫌悪の悪循環に沈みそうな自分に気づき、とりあえずはそれ以上考えるのをやめた。

「まだ、俺が不眠症だった頃のがたんまり残ってる。この手は何回も使ってるからな。心配せずとも、必ず成功する」

「楽しみだよ。まあ、彼女がここを気に入るかどうかわからないけど」

 相手の反応を先回りして言葉を用意し、冷たく微笑むことができるようになったのも、杉田には人格が変わっていく課程を押しつけられるように感じられる。

 自己否定を繰り返すというマイナスのルーチンワークにいつまで耐えねばならないのか、未だ見当もつかなかった。

「気に入らなくたって、別に構いやしねえよ。どうせ、すぐにいなくなっちまうんだろうから」

 自らの考えを映し、表情を硬くした杉田をリラックスさせようと思ったのだろう。男がやや痩せた杉田の頬を指先でなぞった。

 彼はまだ熱を帯びている感触にぞくりとして、跳ね起きて手を払いのけたい衝動に駆られた。が、暴れようとした反射反応を何とか抑え込むことに成功し、横たえた姿勢を変えずにいられた。

「そうだな。でもその前に、じっくり遊べるさ。僕が保証するよ」

「そこまで言い切るのか」

 隣の青年の細かい反応は気にせず、皮肉っぽく男がが笑う。捕らえた獲物がそう簡単に懐かないことなど、最初から承知しているのだ。

「何せ、体力は20人前くらいある自慢の妹だからね」

 何もかもがお前の思い通りになると思ったら、大間違いだ。

 杉田が自分を奮い立たせるために喉まで出かかった言葉だったが、今の彼はそれとない皮肉返しをするのが精一杯だった。

「俺はうるさいのは嫌いだが、お前の妹がどんな声で泣くのかは今から楽しみだよ。ぞくぞくしてきちまうな」

 既に手中にある獲物が自分に背くことはないと信じ切っている男が、愉快そうな笑みを唇の端に浮かばせる。先に杉田の頬を撫で回していた片手が今は黒い髪を撫でているが、興奮している様子は特に見えない。この後すぐにまた犯されるのではないかと恐れおののいていた杉田の胸の内が、少しだけ軽くなる。

 大人しくベッドに添い寝をする黒髪の青年の顔から、ふと男は注意をそらした。

 緑がかった瞳が見つめる先は、隅にある古びた白木のサイドテーブルの下に届いている。

 そこに手足がひしゃげた裸のジューン人形が投げ出されていることを、杉田は知らなかった。


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